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遠ざかる騎士と、届かない姫

 前日のやり取りは、ひと晩置いてもきれいには畳まれなかった。まだ言葉にならないものを抱えたまま、それでも講義の準備は待ってくれない。


 翌日、静寂に包まれた図書館の奥まった一角で、わたしたち二人は資料の山と向き合っていた。厚みのある古い書物や手書きのノートがテーブルいっぱいに広がり、それらをめくるたび、紙の擦れる音だけがやけに大きく耳を打つ。けれど、わたしもソレイユも、集中の糸を切らす気はさらさらなかった。


 中でも、ソレイユの手は迷わなかった。わたしが何度も線を引き直した頁を読み、少し首を傾げてから、余白に短い印を置いていく。穏やかな声が届くたび、頭の中でもつれていた思考が、紙の上で少しずつほどけていく気がした。


「――ここはもう少しコンパクトにまとめて、冒頭のイメージを広げる方がいいかもね」


 ページをなぞりながら楽しげに提案するソレイユ。先ほどまで散漫だった文章が、短く整えられ、しかも読み手の息を引き寄せるように変わっている。彼女にかかると、埋もれていた芯がすっと表へ出てくる。


 そんなわたしたちのやり取りを、少し離れた場所から静かに見守っていたのはヴィルだった。何か言いたげにこちらを振り返ったかと思うと、控えめに声をかけてくる。


「お二人共、そろそろ昼食を摂られてはいかがでしょうか?」


 その一言でふと我に返り、自分の空腹を思い出した。朝から何ひとつ口にしていないことなど、頭の隅からすっかり消えていたのだ。


 隣のソレイユと目を合わせると、彼女もまた「あっ」と声を上げ、すっかり時間を忘れていたらしい。二人して顔を見合わせた途端、お腹の虫が我先にと鳴き始める。


「……っ!」


 わたしとソレイユは同時に顔を赤らめてしまった。子どものようにそろってお腹を鳴らすなんて、恥ずかしくて声も出ない。ソレイユがこらえきれず吹き出しそうになったのを必死で抑えているのが伝わってきて、わたしも小さく肩をすくめる。


「ずいぶん集中してたみたいだね、わたしたち」


 ソレイユは照れ笑いを浮かべながらヴィルに向き直った。


「ご提案ありがとうございます、ヴィルさん。よかったら、あなたもご一緒しませんか? ずっと待っているだけでは退屈でしょう?」


 その誘いに、指先がほんの少し落ち着かなくなる。護衛として同行してもらうのは当然のはずなのに、こんなふうに三人で並んで食事をすると思っただけで、気持ちの置き場が定まらなかった。


 けれど、ヴィルは静かな笑みを浮かべてすんなりと頷いた。


「そうですね。では、お供させていただきます」


 騎士としてはごく自然な返事だった。なのに、耳へ残る響きだけが妙によそよそしい。いつもの彼ならもっとぶっきらぼうで、もっと体温の近い声をするはずなのに――そう思った途端、喉の奥が細くひりついた。


◇◇◇


 向かったのは、供食台に料理が並ぶ大学食堂だった。石のアーチをくぐると、香ばしいパンの湯気と煮込みの匂い、焼き皿に残る油の温かさが、学生たちのざわめきと一緒に押し寄せてくる。


 窓からの陽がホールの木目に淡く降り、皿の縁にぬくもりが薄く宿っている。食器が触れ合う澄んだ音が、ざわめきの底で細かくきらめいていた。


 ソレイユはトレイを手に、目を輝かせて料理を選ぶ。誰かの皿を見ては「わあ、これもいいかも!」と笑い、足取りまで弾む。つられて、わたしの歩幅も軽くなる。


 一方のヴィルは、わたしたちが好みそうなものを手際よくよそってくれる。さりげない気遣いが嬉しいのに、今日はそのすべてがきれいに整いすぎて見えた。背筋は伸び、動作は寸分の狂いもない。無骨で遠慮のなかった彼の気配を探して、視線だけが宙を泳ぐ。


「ありがとう、ヴィル……」


 グラスの水面がかすかに揺れた。彼は頷くだけで、視線はわたしの肩口の向こうを通り過ぎる。


 そこで言葉が止まった。微笑は控えめに、視線はすぐ逸れる。その丁寧さが、薄い膜一枚ぶんの距離に見えてしまう。


 席に着くと、ソレイユがさっそく話しかける。


「ヴィルさんって、ほんとにきちんとしていらっしゃるんですね。騎士でも、ここまで礼儀正しい方って珍しいかも。ちょっと驚いちゃいました」


 はきはきした笑顔に、ヴィルは表情を崩さず答えた。


「何も特別なことではありません。しばらく現役を離れておりましたが、元はこの国の騎士団に身を置いておりましたので、その頃の習慣が残っているだけです。何より、王家の名を預かる以上、どこで誰に見られているかわかりませんからね」


 穏やかな調子の奥に、冷ややかな鋼の響き。かつて銀翼の旗の下、父の副官として並び立ち、雷光と呼ばれた人。今は王家の聖剣を預かる護衛騎士として、わたしの隣にいる――それでも、伸ばしかけた意識は空を撫でるだけみたいだった。


 ソレイユと交わす他愛ない会話を眺めていると、同じ卓にいるのに、椅子だけが半歩ぶん遠い気がした。背の内側へ、薄い居心地の悪さが残る。食堂のざわめきが、幸いひと息ぶんの逃げ場になっていた。


「そういえば、ソレイユのお父さんってどんなお仕事なの? 前に書類整理を手伝っていたって言ってたでしょう? それが気になってて。差し支えなければ、教えてもらえないかしら?」


 問いかけに、ソレイユは一瞬だけためらい、すぐに笑みをやわらげた。


「ミツルさんは王家のご関係だもの、黙っていてもしょうがないよね。……そうだね、ヴィルさんにも秘密にしておけないか。じゃあ、ここだけの話ということで」


 肘をテーブルに置き、小さく息を吐く。決めたように続けた。


「じつは、わたしの父は軍人なの。士官学校を卒業して以来、ずっと軍に仕えているらしくて、今ではそこそこ偉い立場みたい。でも、子どもの頃のわたしはそんなこと全然知らなくて。ただ、書斎にあふれる資料が面白くて、勝手に読み漁ってたのよね」


 軍人、という一語に、ヴィルがわずかに反応する。視線がわたしをかすめ、意味を探るように揺れた。


 指先のフォークが皿の縁をかすめ、薄い金属音が舌の裏に残る。


「それって……危なくはなかったの? 軍関係の書類って、機密情報も多いだろうし、子どもが扱うには厳しそうだけど」


 率直に問うと、ソレイユは肩をすくめる。


「そりゃあ、今思えばどうなんだろうって感じよね。けど、当時はまったく気にしてなかったし、父も『お前なら大丈夫だろう』って笑ってた。これって、ある意味英才教育というか……うーん、巻き込まれちゃったのかな」


 軽く笑う彼女を見ながら、指先だけが落ち着かない。声を潜めると、周囲のざわめきがちょうど良い音の幕になった。そこへ、ヴィルが静かに口を開いた。


「――お父上とは、セバスティアン・ローベルト殿ではありませんか?」


 空気の温度が一段下がる。ソレイユの瞳が見開かれ、フォークが指先から滑りかけた。


「え、どうして父の名前を知ってるの? ヴィルさん、まさか面識があるとか……?」


 問う彼女に、ヴィルは慎重な目をわたしへ向ける。みぞおちのあたりで呼吸がひと拍ずれた。


「はい、よく存じ上げております」


 セバスティアン・ローベルト。選定の儀の折に出会い、灰月の立ち上げを主導した人。かつて銀翼騎士団では左翼翼長を務め、右翼副官だったヴィルとは旧知の間柄だ。カテリーナが「ローベルトの旦那」と呼んでいたのも、あの人だった。


「ローベルト将軍は、わが国でも知られた有能な軍人です。軍の上層部で情報に明るいという条件を考えれば、可能性はあると考えておりました。ご息女がおられるとは耳にしておりましたが、まさかこのような形でお目にかかれるとは思いもよらず……驚きです」


 ソレイユは視線を落として、気まずそうに口を結ぶ。


「……知らなかったわけじゃないけど、こんなふうに広く知られてるなんて、ちょっと想像もしてなくて」


 沈黙がテーブルに降りる。ヴィルとわたしは言葉を選ぶように視線を交わし、間を置いた。


 やがてソレイユが顔を上げ、恥ずかしそうに笑う。


「……父が軍人なのは本当だし、わたしが書類整理を手伝っていたのもそう。でも、別に強制されたわけじゃないの。だって、楽しかったんだもの。そのおかげで、文書を整理するのも得意になっちゃったんだけど……さすがに軍のお硬い資料ばかりじゃ退屈で、あるとき魔術関連の文書を読んでみたら、それがすごく面白くて……その流れで魔術大学を目指すことになったの」


「なるほど。じゃあ、魔術の道を選んだのも、お父さまの書斎がきっかけだったのね」


 うん、と頷き、好奇心の光をこちらへ向ける。


「そうなの。ここへ入れたのも、たぶん母方の血のおかげで、魔術適性が高かったからだと思う。今は、古今東西の知識と文献が集まるこの大学で、思う存分勉強できて、すごく幸せ。……と、そんなところ、かな」


 ふんわりと笑う彼女の奥に、底の見えない才覚がのぞく。


 背の内側が複雑にざわめいた。軍人の娘である彼女、そしてヴィルの視線。その交差の先に、わたしにはまだ名付けられない何かが動いている気がする。


 ヴィルは完璧な騎士の姿勢を崩さぬまま、向かいに座っている。必要最低限の言葉だけを置く横顔が、肩甲骨のあたりを少し固くする。ほんの数歩先にいるはずなのに、指先の置き場がなくなる。


――いったい、いつの間にこんなにも距離ができてしまったの……?


 淡い寂しさがみぞおちのあたりで固くなる。ヴィルの視線はわたしに触れず、公務にある護衛を演じ続ける。


――だめだ。やっぱり言葉が喉の手前でほどけてしまう……。


 苦い思いを抱えたまま、わたしは食事を早々に切り上げた。ソレイユが「大丈夫?」と覗き込む。わたしは作り笑いでかろうじて返す。


「さすがに、いろいろ混乱しちゃって。頭の中を整理しないとね……」


――彼の近くにいて、こんなに息が詰まるなんて。いったい、どうしたの……?


 ひと言「ゆっくり休め」があれば、それだけで救われたのに。そう思ったところで、はっと背筋を正す。


 今は講義の準備が先。ソレイユが手を貸してくれているのだ。自分の感情で、彼女の時間を曇らせたくはない。


 スープの最後の一口を飲み込む。舌に残る塩味がやけに薄く、空腹だけのせいではないと、内側の声が囁いた。


◇◇◇


 食後、ソレイユは「忘れ物を取りに行く」と軽やかに走っていった。


 ヴィルと二人、食堂を出て回廊へ。石床の冷えが靴底からせり上がり、ランプの炎が壁に揺れを落とす。袖裏の布の感触を、指先でそっと確かめる。


 それでも彼は、舞台の上の騎士のようだった。フォーマルな言葉遣い、過不足のない所作――さきほどまでと同じ丁寧さで、わたしを護る姿勢を崩さない。全部が少しぎこちなく見えるのは、気のせいではない。


「ヴィル……ここのところ、あなたの態度、おかしくない? いったいどういうつもりなの?」


 抑えた声が、広い回廊で薄く反響する。炎の揺れが影を伸ばし、二人の輪郭を別世界へ切り分ける。


 ヴィルはわずかに身を引き、表情を動かさない。


「ミツルお嬢様――」


「だから、その呼び方はどうしてって聞いてるの!」


 自分でも苛立つ本当の理由がわからない。


「ご心配には及びません。騎士として、当然の振る舞いをしているだけです」


 さらりとした音色が、皮膚の内側を冷たく撫でた。袖口を整える仕草まで隙がなく、あの朴訥さが見当たらない。息を一つ噛み殺し、掌で裏地をそっとつまむ。


「でも……あなた、こんなふうにかしこまった言葉遣い、今までわたしの前でしたことなかったじゃない。ねぇ、いったいあなたに何があったの? どうしてそんなふうに……わたしのこと、避けているの……?」


 声の端が尖る。理由がほしい。その思いが胸の中の空気を押し上げる。


 それでもヴィルは足を止めず、わたしが詰め寄るたびに半歩ずつ歩を早める。


 半歩の差が、踏み出すたびにもう半歩へ増える。靴音だけが、わたしと彼の間を測っていた。


「ミツルお嬢様。どうかここでは声を立てないでください。人目がある場所で不用意な会話をするのは賢明ではありません。それと、私はあなたを避けているわけではありません」


 振り向かないまま落ちる声は、無機質な鎧の奥から聞こえるみたいだ。言葉がそこで途切れ、体の内側に空洞が開く。


――あなた、いったい何を考えているの? どうして問いかけても、まっすぐ届かないの?


 鼻先の息が震え、視線を上げる。彼の背筋が、微かに強張った。


 理由は――きっとある。わたしには告げられない何か。わたしを傷つけないための伏せ事。けれど、知らされない隔たりほど、辛いものはない。


「何か……あるんでしょう? どうして教えてくれないの? もう、隠し事はしないでほしいって……そう思っていたのに」


 細い声は風に削がれ、石壁に飲まれる。彼は一歩、また一歩と距離を取る。追いついても振り返らない背に、手のひらが空をすくうだけだった。


 熱が耳の奥で膨らみ、焦りへ転がる。優しいはずの人が、冷えた殻の内側に籠もる――そのほんの数歩が、遠い。


 風が走り、ランプがひときわ揺れた。乾いた足音の間が伸びて、わたしたちのあいだを裂いた。


 沈黙に耐えきれず、もう一度声を――と口を開きかけたとき、回廊の向こうに大学職員の影。ヴィルはそれを捉えるなり、歩を緩め、わたしへ優雅にかしずく。さっきの拒絶が嘘のように、公務の護衛を完璧に再演する。


「そろそろお時間です。参りましょう、お嬢様」


 その声は、わたしにではなく役目に届いた。


 涼やかな声は、わたしを護るためだけの音だと思い知らされる。


 今こそ「違う」と叫びたいのに、仮面をはがす術を持たない。職員の視線の下で――王家の養女と騎士――と見られている自覚が、舌裏の乾きを呼び、境界線をさらに深く刻む。


――ただ、答えが欲しいだけなのに。どうして、こんなにも遠ざけられるの……?


 やるせなさを飲み込み、視線を落としてその背を追う。問いかけても、返るのは整った沈黙ばかりだった。唇の裏まで出かかった言葉は、灯火の影に吸われて足元へこぼれ落ちた。


 回廊の灯が足元を黒く塗りつぶすたび、心のもどかしさが増幅していく。わたしと彼のあいだを隔てるものは何なのか――その答えがわかるのは、きっとまだ先だ。


 灯心が小さく弾け、闇がすぐに塞ぐ。届かないままの一歩を、足裏だけが覚えていた。


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