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魔術大学に射す新たな光

 グレイハワード――先王陛下であり、王立魔術大学の総長でもあるお祖父さまが、一月以上にわたる療養を終え、ふたたび現場へ戻ることになった。


 表向きは「軽度胃炎の治療ならびに療養を終えてのご公務復帰」。けれど、その文言の下にはいくつもの思惑が沈んでいる。叡智と魔導技術研究の要たる人が長く床に伏せれば、国の基盤は静かに軋む。情報は厳格に伏せられ、研究室の出欠ログや教授会通達の行間にまで、薄い緊張が滲んでいたという。


 実際の病名と病状を知るのは侍医司と、ごく限られた者だけ。わたしが聞かされたのは断片で、その焦りが「拉致事件」という最悪の引き金になった。それでも、あの苦境を越えてカルテが開かれ、専門家たちと肩を並べて治療へ踏み込んだとき、ようやく病の奥に触れられた気がした。


 離宮での面会は、「療養中につき静養優先」として長く制限され、外へ伝わったのは「治療による一時的な公務調整」という表層の文言だけだった。にもかかわらず、その静けさは憶測を呼び、「王家の内紛」といった浅い噂が歩き回る。耳に触れるたび、みぞおちがひやりと固くなる。


 けれど今日――お祖父さまが大学へ戻る。わたしにとっても区切りだ。憶測が少しでも晴れるのなら、それだけで救われる。何より、一度は離れた学び舎へ、お祖父さまと並んで戻れるという事実が、冷えていた掌へそっと戻る体温みたいに確かだった。


 石造りの玄関から馬車へ移る。座面の革はまだ冷えていて、スカート越しにそのひやりとした感触が移ってくる。鼻先をかすめるのは、かすかな油と革の匂い。深く息を吐くと、胸のつかえが薄くほどけた。


 車窓の外では、丹念に手入れされた庭が朝の光を受けている。芽吹いた薄緑が風に揺れ、露の粒が息の拍に合わせてかすかに震えていた。確かめるみたいに指先を握り直すと、節の下で脈が静かに跳ねる。


 正門へ向かうまでの道はよく整えられていて、車輪が継ぎ目を越える瞬間だけ、腰へ小さな衝撃が届く。


 三月の空は澄み、冷えた空気が街のざわめきを遠くへ押しやっていた。吐いた息が、ひと拍おいて頬に淡く返る。


 外を並走する護衛騎士たち。視線が自然と中央へ引かれた。


 王家の象徴たる純白の聖剣を託された騎士――ヴィル・ブルフォード。


 短く揃えた金の髪が朝の明るさを拾い、青い瞳は濁りのない硬度を帯びている。肩の動きに合わせて制服の縫い目がかすかに鳴り、手綱を取る手には余計な力みがない。視線が触れた一瞬、背筋が自分でも意識せず伸びた。


 愛馬スレイドの鼻息が白くほどけ、金具が控えめに鳴る。蹄が石を打つ乾いた音に、護衛たちの視線が一斉に集まった。その収束の速さが、彼の声より先に統率を語っていた。


 建物の角を曲がると、ヴィルの指示が鋭く走る。


 合図に合わせて騎士たちの肩線がそろい、動きがひとつの向きへ流れ、視界の凹凸がすっと平らになる。わたしの鼓動が一拍遅れて、そこへ重なった。


 ――こうして見ていると、やっぱりずるい。かっこいい、なんて言葉、あんまり素直に認めたくないのに。


 心の中でこぼれた言葉に、自分で先に照れてしまう。視線をわずかに外へ滑らせ、袖口をそっとつまんだ。頬の内側だけが、妙に熱い。


 王立魔術大学の正門。


 門前の人だかりに低いざわめきが走り、すぐに礼節の静けさへ吸い込まれた。


 学生たちの足音が増え、こちらへ向く視線の気配が場の粒立ちを変える。飾り気の少ない馬車でも、この護衛なら目立つのは当然だった。背中の筋をひと筋ずつほどくように、呼吸を合わせる。


 中庭へ入ると、噴水の水音がはっきりと耳を洗った。濡れた石の匂い。花壇の香りが風に薄く運ばれて、鼻腔の奥でほどけていく。


 馬車が止まり、外で合図が鳴る。副官の手が差し出された。わたしはドアノブに触れ、裾の位置を指で確かめてから、その掌へ軽く重心を預ける。先に石畳の目地を見て、凹みに足先を合わせてから、一歩。


「お祖父さま。さあ、どうぞ。足元にお気をつけを」


 背後の気配に振り向き、腕を取る。足取りは以前よりしっかりしていた。安堵が肩甲骨の下で温かく広がる。


「おお、ありがとう。……やはり、ここの空気は格別だね」


 目を細め、建物と広場をゆっくり見渡す。声には小さな自信が混じり、わたしの呼吸も自然に整った。


 背後でヴィルの声が飛ぶ。靴底が石を擦る音、鎧布の擦過。音の層だけで守りが立ち上がる。


 回廊を抜け、総長執務室へ続く廊下へ入る。歴代の賢者の肖像が静かな圧を保ち、床の紋章が光を鈍く返していた。歩幅を合わせるたび、石が控えめに音を返し、足裏の皮膚がその硬さを覚える。


 護衛が室内を確認し、扉が開く。高い天井。隙間なく並ぶ書棚。古書とインクの匂いが薄く層を作っていた。


 お祖父さまは愛用の椅子へ腰をおろす。分厚いクッションが沈み、布が小さく鳴る。その肩から、ひと筋だけ緊張が抜けたのが隣でわかった。


「うむ……この椅子がいちばん落ち着く。ようやく戻ったと骨身に染みる」


 その表情はやわらかい。離宮の寝室で見た青ざめた横顔が、少しずつ遠ざかっていくようだった。


「お祖父さま、お元気になられて本当によかったです。未だ根治に届かずとも、今があるだけでも、わたしは……」


 膝をつき、喉の奥へせり上がる熱を押しとどめる。お祖父さまは小さく首を振り、視線で落ち着けと告げた。


「十分だ。君が見いだした手立ては、この老骨にとってまさしく救いだった。礼を言うよ」


 掌の中心へふっとぬくもりが差す。恐れの名で呼ばれてきたわたしの力が、人を救う方向へも伸びていくのだと、指先の脈が受け止めた。


「お祖父さま。実は、ここへ戻ってきた以上、わたしにはどうしてもやりたいことがあるのです」


 言葉を置く前に、息を細く吐き、肩の高さをそろえる。


「ほう、それで――何をやるつもりだね?」


 期待の響きが、空気の密度をわずかに上げる。わたしはいったん視線を机の端へ落とし、唇をそっと整えた。


「もう……とぼけないでください。元を辿れば、お祖父さまが『やってみないか』と仰ったことでしょう? 忘れてしまった、なんて聞いたら、わたし、ちょっと拗ねますよ」


 抗議のつもりなのに、語尾が思ったよりやわらかく落ちてしまう。お祖父さまは大げさに身をのけ反らせ、額に手を当てた。


「おっと、そうであったな。……精霊魔術の講義の件、すっかり棚に上げていた」


 その仕草が可笑しくて、喉の奥で笑いを押し返す。


 机上の紙の端が、指先の体温を映してわずかに反る。言葉に触れる前の静けさが、室内の光を薄くやわらげていた。


「――やっぱり。……でも、お祖父さまもお忙しかったのですから仕方がありません。わたしだって、治療のことばかりで、その件を頭の隅へ追いやってしまっていましたし」


 言い終えて呼気を整える。喉の奥の熱が少し沈み、膝の上の布地がさらりと冷えて触れた。


「難題続きだったとはいえ、孫娘との約束を曖昧にしてしまうとは。……互いに忙殺、ということで手打ちにしてくれるか」


 冗談めかした声音に、肩の力がほどける。先王の影より、家族の気配が手前に立った。


「はい。何よりお祖父さまのご説得のおかげで、侍医司の皆様のご協力を得られましたから」


 口にした途端、胸の中央にあった固さがゆっくりと解けていく。掌の内側が温まった。


「……それに、離宮の書斎や書庫へ立ち入ることをお許しくださったことも、です」


 いったん言葉を切る。机上の紙の端が、指先の体温を映してわずかに反った。あの時はただ必死だったのに、振り返れば、鍵も文献も、手を伸ばせる位置へ静かに置かれていたのだとわかる。


「わたし、自分で辿り着いたつもりでいても、あとから思い返してみると、道だけは最初からちゃんと開けてくださっていたのだと気付かされます」


 お祖父さまはほんの一拍だけ目を細めた。否定も肯定もしない、あの研究者の微笑。


「さて、何のことかな。許可はしたかもしれんが、そこまでのことだ。君の叡智と聡明さ、そして洞察。その組み合わせが扉を開けたのだよ」


「……ほら、またそうやってはぐらかす」


 抗議の色を乗せたつもりなのに、声の端が少しだけ甘くなる。封筒の角を指先で撫でるふりをして、口元が緩みそうになるのをやり過ごした。


「侍医司の件にしてもそうです。ぜんぶ『君が自分で掴んだことだ』って、知らんぷりをしておられました。そういうところが、ずるいのです」


 そう言いながら、喉の奥では別のものが温まっている。自尊心を傷つけずに選択肢だけを渡し、こちらが手を伸ばした形へ整える。それがお祖父さまの愛情であり、同時にかつての王の統治の在り方そのものでもあることを、わたしはもう知っていた。


「そうかね。わたしはただ、彼らの好奇心に火を点けただけだ――『面白いものが見られるぞ』とな」


「まあ、そうでしたか。お祖父さまも、相当な意地悪をなさいますね」


「何がだね?」


 軽いやり取りの間に、廊下の遠音が細く差し込む。室内の張りがひと息、やわらいだ。


「カベスタニー首席侍医が持参したカルテですけれど、あれ、最初は本気で意地悪かと思いました。分厚い上に、筆跡の入り混じりや医家用語の使い分けが巧妙で、どこから手をつければいいのか、少しだけ呆然としてしまいましたから」


 手にした封筒の角が爪の先に触れ、紙のざらつきが現実の輪郭を戻す。


「だが君は、見事に読み解いてみせた――そう聞いている」


「はい。ですが、お祖父さまは、それも最初から見通しておられたのでしょう?」


「もちろんだとも。君の日々の研鑽の積み重ねを、わたしは高く評価しているつもりだ」


「まったく、そこが意地悪いのです」


 言い返しながらも、口元がゆるみそうになる。古書とインクの匂いが、静かに濃さを増していった。


「でも、そのおかげで、わたしはずいぶん救われました。実際の医療の現場へ立たせてもらって、ようやくわかったんです。わたしの力は、ただこわがって遠ざけるだけのものじゃないのだって。ちゃんと、人のために使えるものなのだって」


 いったん息を吸い、言葉を選ぶ。胸の奥で灯ったものを、こぼさないように抱え直した。


「……だから、やってみたいんです。精霊魔術の講義を。わたしが扱う力は、戦うためだけのものじゃないってことを、わたしなりの言葉で、きちんと伝えてみたいんです」


 言葉に込めた熱が、肋骨の内側でふっと灯る。指先をそっと握り直し、呼吸を深いところへ落とした。


「大いに結構。ではあらためて教授会に諮ろう。日取りと会場はわたしが整える」


 差し出された掌の重みが、皮膚の内側まで温度を運ぶ。脈拍がゆるやかに整った。


「ありがとうございます、お祖父さま……いえ、総長閣下」


 そこで少しだけ言葉を区切る。


「ですが、本当にご無理だけはなさらないでくださいませ。これは治療担当者からの厳命ですし……その、孫からのお願いでもあります」


「これは一本取られたな。他ならぬ君からの命だ。従うとしよう」


 窓からの白さが書類の角に細い縁を描き、部屋の奥へやわらかな影を押していく。計測器の金属縁に、ひんやりとした色が寄った。


 廊下の向こうで、ブーツの底が石を擦る気配。ヴィルが位置を移したのだとわかる。横顔を思い浮かべた瞬間、肩甲骨のあいだがかすかに熱を持った。今日、何度目かもわからない。


 お祖父さまと一緒に、この学び舎へ戻ってきた。講義の話も、ようやく口にできた。窓の外を駆ける学生たちの足音まで、どこか明るく聞こえる。


 ――ちゃんと、始まるんだ。


 そう思ったら、胸の奥が小さく跳ねた。怖さはまだある。けれど、それ以上に、やってみたい気持ちがある。


 わたしはそっと背筋を伸ばし、お祖父さまへ向き直った。今は、それで十分だった。

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