力の背後に潜む脆さ
その一言を合図に、わたしは〈場裏・白〉を次から次へ領域展開した。ひとつの突風じゃ足りない。白を並べ、領域部分解放を継ぎ足すみたいに叩きつける。足元には別の薄い白を敷き、領域部分解放で砂をふわりとほどいた。
束ねた超高圧縮空気の塊が前方へ途切れず叩きつけられ、甲殻を打つ音が乾いて跳ねる。舞い上がる砂が歯に触れ、息がざらりと熱を帯びていった。巨体が踏ん張りきれず、ずり、と押し戻されていく。
「いけーっ!」
わたしの声が、勝手に叫んでいた。押し返されるたび、芯に甘い痺れが弾ける。動きの遅い巨大な砂袋を、ただ殴っているだけみたいに。相手が反撃しないことが、よけいに気持ちよさを澄ませる。口の中に焦げた甘さが広がり、笑いが先に漏れそうになる。黒い翼が翻り、砂の渦がその軌跡をなぞった。視界の中心だけが妙に澄み、周囲の音が薄紙みたいに遠のく。
背の奥から精霊子が雪崩れ込む。底がないはずなのに、流れ込む速さが速すぎて、受け止める側が追いつかない。こめかみの奥がじわりと熱を持ち、言葉の意味が端から削れ落ちていく。守るための圧だったはずなのに、押すこと自体が目的へすり替わっていく。
魔獣はまだ動かない。動かないまま、見える目がゆっくり赤く濃くなっていく。風が一拍だけ沈み、砂の粒が落ちる音まで際立った。甲殻の隙間で鈍い擦過音が一度だけ鳴り、砂が一点だけ跳ねた。
《《美鶴、もうやめて!》》
茉凜の声が、遠くで鳴る。届いているのに、意味だけが滑り落ちる。わたしの内側で熱が膨らみ、指先が掴む場所を探してしまう。
目が赤に染まり切った瞬間、空気がさらに硬く張った。圧縮された風が弾け、景色の縁がわずかに歪む。時間が遅く感じられ、魔獣の巨体が押されて、ずりずりと後退していくのが見えた。
「はははっ!」
声が勝手に高く跳ねた。唇が乾いているのに、笑いだけが滑らかに出る。
「図体ばかりね。お前の力とはこの程度なの? もっと、もっとこっちに来てみるがいい!」
言葉が尖るたび、口の奥がひりつく。それさえ愉しい。砂の帯がめくれ上がり、風の筋が一本、魔獣の腹へ食い込んでいく。
もう一度、圧を重ねる。前の白が薄くなる前に、次の白を領域展開して継ぎ足し、領域部分解放を渡していく。翼の付け根が熱いのに、掌は冷たい。冷たさのほうが、先に笑う。
《《美鶴、だめだ! こんなのあなたじゃない!》》
茉凜の声が、さらにかすむ。
魔獣が、もどかしそうにこちらへ迫る。遅い。遅すぎる。わたしはそれを笑ってしまう。
赤い目が焦点を失ったように揺れた。困惑しているのが見えて、息がふっと軽くなる。
「ほら、手も足も出せずで悔しくないの? ねぇ、もっと楽しませてよ、これじゃつまらないわ……」
口元が勝手に歪む。声が低く落ち、背筋がぞくりとする。怖いのは、本当はそれなのに。
次の瞬間、魔獣は姿勢を崩し、体をねじらせながら抵抗する。けれど、その動きは空回りで、砂だけが削れていく。
「さあ……次はもっと強くいくよ!」
束ね直した圧を、連ねた〈場裏・白〉から次々と領域部分解放で放つ。圧縮空気が爆ぜ、魔獣がさらに押し戻される。景色が揺れ、黒い翼がその中で舞う。
「図体ばかりのお前ごときが、このわたしを倒せるとでも思ったのか?」
耳の奥に針を刺されるような音がして、焦点の外側が白く欠けていく。なのに、身体は軽い。声も意見も、輪郭だけ残して剥がれていく。
魔獣の抵抗が弱まるたび、熱が増していく。手のひらの汗が乾く前に、次の波を放ちたくなる。
「思い知るがいい。これが……わたしの力よ。あっはっはっ!」
わたしは一度だけ押し込みを緩め、白の段をずらし直した。前列を領域解除し、次の白を領域展開して束ね直す。空気が周囲から集まり、渦の中心がわたしへ寄ってくる。息の奥が、空洞みたいに軽い。
あともう少しで決められる。そう思った瞬間――
「馬鹿野郎がっ!!」
鋭い怒声が背後から突き刺さると同時に、突然、何か大きなものに覆い被さられた。息が詰まるほどの圧迫感。指先に白の縁がまとわりつき、引き剥がされないまま、視界が反転する。ふわりと身体が浮き上がった。
「えっ!?」
理解するより先に、わたしがいた空間を黒紫の閃光が疾走した。砂が裂け、空気が一線で切られたみたいに鳴る。押し続けていた白が一拍遅れてほどけ、前方の砂が重く落ちた。
「なんで!?」
口の中に残っていた焦げた甘さが、冷水で洗われたみたいに消えた。
宙に浮いている。誰かの腕にしっかり抱き上げられている。肋の内側が後追いで震えた。
「ほれ見たことか、慢心と油断が隙を生む!」
その声に思わず上を向くと、視界の先には金色のぼさぼさ頭と無精髭の男が、険しい顔つきでわたしを見下ろしていた。
ヴィルだ。怒りと焦りが混ざり合った目が鋭い。口調は荒いのに、その腕だけは一切ほどけない。落とさない、と決めている力がある。
「ヴィル……!」
状況が飲み込めない。さっきまで魔獣を押していたはずなのに、今は彼の腕の中だ。頬が時間差で熱を帯び、心拍が耳の裏まで跳ね上がってくる。
「俺が助けに入らなかったら、お前は今頃奴が放った『棘』の餌食だったぞ?」
「棘」――その一言が耳に触れた瞬間、息が止まった。さっきまでの軽さが引き潮みたいに消え、冷たいものがじわじわ身体の内側を染めていく。
「え……う、あ…?」
声にならない音が喉の奥から漏れた。反射で、わたしは彼の胸元に顔を埋めた。ヴィルは強く抱きとめ、隙間を一切許さない張り詰めた気配が肌に伝わってくる。
「奴はお前が力を緩める隙を待っていた。顔や外郭の隙間にある棘は飾りなんかじゃない。あれは防御の奥の手だ」
ヴィルの声は鋭く冷ややかだった。その言葉が刺さるたび、指先の熱が引いていく。わたしの掌が汗で冷たい。
「でも……」
言い訳を紡ごうとして、喉が詰まった。今さら何を並べても、あの一瞬は戻らない。
「力に溺れるんじゃない、ミツル」
静かで力強い声が落ちる。腕の重さが、不思議と温かい。
ヴィルはそっとわたしを地面に降ろし、目を伏せて言葉を継いだ。指先に残っていた白の縁が、あとから離れていく。
「お前は確かに強い。だが、それを使いこなせるかどうかは別だ。慢心すればいずれその力に呑まれ、足元を掬われる。これはユベルが最初にくれた――俺を変えてくれた、大切な言葉だ」
彼の声には戒めの硬さがあった。見上げた横顔に、抱え込んだ影が一瞬だけ差す気がして、みぞおちがきゅっと縮む。
「……ごめん、ヴィル……」
か細い声が、途切れがちに漏れた。叱られたからじゃない。制御が抜け落ちたあの刹那が、底知れない冷えとして戻ってきた。
ヴィルがわたしの顔を見つめる。少しだけ微笑む。その穏やかさの奥に、諦念の影が滲む。けれど同時に、優しさも含まれていた。
肩の力が、わずかに抜けた。戻ってきた現実の重さが、逆に救いみたいだった。
「ま、お前が無事ならそれでいい……。だが、これだけは忘れるな。俺たちは力を誇示するためにここにいるんじゃない。守るべきものを守るために力を使うんだ」
その言葉が耳へ落ちた瞬間、足裏の砂が急に冷たくなる。さっきまでの熱が泡みたいに消え、胃の底から冷たいものがこみ上げた。
わたしは、押し勝っているつもりで、相手の待ちに気づかなかった。
「……そうね……あなたの言う通りだわ」
声は驚くほど小さく、かすれていた。
ヴィルは小さく息を吐き、少しだけ緩んだ表情でわたしを見た。
「俺が知る限り、お前は賢い奴だ。浅はかさは似合わん」
地面の感触が足裏へ戻る。彼の腕から離れた途端、後悔が押し寄せ、わたしは俯いたまま肩を震わせた。
「でも、どうすれば……」
言いかけた声は、彼の眼差しに飲み込まれるように消えた。ヴィルは肩に手を置く。その重みが、奇妙なほど心を落ち着かせる。
「分かってるさ、だからここに来た」
掌の温もりが、言葉の代わりに伝えてくる。
「ミツル……お前はまだ、一人で抱え込むには早すぎる。俺や仲間たちがいる意味を忘れるな」
厳しさの奥に温度があって、それが息の奥へ沁みこんでくる。言い返す余地など残らない。
「……うん、わかった……」
震える声で応じ、かすかに顔を上げた。
「さてと……ここで説教にかまけている暇はない」
《《美鶴? ヴィルの言う通りだよ? 少しは反省しなくちゃね?》》
耳元で微かに響く声に、はっとする。茉凜の優しい声音が、剣の中から諭すように囁いている。
《《でも、あまり自分を責めすぎないでね。大事なのは失敗を糧にして、次に切り替えること。これはわたしの経験則でもあるっ》》
その言葉が触れると、苦しさが少しだけほどけた気がした。わたしは心の中で、短く頷く。
「そうだね。茉凜の言う通りだ……」
そう口にした瞬間、甲高い金属の擦れる音が耳に届く。
ヴィルが二本の剣を抜き放ち、凛とした眼差しで前方に構えを取る。右手には見慣れた細身の剣。刃が光を拾い、冷たい稲妻みたいなきらめきが走った。
左手には、重厚でしっかりとした厚みを持つもう一本の剣。鈍い輝きが砂埃の向こうで沈み、ただ重いだけの刃じゃない、と肌が先に理解してしまう。
「では、ミツル。行くぞ」
彼の視線が鋭くわたしを捉え、耳の裏で脈が一拍遅れて跳ねた。わたしは焦りを息の裏へ押し込み、気を引き締め直した。
《《あなたは一人じゃない。いんや、一人ぼっちになんてさせるもんか。わたしもヴィルも同じ気持ちだよ。だから、一緒にいこう》》
荒く、噛みしめるような茉凜の声が、胸の内へ真っ直ぐ響く。整った言葉よりも、いまのわたしにはずっと力強かった。
――ばかだな、わたし。どうして一人になりたがっていたんだろう……。
迷いが、砂みたいに指の間からこぼれていく。
「うん、行こう。一緒に!」
しっかり返事をして、ヴィルの背中を追った。並び直した足取りに、まだ震えは残っている。それでも、その震えごと置いていかない、と小さく決めていった。




