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抗う離宮の巫女

 瞳を開き、ゆっくり顔を上げる。雲の裂け目に淡い光がにじみ、庭を囲う梢がかさり、と乾いた音で擦れ合った。


 頬を撫でる風は細く冷たい。瞼の裏に焼きついた緊張は、氷の縁だけがほどけたようだった。けれど、高揚と不安はまだ息の底に薄く残っている。


 ここにいる理由を見失わないように、膝の上の指をいったんほどき、そっと組み直した。


 肺の奥へ、冷えた石の匂いを含んだ空気を入れる。喉の内側が薄く刺され、呼吸がひとつ整う。わたしはヴィルの方へ、身をわずかに傾けた。


 閉ざしていた思いが、喉の奥で自然に形を取り、問いへと滑る。


「まず、ヴィルに聞きたい。あなたが口論していた相手って……王宮からの使者だったのでしょう? それも、ただの使いじゃない。何か別の思惑を抱えて来た。……違うかしら?」


 しん、としたテラスに声が染み込む。わずかに硬い響き。それでも、聞かずにはいられなかった。


 わたしの言葉に、ヴィルの眉がぴくりと揺れ、唇が強く結ばれる。短い沈黙。遠い枝葉の擦れる気配が、時間を細く刻む。


 やがて彼は観念したように視線を上げた。澄んだ空気のなかで、気配と気配が触れ合い、鼓動がひと拍だけ速くなる。彼のまなざしにも、戸惑いが薄く溶けていた。


「……その通りだ。連中は『国王の命令で、離宮の管理状況を確認しに来た』と言い張っていたが、実際はお前をどう引きずり出すか、その口実を探ってやがるようにしか見えなかった」


 あの文官の冷たい目つきが、遅れて肌を這った。


 肩の内側がじわりと粟立つ。


「『警備が甘い』だのと好き放題抜かしやがって。俺が目を光らせて調べはついてるってんだ。門番の交代名簿や物資搬入の帳合いにまで、一分の隙もない」


 ヴィルの声には、静かな自負が滲んでいた。剣ではなく帳面に触れてきた手つきが、膝の上でわずかに名残を見せる。


 ――苦手だって言う書類仕事までも、あんなに必死にやっていたのは、そういうことだったのか。


 門番の名簿に細い字で書き込まれた交代の時刻。物資の帳合い。門の開閉、荷車の数、出入りする顔。


 そのひとつひとつが、彼の目を通して、この離宮の盾になっている。


 静けさの底には、ヴィルの目と執念が張り巡らされているのだと思う。胸の奥で、冷えと、それを打ち消す熱がひそかに交じり合った。


「なるほどね……。あの値踏みするみたいな視線で、なんとなく察してはいたの。わたしを偶像みたいに担ぎ上げて、利用したいのかなって……」


 胸の底で、冷えた水面がひと揺れする。名ではなく、札として数えられる気配に、指先がうっすら痺れた。


「それにしても、あの王様にも困ったものね。玉座の一件で、あれだけ痛い目を見たのに……まだ懲りていないだなんて」


 乾いた笑いを装ったつもりなのに、喉の裏だけがひどくひりついていた。


「ま、向こうから見れば、わたしなんて所詮子供ってわけね。ずいぶん舐められたものだわ」


 口内に苦みが広がる。


 偶像という音が、胸の裏を鈍く突く。持ち上げ、祀り上げ、意志を奪う舞台。華やかさの裏で、足場が砂のように崩れていく未来だけは、二度と許さない。


 前世のざらついた記憶が指先へ戻り、風の冷たさと交じり合う。


 息を整えると、ヴィルの低い声が続いた。


「悪かった。隠し事はしないと約束したってのに。伝えるべきかどうか迷ってるうちに、なかなか言い出せなくなってな」


 わたしは首を横に振った。


「気にしないで。おかげでお祖父さまの治療に専念できたんだもの」


「……それはそうなんだが。この間のこともあって、どうにも心配でな。余計に……」


 ――ああ……。


 抱きすくめられた夜の熱が、頬の内側に薄く蘇る。裏で進む事情の重さ。わたしは自分のことで手一杯だった。うつむいた彼の視線が床の石目に落ちる。その姿に、胸の奥がかすかに疼いた。


「あ、あなたは、何も悪くないわ。わたしの方こそ、約束しておきながら、ずいぶん迷惑をかけてしまったし。寝る間も惜しんで働いているって聞いたときはびっくりしたけど……ずっと、守ってくれていたんだよね。それに――」


 言葉にしかけただけで、腕に残った夜の熱がもう一度そっと脈を打つ。


 喉の奥にひっかかった戸惑いごと、いまはまっすぐ返したかった。


「あの時は本当に……助かったわ。感謝してる」


 意識して微笑む。


 芝居ではない、届いてほしい言葉。彼の表情がわずかに緩み、息がひとつ静かに吐かれた。


 安堵は一瞬だけで、風がさらりと横切る。肩に降りた冷えに、わたしは膝掛けの縁をそっと摘んだ。


「へえ、二人とも妙な顔をしてるけど、この間って、いったい何があったんだい?」


 カテリーナの声が、軽い冗談めいて滑り込む。けれど、笑いの底で目だけはひとつも遊んでいなかった。


 わたしとヴィルは顔を見合わせる。どちらも口を開きかけて、その先が出てこない。


「いや、それは……その……」


「別に……何も、ないぞ。ないったらない」


 煮え切らないわたしたちに、彼女は眉をわずかに跳ね上げ、肩をすくめて笑った。


「ふーん。ま、いいさ。そういうのは大切にすべき秘密だろうしね。詮索するつもりもないよ」


 からかいに混じる、小さな配慮。


 彼女の目の色がすっと変わる。風がひとすじ抜け、さっきまで浮いていた軽口のぬくみだけが、石の冷えに攫われた。


「さて、それよりも本題に移ろうか」


「うん。お願い」


「あんたたちも感じてるだろうけど、王都で妙な動きが加速してるって話さ」


「クロセスバーナの手の者が暗躍している――そういうこと?」


「それがだね、そうとも言い切れないんだ」


「どういうこと?」


「内も外も関係なく、裏じゃ色んな連中が糸を引いてる気配さ。ローベルトの旦那も相当警戒してる。まったく、あたしらの新設部隊『灰月』は、本来クロセスバーナを睨んで組まれたはずだったんだがね……」


 言葉が空気の膜を切り裂く。


 わたしは自然に背筋を伸ばした。耳の奥で、乾いた葉が石を転がる微かな音がした。


「つまり、わたしを狙っているのは、クロセスバーナの密偵だけとは限らないってことね。たしかに、ラウールの情報通りなら、これみよがしに動くなんてあり得ないでしょう」


 散らばっていた断片が、頭の中でひとつの線として噛み合った。


「そうね。たとえば、わたしを拉致した一件みたいに、代理人を何段階にも噛ませて、尻尾を掴ませないやり方のほうが、ずっとらしいと思えるわ」


 冬の空気が頬を撫でたのに、背の内側だけがじわりと熱を持つ。見えない視線が、離宮の壁の向こうまで這ってきている気がした。


「……むしろ、表で騒がしいのは王都周辺の貴族や諸侯ではないかしら? 交易の利が絡めば、思惑はもっと複雑に軋み合うはずよ。そればかりじゃない。周辺諸国にとっても、リーディスの動向は放っておけないでしょう?」


 書簡の差出人と年代、封蝋に刻まれた紋章が、頭の中でひとつの地図へ結び直っていく。夜更けの書斎で拾った断片が、ようやく盤面の形を取りはじめていた。


 隣でヴィルの気配がわずかに揺れる。


 守りたい気持ちと、わたしを止めきれない現実。そのズレが、わたしたちの間に長い影を引いていた。カテリーナが首を傾げ、続きを促す視線を寄越す。


「たとえば――いま警戒すべきは、北のシャイヴァルドと東のバラセル司教領よね。とくにシャイヴァルドは要注意よ。過去にも“聖戦”を名目に、こちらへ攻め込んだことがある」


 言いながら、膝掛けの端を指でならす。


 紙の上では、国境線は細い墨にすぎない。けれど、その線の向こうで人が動けば、こちらの息まで変わる。書簡の余白に残る押印の歪み、古い外交文書に混じる不自然な空白。そういう小さなものが、いまは石の冷えよりも重かった。


 思考を進めるたび、ひとつの懸念の先にまた別の火種が浮かぶ。頭の中で散っていた線が次々と結び直され、言葉だけが途切れずに続いた。


「そして、バラセル司教領。東の神聖都市連合よね。穏健を装ってはいるけれど、内側では司祭派閥が幾つもせめぎ合っている。かつては武闘派の司祭が騎士団を率いて『異端排除』を唱えたこともあるし、政治に長けた高位司祭が、王都に『国教の改革』をちらつかせてきたこともあった。先王陛下が崩御すれば、教義の改変で混乱を誘って、そこへ付け込む。目に見えているわ」


 言葉にしたぶんだけ、喉の奥が冷たくなる。


 王家が揺れれば、波は必ずこちらへ届く。逃げ場は薄い。だからこそ、立ち止まれない。


「それだけじゃない。西のアルトリーネ、北東のイスファル公国、セティア連邦。どこも、王統の隙となれば利を取りに来る。アルトリーネは巨大ギルドが政治を牛耳っているし、イスファルは魔石と香辛料で進出の機会を狙う。セティアなら海路を押さえて、沿岸港を取り込みたいはずよ……」


 言い終えたところで、テラスの空気がひと呼吸ぶん沈んだ。


 カテリーナが小さく息を呑み、ヴィルも低く唸るように息を吐く。


「……あんた、ずいぶんと詳しいじゃないか。あたしにだって筋は見えるが、そこまで来ると一国の宰相か、情報部の首席分析官が扱うレベルだよ。いったい、どこでそんな情報を手に入れたんだい?」


「本の虫なのは知っていたが、まさか王都の動きだけじゃなく、まわりの国の腹のうちまで読んでるとはな。まったく、お前には驚かされるばかりだ」


 ふたりの視線が重なる。


 わたしは肩をすくめ、膝掛けの端を指先でならした。


「べつに、わたしだって魔術書や医学書ばかり読んでたわけじゃないわよ。お祖父さまの許可をいただいて、書斎にある政治関係の書類や、諸国と交わされた書状にも目を通していたから、あちこちの動きが見えてきただけ」


 書斎に積まれた書簡の山が脳裏によみがえる。


 紙の乾き。封蝋の色。差出人ごとの癖のある筆致。散らばっていた断片は、並べ替えてみれば思いのほか正直だった。


「それにね……意図的に隠された情報でも、年代と差出人を照らし合わせれば、ある程度の推測は立つものなのよ。領境の曖昧な線や同盟の組み合わせが見えてくると、その先の一手まで、案外透けて見える。……そういうところ、書簡って思った以上に嘘が薄くて、興味深いわ」


「へえ……貯め込まれた宝の山を漁ってたってわけか。確かに、あそこなら国じゅうの腹のうちが集まる。で、同盟の線や取引の匂いまで拾えたのかい?」


 噴水の止まった水盤に、曇天が滲む。


 わたしはその鈍い明かりを見つめたまま頷いた。


「ええ、意外とね。書簡の時系列を並べるだけでも勢力図は見えてくるものなのよ。……そしたら、あちこちで不穏な思惑が動いているのが見えてきたの」


「大したもんだ。……で、あんたはどう考えてるんだ? この状況で、自分はどう動くべきだと思ってる?」


 軽口めかしていても、目の奥の測る色は消えていない。


 ヴィルもまた黙ったまま、わたしの横顔を見ていた。わたしは息をひとつ整え、小さく微笑む。


「まず、迂闊には離宮を出られない。市街はなおさら危険でしょうね。それに、わたしが表立って動くのは得策じゃない。情報が足りないのはもちろんだけど、わたしを発端として何か起きれば、シャイヴァルドが真っ先に『我々こそ正統な守護者だ』と言い出す口実になる。他国まで『ならばうちも』と手を伸ばしてきたら、もう目も当てられないわ……」


 砂塵と喧噪のイメージが、喉奥を乾かす。


 膝掛けを引き寄せ、身震いをひとつ飲み込んだ。


「そうかい。あたしがわざわざ説明するより先に、あんたの中じゃもう盤面が見えてたってわけだ。話が早くて助かるよ」


「心配性なのよ、わたし。ついつい考えてしまって……」


――最悪なんて、外れてくれればいいんだけど。……こういう嫌な予感に限って、当たることも多いのよね。


「いや、悪くないさ。まさか、先王が長年積み上げてきた知と経験を、こんな短いあいだに噛み砕くとはね。恐れ入ったよ」


 カテリーナは呆れ半分、感心半分の目。肩をすくめる。


 わたしは水盤の縁へ視線を落とした。水は止まっているのに、雲の影だけが少しずつ形を変える。書簡も同じだと思う。動かない紙の上に、動いている人の影が残る。


「記録って、とても正直よ。感情を削ぎ落としたような文面できれい事を並べ立てていても、裏の意図は透けて見える。だから怖いの。いま王家が揺らげば、各国は出し惜しみせず手を伸ばす。隣国同士が裏で結託して、一挙に畳みかける可能性だってある。そうなれば、交渉で時間を稼ぐ間に、さらに第三の勢力が……」


 そこまで言って、舌の上で言葉を留める。


 悪夢の連鎖に呼吸を与えたくなかった。


 ――わたしが、その呼び水になってはいけない。


「動くにしても、こちらの準備が整ってから。でなければ、利用されるのがオチよ。おそらくクロセスバーナの狙いは、この盤面における漁夫の利。古代の秘術という奥の手もあると聞くし、決して油断はできないわ」


 吐息が白く滲み、空気へ溶ける。喉が少し渇く。


 短い沈黙のあと、カテリーナは腕を組み直し、ヴィルは渋い顔のまま何かを測るように視線を揺らした。


「……まさかそこまで考えていたとはね。情報屋のあたしの面目、丸つぶれじゃないか――いや、冗談抜きで、うちの部隊に引き抜きたいくらいだよ」


「それは勘弁して。わたしは離宮で集められる情報を整理しただけよ。こういうのって、机上の空論っていうんじゃないのかしら?」


「それはそうだ。……ま、いざというときは、あんたの視点も役立てるさ。ローベルトにも伝えておく」


 肩の力が、ようやくひと筋ぶん落ちる。


 お祖父さまが書斎を解放してくださった理由が、いまはよくわかる。


 ――あの方は、決して答えを教えない。わたしに材料だけを差し出して、どう結ぶかは委ねる。教えて、諭して、危ないから動くなと止めるのではなく、自分で考えさせる。


 それが、お祖父さまらしい愛情なのだと思う。


「了解。こっちも何かあったら声をかけるわ。……それまでは、書斎の宝の山を、もう少し掘り下げてみる」


 横目でヴィルを見る。


 表情はまだ固い。けれど、途切れない言葉の端に、守ろうとする熱だけは残っていた。その確かさが、わたしの呼吸を静かに整える。


「……それにしても、王宮は何を考えているの? 周辺の思惑があるからこそ、わたしを囲い込みたいと焦っている? それはわかるけれど、クロセスバーナがどんな揺さぶりをかけて来るかわからないのよ。こんな時に足元を掬われたらどうするの?」


 独り言が透明な冷気に溶ける。


 遠くで鳥が一声。曇天の裂け目から淡い光がのぞき、石畳の水たまりに細い波紋が広がった。


 わたしは小さく頭を振り、膝の上で手を重ねる。


 動きたい。


 けれど、いまは読む。


 肩口のマントを寄せると、冷えた布の縁が喉元に触れた。ヴィルは少し離れて立ち、言葉の代わりに、確かな視線だけを寄越している。


 その視線に甘えすぎないよう、背筋をほんの少し伸ばした。


 灰色がまた視界を満たし、テラスに薄い陰りが落ちる。光が消えた水面は、冷たさの深みを静かに取り戻す。


 不安はある。


 決意もある。


 そのどちらも、まだ名前をつけきれないまま、同じ場所で小さく息をしていた。


 ――それでも、わたしは歩んでいくしかない。


 前の記憶を抱え、今の心を離さず、王家の思惑も他国の策も受け止めたうえで、最後には自分の足で立つために。


 ふと、雲の裂け目がわずかに開いた。


 細い光が石肌に触れ、すぐ消える。けれど消えたあとにも、濡れた石の上には、ほんのかすかな明るさが残っていた。


 わたしはその小さな跡を見つめたまま、冷えた布の縁をもう一度、指先で押さえた。

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