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護られざる心、護りゆく剣

 朝になっても、昨日の回廊で飲み込んだ言葉は消えてくれなかった。喉の手前でほどけた問いも、返らないまま残った違和感も、まだ胸の底に沈んでいる。それでも講義の準備は待ってくれない。


 翌日、魔術大学の大図書館で、わたしたちはまた資料の山に向かっていた。高窓から落ちる光が机をまだらに照らし、紙の匂いが乾いた静けさの底に薄く沈んでいる。奥まった席では、もうソレイユが分厚いノートと参考文献を開いていた。付箋の色だけが、そこに小さな熱を灯している。


「――うん、導入部分はずいぶん読みやすくなったね。『精霊魔術とは何なのか』という基本を先に出したのは正解だと思う」


 椅子を引いたまま、彼女は原稿用紙へ視線を滑らせていく。親しげなのに、文章の整え方には妙に確かな手つきがあった。散っていた順序が、彼女の指先に触れられるたび、少しずつ紙の上へ落ち着いていく。


「でも、『精霊子』や『場裏』に入る段で、専門用語が一気に増えそう。いきなり深い話に踏み込みすぎると、読む人が少し困惑しちゃうかも」


「やっぱり……。わたしの頭の中では整合が取れていても、読む人に合わせないと、さっぱり伝わらないんだよね」


 ノートの角をそろえる指先が、紙の縁を一度だけ押さえた。


 前世から持ち運んできた知識を基盤に、現世で何度もやり直しながら積んだ理屈。けれど、それを他者に届く形へ翻すのは、思っていたより骨が折れる。ソレイユはそれを承知で、言葉を軽やかに続けた。


「だから、最初の段階で『精霊子ってこういうものなんだ』って、ざっくり掴める言い方がいいと思うの。たとえば、『人の考えや気持ちにふれる、小さな粒みたいなもの』って。まずそこで興味を持ってもらって、それから理論へ進んだほうが入りやすいんじゃないかな。最初から学術用語ばかりだと、どうしても身構えちゃうでしょ?」


「――それで、本論ではそこを理論として詳しく述べていくんだね?」


「うんうん、それが基本だよ。『導入 → 具体例 → 理論 → まとめ』って流れにすると、筋道が見えやすいし読みやすいはず」


 示されたノートを覗き込む。貼られた付箋は見出しの順を取り直し、散らかった原稿に静かな居場所を与えていく。章題の語尾が少し整うだけで、脈の速さまで落ち着いてくるのがわかった。


「本当に、ありがとう、ソレイユ。こんなに手伝ってもらえるなんて思ってなかったから、すごく助かる」


「ううん、全然構わないよ。わたしのほうこそ、未知の分野をこんな近くで覗けるなんて、とっても楽しいの」


「わたしも、ソレイユみたいにまっすぐ受け取ってくれる人に興味を持ってもらえて嬉しいな」


 礼を言ったあと、指先でノートの角を揃える。紙の縁がきちんと重なるのを見て、胸の内のざわつきも少しだけ落ち着いた。


「あなたのお陰で、人に伝わる形へ整えることがどれだけ大事か、よくわかったわ。ただ頭の中にあることをそのまま書き殴るだけじゃ、読み手には届かないのね」


 言いながら、視線だけを背後へすべらせる。ヴィルは変わらず壁際に立っていた。こちらを見ているようで、別の遠さへ焦点を置いているようでもある。その沈黙が、胸骨の裏へ細い針みたいに残る。


「問題は、魔術適性があるだけじゃ精霊子を感じ取れないってことなのよねー」


 ソレイユの声が少し引き締まり、参照箇所を指で辿っていく。頁を払う指の腹から湿りが引いて、わたしの喉もつられるように乾いた。


 精霊族――いや、デルワーズを始祖とするリーディス王家の巫女の系譜がなければ、わたし自身、あの粒子に触れ得たのかどうか。


「たしかに、誰もがってわけにはいかないのが現実ね。みんなが感じ取れたなら、伝えるのも、もっと簡単なんだけど」


 受容体は大脳辺縁系に宿る。情動が強すぎれば回路が焼ける――それが精霊魔術の現実だ。


「あー、わたしもミツルさんみたいに、実際に感じるってどんな感じなのか、味わってみたいなぁ。もしできたら、『疑似精霊体』に何をお願いしようか……って、つい空想しちゃう」


 憧れの光をそのまま瞳に宿す人を見ると、頬が自然に緩む。


 だからわたしは、他者にとっての可能性を開く道に、どうしても肩入れしてしまうのだろう。暗殺術でも、破壊のためだけの力でもない。自然と寄り添い、暮らしを支える術として――本来、精霊族が示していたはずの在り方へ。


「わたしね、いつか精霊族の血筋を受け継いでいなくても、きちんと精霊子を扱える道がひらくことを願っているの。だから、この資料づくりはその一歩……になるかもしれない」


「うん、わたしもそう信じたい。その可能性に立ち会えるなんて、ワクワクするもん。何か手伝えることがあったら、これからも遠慮なく言ってね」


「ありがとう、ソレイユ。頼りにしているわ」


 礼を言ったあとで、また背後の気配を拾ってしまう。ヴィルは動かない。興味がないわけではないはずなのに、その沈黙が今日はやけに遠い。


 そんな自嘲をみぞおちの底へ押し沈め、ペン先を紙へ戻す。


「――はいっ、次のページ! この章の見出し部分をもう少しインパクトのあるタイトルにしてみるとかどう?」


「うん」


 彼女の声に合わせて頁が軽く鳴る。視界の周縁にヴィルの輪郭が居座るのをやり過ごしながら、手は付箋の小山を一つずつ低くしていった。やがて集中が波みたいに満ち、ソレイユが目を細めて笑う。


「おおむね骨格ができた感じだね! 導入と理論のあいだに、具体例をうまく挟めたらもっと読みやすくなると思う。あとは最後をどう締めるかかな。図解とか表の入れ方は、もうちょっと一緒に考えてみようか」


「うん、ありがとう。やっと一段落って感じ……」


 背筋を伸ばすと、使い終えた付箋が掌に軽い丘を作っていた。ここまで来た、と体が先に理解する。


 ソレイユが鞄の口を探りながら、ふっと顔を上げる。


「あ、ちょっと休憩しない? お菓子あるよ、食べる?」


 思わず目が上がる。


「わあ、いいの? 嬉しい。……そういえば、お昼近いし、図書館を出て食堂へ行くのもいいかもね」


 ソレイユはすぐ明るく頷いた。


「うん、食堂行って一息つこう。たしか今日は粉砂糖がかかった揚げパンが出るはず。あれ素朴だけど結構おいしいんだよ」


 ソレイユが立ち上がり、わたしは散らかした紙を重ねた。背後へ目をやると、ヴィルは先ほどと同じ位置にいた。こちらを見ているようで、視線だけはどこか別の遠さを測っている。


――当然……ヴィルも来るよね。


 胸の内で問いかけても、返事はない。小さな苦笑を呑み込み、ソレイユへ顔を向けた。歩き出そうとした瞬間、影が近づく気配がした。


「……昼食に行かれるのですね。それでは、私もご一緒いたします」


 それだけ告げて、彼は一歩退いた。距離を正しく保つ足の運びが、安心をもたらすはずなのに、舌の奥だけが乾く。


 ソレイユと並び、重い扉へ向かう。数歩後ろの足音が一定に続いた。守られている実感と、うまく名のつかない欠落とが、肋骨のあたりで静かに擦れ合う。


 食堂でも、そのぎこちなさはほどけなかった。ソレイユが揚げパンの粉砂糖を指先で払って笑い、わたしもそれに合わせて口もとを緩める。そのたび、ヴィルの整いすぎた受け答えだけが、かえって距離の輪郭を濃くした。


 問いかけても、届かない。近くにいるのに、どこか遠い。そんな感覚だけが、食堂のざわめきの底で、ずっと薄く鳴り続けていた。


◇◇◇


 午後、低く垂れこめた雲が重たい灰色を帯び、窓の外には細かな冷たい雨がちらついていた。湿り気を含んだ空気が窓枠のすき間を縫い、手首の皮膚を薄く撫でていく。


 けれど、大学の応接室の空気だけは妙に熱を含んでいた。呼び出しを受け、この部屋へ足を運んだわたしは、扉を開いた瞬間、胸の奥で息がひとつ止まった。


 ――こんな顔ぶれ、まるで宮廷の重役会議みたい……。お祖父さまが魔導兵団に出向中の“不在”を狙ったのか。


 視線を巡らせると、教授数名が緊張した面持ちでかしこまり、その向かいには貴族たちがずらりと並んでいた。その中で、ひとりだけ異彩を放つ初老の男がいる。


 笑みは穏やかなのに、目だけがまるで別の勘定をしているようだった。さらに奥、壁際にはヴィルが控えている。ああいう時ほど揺れない人だと知っている。その静けさが、今日は妙に癪だった。


 わたしは静かに会釈をし、できるだけ堂々とした足取りで部屋の中央まで進む。周囲の視線が一点に集まるなか、乱れているのは内側だけだと自分に言い聞かせた。


「わたくしに何か御用でしょうか?」


 すると、恰幅の良い年配の貴族がにこやかな笑みを浮かべ、わざとらしく腰を浮かせて名乗りをあげた。


「これはこれは、ミツル・グロンダイル殿。ご機嫌麗しゅう。私めは宰相の代理として参りましたノルド・フロイスと申します。――先王陛下のご治療にも尽力されたとか。噂はかねがね耳にしておりますよ」


 ――どうして、そんなこと知ってるの……まさか、侍医司から漏れたとでもいうの?


 心の中で小さく叫ぶ。顔は動かさない。背後にあるヴィルの気配は静かなままで、その静けさがいまは頼もしさより苛立ちに近かった。


 フロイスはわたしを値踏みするような視線を向ける。口もとは笑っているのに、目だけが最初からこちらの値を量っていた。その目つきに触れた瞬間、わたしの中の底意地の悪いところが、ひやりと顔を出した。


「フロイス様……ああ、そういえば玉座の間の一件でお見かけしましたね。あのときは、隅の方でずいぶんと震えていらっしゃいましたよね?」


 フロイスの眉がぴくりと動き、瞳がわずかに揺れる。


 ――しまった。やりすぎたかもしれない。


 爪が掌へ食い込む。相手の神経を逆撫でしてどうする。状況をこじれさせるだけだと、わかっているのに。


 背後ではまだ、あの人が何も言わない。そのことに腹を立てたまま吐き出した棘だと、自分でわかってしまうのがなおさら苦かった。


 別の貴族が慌ててフォローするように言葉を継ぐ。


「フロイス様は先王陛下のお身体を案じて、一言ご挨拶をと参られたのです。あー……それより本題ですが、ミツル殿がご準備なさっている精霊魔術の講義について、少々伺いたく……」


 どうやら、わたしがこつこつ作り上げている講義資料に興味があるらしい。フロイスは先ほどの動揺を取り繕うように咳払いをし、再び饒舌になって話を続ける。


「あなたが行おうとしている講義は、まことに画期的です。伝説の中にのみ語られてきた精霊魔術、そして古代文明の遺産とも言われる聖剣。その秘められた力によって先王陛下を癒されたという事実は、すでに王宮でも知る人ぞ知るところ。理論としてまとめられれば、国としても大いに価値あるものとなりましょう。そうはお思いになりませんか?」


 ――何が言いたいのか、この男は。


 唇をきつく引き結ぶ。視線がこちらの反応を探るたび、肩の内側が冷えていく。


「そこでですが、魔術大学の内にとどめず、もっと大々的に発表なさってはいかがでしょう? 国内外に広くアピールできれば、あなたへの評価もいっそう高まるかと……」


 周囲の貴族たちは「素晴らしい」「学内だけで終わらせるのはもったいない」「国の宝ですからな」と口々に声を重ね、まるで既成事実のように話を膨らませていく。


「王宮側からの十分な支援も、もちろん確約いたします。警備や会場の拡充も含め、ご心配には及びません。なにしろ、伝説の精霊の巫女の再来とまで称される、あなた様のお力ですからな。これはリーディス王国の威光を周辺諸国へ知らしめる、またとない好機となりましょう」


 紙束を抱く腕に、知らず力が入る。


「精霊の巫女……?」


 その呼び名に、鎖骨の下がきしむように痛んだ。やめてほしい。けれど、口を挟む暇さえ与えてはもらえない。


「まもなく、我がリーディス王国にはシャイヴァルドの使節や、バラセル司教領からの視察団もやって参ります。そこで、あなたの精霊魔術講義を公式に披露なさってはどうでしょう? 国をあげての催しとすることで、異国の要人方にも、我が国の威光と先進性を強く印象づけられましょう」


 彼らが欲しいのは、わたし自身ではない。「精霊の巫女の再来」という看板だけだ。都合のいい旗印として担ぎたい、それだけなのだ。


 反論は、喉元まで込み上げていた。けれど、ここで一から十まで並べ立てれば場の空気はさらに決壊する。わたしは奥歯を噛み、どうにか踏みとどまる。


「イベント……ですか? わたくしは、もともと学生や研究者向けに、こぢんまりと発表するつもりでいたのですが――」


 控えめに返したつもりの言葉へ、貴族たちは「もったいない」「とんでもない」と一斉に声を重ねた。わたしの意志など紙一枚の重さもないと言わんばかりに、もう次の段取りを組み始めている。


 フロイスまでが立ち上がり、わたしの言葉を遮った。


「遠慮はいりませんよ、ミツル殿。若き巫女であるあなたが、我が国の未来を示す絶好の機会です。何しろ、わが国にとって因縁深きクロセスバーナの名が再び表に現れ、しかも不穏な動きを見せている。周辺諸国の視線も厳しい中、こちらも無策でいるわけにはまいりません。あなたの精霊魔術が公になれば、強力な抑止力にもなるでしょう」


「抑止力……?」


 抱えた資料が急に冷たく重くなる。治療のために用いたいと願った力が、いつの間にか外交の武器みたいに扱われているのだ。


 宰相の従者らしき役人が、ひそ声で付け加える。


「宰相閣下は、当日にはぜひ実演も……と望んでおりましてね。なにしろ、巫女様のお力を一目見たいというのは、誰しも抱く願いでございましょう。もちろん、万全の保安体制を敷きますので、どうかご安心を」


 ――実演ですって? 馬鹿なことを。


 大きく息をのむ。彼らが想定している“実演”が、人を救うための静かな術であるはずがない。精霊魔術の破壊の側だけを誇示するつもりなのだと、肌が先に悟ってしまう。

 

 ――わたしはただ、精霊魔術の美しさと優しさを伝えたいだけなのに……。


 声がわずかに震えた。胃のあたりが重く沈む。見回しても、返ってくるのは頷きばかりだった。誰も、わたしが何を怖がっているのかを見ようとはしない。ただ嬉々として、使い道だけを量っている。


 ――いやだ。こんなの、わたしが待ち望んでいた舞台じゃない。


 そのとき、不意に低く静かな声が落ちた。


「――畏れながら申し上げます」


 振り向くと、ヴィルが前へ進み出ていた。面持ちは変わらぬまま。


「本日は総長閣下、いえ先王陛下がお留守中でございます。この講義を国をあげてのイベントに格上げするのであれば、陛下の正式な承諾が欠かせません。ミツル殿の一存で返答するわけにはまいりませんので、何卒、後日改めてお伺いくださいませ」


 声音は決して荒くないのに、その言葉は部屋のなかにくっきり線を引いた。宰相代理や貴族たちが「むっ」とした表情を浮かべ、互いに顔を見合わせる。


 張りつめていたものが、肩からひと筋ほどける。けれど同時に、胸の底へ小さな苦味が沈んだ。ヴィルの横顔は少しも揺れない。こうして救われているのに、その手つきはどこまでも公のものに見えた。


 ――これが護衛騎士の、当然の務めか……。


 フロイスは悔しそうに唇を歪めたが、結局は引き下がるよりほかなかった。


「――では、提案は提案として持ち帰ることにいたしましょう。ミツル殿、近いうちにご返事をいただければ……。外交使節の来訪も近い。今こそ、リーディス王国の先進性を示す好機でございましょう。それと――」


「あなたの父上、ユベル・グロンダイルの汚名をそそぐには、絶好の機会ですぞ?」


 その一瞬、ヴィルの目が鋭く光った。けれど、そこから先は動かない。指先ひとつ、揺れなかった。


 ――やっぱり何も言わないんだ……。


 わたしは動揺を見せず答えた。


「それが何か?」


 睨むでもなく見つめ返す。声だけが、氷の縁みたいに鋭かった。


 父と母に着せられた罪は、冤罪に過ぎなかった。わたしの中では、その事実はとうに決着がついている。いまさら王家がどう扱おうと、そこに心を動かされることはない。


 ――そして、わたしは自分で未来を選ぶためにここにいる。


 フロイスはわたしの目から先に逸れた。


「そ、それでは、これにて失礼いたします」


 取り繕うような言葉だけを残して、彼らは応接室をあとにした。重厚な扉が閉まり、その足音が遠ざかるまで、わたしは息を詰めたまま立ち尽くしていた。


 やがて静寂が戻り、胸の底から長い息がこぼれた。


「はぁ……ヴィル、ありがとう。あなたが止めてくれなかったら、どうなっていたことか……」


 そう言いながらも、同時に胸に苦い澱が残る。ヴィルはいつも通り冷静で、助けられたのは確かだ。けれど、その横顔はどこまでも“職務”の輪郭しか見せてくれない。


 ちらりと視線を向ければ、ヴィルは淡々とした表情を崩さない。その目がわたしへ向いているのか、部屋の安全を見ているのか、判然としないほど無機質だった。


 ――どうして、わたしの気持ちを察してくれないの?


 腹の底で、勝手な苛立ちが小さく爪を立てた。護衛として優秀なことも、この状況を救ってくれたことも、わかっている。だからこそ、心のどこかで別の言葉を待っていた自分が、ひどく幼く思えてしまう。


「この話は、お祖父さまが戻るまで棚上げになりそうだけど……きっとまた来るよね。シャイヴァルドやバラセルが絡めば、ますます大きな動きになるかもしれないし……クロセスバーナも、裏で黙っているとは思えないもの」


 自分の声が心許なく揺れている。ヴィルは微妙な距離を保ったまま黙っていた。戸惑いも不安もこぼしているのに、励ましの言葉ひとつ返ってこない。残されるのは、騎士の沈黙だけだった。


 再び大きくため息をつき、鞄の奥にしまった講義用の資料をぎゅっと抱きしめる。


 このままでは、望まない政治の舞台に仕立てられてしまうかもしれない。そんな危機感が、胃壁を内側から押していた。


 思いを押し殺し、ヴィルを直視しないまま、そっと応接室の扉へ足を向ける。ヴィルもそれに合わせるように動き、数歩退いた位置を保った。


 ――もう、いつもみたいな小言ひとつ言ってくれないんだ……。


 廊下に出ると、雨音が遠くから聞こえてくる。わたしが一歩進むたびに、ヴィルの足音が律儀に続いた。守られているはずなのに、その確かさが今は少しも心を落ち着かせてくれない。


「……離宮に戻ろうか。進めなきゃならないこともあるし」


 わたしがぽつりと言うと、ヴィルは「かしこまりました」とだけ答え、目線を下げて歩幅を合わせてくれた。


 ――いてくれるだけで十分なはずなのに……。


 その冷静ぶりが、今は少しだけ恨めしい。


 雨が降りしきる石畳を馬車へ向かうあいだも、頭の中では宰相代理の申し出が何度も形を変えてよみがえった。シャイヴァルドやバラセル司教領の要人への見世物としての実演要求。クロセスバーナの不穏な動き。どれもが、本来の目的の輪郭を薄い霧みたいに曇らせていく。


 馬車がごとりと揺れて走り出す。ヴィルの姿は窓からは見えなかった。代わりに、しとしとと降る冷たい雨だけが窓ガラスを幾筋もの線にして濡らしていく。


 ――馬鹿みたい……。


 資料の角が、膝の上で指の腹へかすかに食い込んだ。


 重たい灰色の空の下、この雨が止むころには少しだけ景色が晴れるのだろうか。


 答えの出ない問いを抱えたまま、馬車は雨の幕の向こうへ進んでいく。

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