衝動の黒い翼
「ミツル。お前は降りて馬車を守れ!」
鞍革の冷たさが掌に張りつき、心拍が一段速まる。馬車列の端がふっと乱れ、誰かの叫びが砂に裂けた。
その音が、胸の奥で固いものを叩いた。理解はできる。理解できるから、息が詰まる。砂の冷えが足首から上がってきて、喉の奥が急に乾いた。
赤い光が、まぶたの裏でひとつ揺れた。鉄の匂い。ぬるい空気。舌の先に、塩みたいなものが触れる。誰かの声が、命令の形で重なる。記憶は、思い出すものじゃなくて、いま噛みついてくるものだ。
最終防衛ライン。筋が通る。脅威の分散。強い魔素に引かれる習性。わかる、わかる、わかる。だからこそ、置いていくな、と言いたいのに、言えば邪魔だと知っている。知っているのに、胃の底が冷えたまま戻らない。
――だめだ。守るなら、先に折るしかない。
考える間もなく、身体が先に動いた。飛び降りた瞬間、黒鶴が底から湧き上がり、背の奥で骨が鳴るみたいに大きな黒い翼がひらく。
「お、おいっ!?」
驚きに満ちたヴィルの声が背後で跳ねた。けれど、わたしの意識はもう前へ滑っている。
足元に〈場裏・白〉を領域展開し、領域部分解放。圧縮された大気が噴き上がり、軽い身体を一気に上へ押し出した。
幌の天幕が目の高さからすべり落ち、馬車の列が小さくまとまっていく。
視界が急速に広がる。砂煙に巻かれた隊商の馬車群、その間を右往左往する人々。馬の白目、荷台の軋み、荷がぶつかる鈍い音。息が粉っぽくなり、奥歯の裏に砂が残る。
《《美鶴!? 待って!》》
茉凜の声が胸の内側で弾んだ。そこで一瞬だけ、足元が抜けそうになる。けれど、指が締まった。
――だめだ。待っていれば、折れる。荷物だけじゃない。人が飲まれる。
赤は駄目だ。〈場裏・赤〉で叩きつければ、熱の余波が馬車を巻き込む。白で遮っても、守り切れる保証がない。
――ならば、青。
敵の直近に〈場裏・青〉を置き、水圧の逃げ道を塞いで撃ち抜く。
前世で出会った場裏・青を操る術者――『鳴海沢洸人』が得意とした、鎗水。
足元の〈場裏・白〉を細く刻み、宙で身体を留める。風の圧が頬を撫で、翼の付け根が熱を帯びた。
意識を沈める。まぶたの裏の白へ、一本の線を引く。
「お願い。あいつを貫く槍を、細く絞った無数の水の槍を叩きつけて……」
声が宙へ落ちると同時に、巨大魔獣の至近を囲むように〈場裏・青〉を領域展開した。周辺の水分が引き寄せられ、領域の中で一気に凝集していく。
――領域部分解放。
無数の水の槍が極細の柱となって、音が遅れて追いつく勢いで降り注いだ。
「そんな、ばかなっ!?」
槍は甲殻の稜線で裂け、白い霧になって跳ね返った。霧が砂へ落ち、細かな雨みたいに散っていく。耳の奥が詰まり、唇の裏がぱりつく。
「至近距離からなら、鉄だって切り裂くウォータージェットだぞ! なぜ防げる!?」
胸の奥がひやりと落ち、背中へ冷や汗が走った。
その瞬間、魔獣の赤い目が不気味に光った。空気が一瞬、硬く張り、視界の縁がぎし、と軋む。
「くっそう……」
《《美鶴、一度下がって。あいつは簡単な相手じゃない。ヴィルの言うことを聞くのよ!》》
「だけど!」
喉が乾き、舌の奥がひりつく。翼の付け根が熱を孕み、頭の奥がじり、と焦げた。耳奥がきいんと鳴り、視界の端が白く滲む。
このままで済ませるわけにはいかない。剥けていくのに、同時に心地いい。
ホバリングを解き、姿勢を下へ向ける。自由落下。風が頬を裂き、砂の匂いに金属の酸味が混じる。魔獣の頭頂部に鈍く光る赤い目が二つ見えた。
「そこなら、どうだ!」
目線が一点に絞られる。敵の目の前へ〈場裏・青〉を領域展開した。
ゼロ距離で、水圧の減衰を許さない領域部分解放。瞬時に集まった水が渦を巻き、次の瞬間、鋭く細い槍となって撃ち出された。
直後、魔獣は叫びとも呻きともつかない異様な鳴き声を上げた。発声器官などないはずなのに、その音が生き物のふりをして骨を揺らす。
「よし、いける!」
他の目を潰すことを考える。頭頂部に二つ、顔の側面にもいくつも――ああいう形なら、視界を稼ぐ器官は一つじゃない。
「すべて潰す……!」
肋の内側が熱くなり、指先が勝手に動きたがる。赤い目が、憎悪を向ける印に変わっていく。
《《美鶴、落ち着きなさいって。状況を見極めるのが大切だよ!》》
茉凜の声が心の奥底から響く。なのに苛立ちが先に立つ。止まれと言われるほど、熱が増す。
自由落下から〈場裏・白〉の領域部分解放で姿勢を制御し、わたしは魔獣の前へふわりと降り立った。靴底に砂のざらつきが移り、翼がゆるやかに羽ばたく。優雅さが、どこか嘘みたいだった。
《《だめだって、美鶴。精霊子が一気に集まりすぎて、負荷が大きすぎる!》》
領域解除を意識しても、白の縁が指の奥に残って切れない。呼吸だけが浅く、軽い。
「だから何なの? 茉凜、あなたは黙ってて……」
声が、自分のものじゃないくらい低い。笑っているのに喉の奥が焦げ、口の中に苦い匂いが残る。眼前にオブシディアン・アラクニドがいるというのに、胸の奥が妙に軽い。
破壊の衝動に身を委ねていた。抑えきれない力が、全身を満たしていく。
「おい、そこのお前……」
ぎろりと魔獣を睨みつける。同時に精霊子がさらに流れ込み、皮膚の内側が熱い。息が浅くなるのに、怖さは遠い。
魔獣は一瞬、動きを止めた。わたしが放つ闘気に圧されたかのように。
口元が微かに緩む。前方に巨大な〈場裏・白〉を領域展開する。最大出力まで引き上げ、圧縮した大気を束ねていく。
「くっくっくっ……」
笑い声が漏れるたび、喉がひりついた。風が低く唸り、砂が足元を撫でる。
「こっちにおいで、図体ばかりのどんくさい魔獣さん」
子どものお遊戯みたいな言葉が口をついた。止まらない。止められない。
「さあ、このわたしを楽しませてよ!」
《《だめっ、美鶴! 自分を抑えて!》》
歯の根が浮くように疼き、焦点の外側が白く欠けていく。冷静なはずだ。茉凜が恐れているような暴走ではない。ただ……何もせずに甘んじることが許せないだけだ。
「目障りだ……お前は、ぶっとべ……」
衝撃の余波が産毛を寝かせ、熱の帯が頬をかすめていく。
その一言を合図に、〈場裏・白〉を領域解放した。束ねた超高圧縮空気の塊が、前方だけへ叩きつけられた。




