二度と同じ思いはしない
三月が近いのに、離宮の庭は芯まで冷たかった。澄み切った空は高く、風に晒された木々の枝先が、硬い音を立てそうなほど震えている。
テラスの石に伝わる冷えを膝掛け越しに感じながら、本を開く。活字は目の表面を滑るばかりで、指先がページの縁をめくるたび、乾いた紙の音だけが小さく鳴った。ひゅう、と細く鳴る風が頬の産毛を逆立てるたび、肩がひとつすくむ。
コツ、コツ――眠気の縁から引き戻すように、硬い靴音が近づいてくる。
漆黒の軍服に銀のラインが光る、背の高い女。丸眼鏡の奥の目は気難しそうで、薄く結んだ唇、きっちりまとめ上げた灰みの髪に、意志の硬度が走っている。
思いがけない人影に、心臓がわずかに跳ねた。
「カテリーナ!」
足取りは昔と変わらず、自信に満ちている。けれど軍服に宿る空気は、かつての奔放さよりも、迷いを断った人の静かな熱を帯びていた。
小さく息を呑んだわたしの前で、彼女は口元だけをやわらげる。
「久しぶりだね。元気にしてたかい?」
飄々とした声に、凍った空気がひと匙だけ解ける。わたしは本を閉じ、膝の上で指先を揃えた。懐かしさの奥で、肩甲骨のあいだがきゅっと寄る。
「あなた、どうしてここに?」
素っ気なく聞こえた自覚はある。それでも、知りたかった。風が言葉の尻を冷やし、頬に細い針のような痛みが走る。
ローベルト将軍の独立部隊――彼女が招かれたと聞いた。まさか本当に軍に戻ったのか。確かめたい気持ちが、口の中で冷えた。
「ずいぶんな言われようだ。顔を見たくなった、なんて理由じゃだめかい?」
軽口は昔のままだった。けれど、眼差しの奥にうっすら緊張が張りつくのは見逃せない。わたしは背筋を伸ばし、膝の上の手をぎゅっと握った。
「わたしが聞きたいのは、そういうことじゃなくて……」
言いかけて、唇を噛む。
無礼になっていないだろうか、と躊躇う一拍。気配を察したのか、彼女は眉をひとつ上げ、笑みを深めて、小さな包みを差し出した。
「ほら、これ。あんた、こういうの好きだろ?」
紙越しに甘い匂いがほどける。下あごの力がふっと抜け、目元がゆるんだ。
「……これって、まさかセイレン焼き?」
思わず声が弾む。
カテリーナが、くすりと笑った。
「そうだよ。前にあんたが好きだって言ってたじゃないか。離宮住まいじゃ出てくるのは洒落た菓子ばかりだろうし、食べ飽きてる頃だと思ってね。こいつにしたってわけだ」
魚の型の生地は香ばしく焼け、包みを開けば屋台の匂いがふっと立つ。鼻先でそっと吸い込むと、王都の市場のざわめきが遠くで揺れ、喉の奥に小さな自分が一瞬だけ戻ってくる。
「ありがとう。とってもうれしいわ」
素直な言葉が出た。
カテリーナは胸を張り、当然だ、と言いたげに得意顔になる。
「焼き立てからそう時間は経ってない。温かいうちに食いな」
「うんっ!」
弾む返事が、冷えた空気をひとつ跳ねさせる。
ひと口かじると、薄皮が軽くはじけ、とろりとしたカスタードの甘さが舌に広がった。指先へ移るぬくもり、湯気が頬を撫でるやわらかさ。みぞおちのあたりがゆっくり温まり、瞼の縁が思いがけず潤む。
「おいしい……。なんだか泣けてきそう」
自分でも驚くほど素直な声がこぼれた。
若緑のウィッグ。おもちゃの剣。駆け回った路地。戻らない景色が、肺の奥をやさしく押し上げる。
気づけば一つを平らげ、二つ目に伸びかけた指先を、カテリーナがいたずらっぽく咎めた。
「おいおい、そんなにがっつくもんじゃないよ。王家のお姫様なら、もっと礼儀よく、慎み深くないとね」
舌先の甘みが、すっと引く。
「お姫様」という言葉に、背の中心がこわばった。
「……いいじゃない、たまには少しくらい。それに、わたしはお姫様じゃなくて、養女なの。ここに滞在して守ってもらうための方便だってことくらい、知ってるくせに」
強めの調子が自分でもわかって、喉の奥が熱くなる。
けれど、カテリーナは肩をすくめただけだった。
「一応そうらしいね。けど、周りはもう、そうは思ってないんじゃないかな?」
「……それが困るっていうのよ。いろいろと大変なんだから」
口にした途端、胃のあたりがちくりと疼く。
真なる聖剣の資格者。精霊の巫女の再来。誰かが勝手に重ねていく称号。両親に着せられた罪は、濡れ衣だったのではないかという囁き。
気づけば、わたしは注目の中心に立っていた。
「……そうだね。確かに大変だ」
彼女の声が少し沈む。
沈黙が間に落ち、風がまた冷たさを運んでくる。
わたしは、彼女の軍服の縫い目へ目を留めた。硬い生地が肩の線を固め、銀のラインが冬の光を跳ね返す。
ああ、この人は戻ったのだ。
布の重みで、ようやく実感が宿る。視線に気づいたのか、彼女が苦笑まじりに肩をすくめた。
「何だよ、その顔。何が言いたいかは、わかってるけどさ」
わずかな自嘲が、口元に滲む。
わたしは意を決して、口を開いた。
「……ねぇ、どうしてまた軍に戻ったの? あなたは王家や軍を嫌っていたんじゃなかった?」
問うた瞬間、喉がごくりと鳴る。
彼女にとって、触れると痛む場所だと知っている。それでも知りたかった。父の苦悩と、彼女の胸の重さが同じ形をしている気がしたから。
カテリーナは視線を落とし、ひとつ深く息を吐いて、顔を上げた。
「思うところはいろいろあるさ。けど、理由はただ一つ。もう二度と、同じ思いをしたくないから」
端的な言葉の奥に、決意が灯る。
父の影が自然と結びつき、うなじの温度がわずかに上がった。
「……それは二十年前の、父さまに関わること?」
言葉にした途端、舌の裏がきゅっと詰まる。
あのとき――母メイレアを連れて出奔した父は、王女誘拐の犯にされた。
テラスの手すりに当たった風が、短く鳴る。
『申し訳ありません。お父様――。王族としての責務を捨て、国を抜け出す行為がどれほどの重罪であるか、私も理解しております。どうか私を罪人として裁いてください』
母の文字が、掌の内で薄く脈打つ。
「そうさ……」
短い返事ののち、彼女はわたしの隣に腰を下ろした。
横顔は穏やかではない。けれど、どこか吹っ切れた陰影があった。
「あの時のあたしたちは、無力だった……」
軍服の硬い膝布の上で、握りしめた拳だけがかすかに震えた。
「ユベルは国も民も守ろうと死に物狂いでやってたのに、理不尽ばっか押しつけられて、追い詰められていった。なのにあたしは、かばってやることもできなかった。……悔しかったよ、骨の髄までね」
吐き出した白い息が、甘い菓子の匂いさえ押しのけて、冬の空へ細く散る。
わたしは何も言えなかった。
カテリーナの指の節が、軍服の上で白くなる。そこに残る力だけが、二十年という時間の厚みを告げていた。
「でも、いつまでもそこで止まってるわけにはいかない。だから――今度は娘のあんたを、何が何でも守る。それがあたしの償いだ。使える手はなんだって使う。軍に戻るくらい、へでもないさ。それに、上はローベルトの旦那だけだし、あたしにしちゃ気楽なもんさ」
静かな言葉ほど、痛みを含む。
みぞおちの辺りがじんわり温かくなる。けれど、その重みにどう応えればいいのかわからなかった。
「……そんなこと、しなくたっていいよ。わたしはそんな、大事にされるような存在じゃないし」
俯きかける首を、どうにか支えた声だった。
彼女の「償い」に、自分が値するとはとても思えなかった。
「馬鹿言ってんじゃない」
ぽん、と頭に軽い衝撃が落ちる。
強さより、温度の方が先に届いた。
「王家の血筋だとか、精霊の巫女だとか、見てくれなんざ知ったこっちゃない。あんたはユベルの娘だ。それ以上の理由が要るのかい? あんたが無事であること、やりたいことをして前に進むことが、あたしにとってもヴィルにとっても、一番大事なことなんだ」
言葉はまだ、うまく受け取れない。
けれど、頭に残った掌の温度だけは、すぐには消えなかった。
重い足音が、庭先の砂利を低く鳴らす。
二人同時に振り返ると、冬の光を背にヴィルが立っていた。鋭い視線と均衡の取れた立ち姿が、空気を一瞬で張り詰めさせる。背筋が自然に伸びた。
「おい、お前たち。何をコソコソ話してるんだ?」
低い声に、熱が頬へ上がる。
視線が逃げた。
「……別に、何でもないよ」
動揺を拾われた自覚と、拾われる確信。
彼の口角がわずかに上がる。内心を見透かされたようで、呼吸が浅くなった。
「それにしちゃ、随分と張りつめた顔をしてるな」
からかい混じりの声に、言葉が見つからない。
彼の視線がカテリーナへ移る。
「ところで、カテリーナ。お前がここに来た理由は何だ? ローベルトが言っていた独立部隊はどうなった? あれから報せがなくて気を揉んでいたぞ。……まあ、その格好を見ればだいたい察しはつくがな」
問われた彼女は、一瞬だけ眉間を寄せる。
それから口の端を歪め、軍服の裾を小さく揺らした。
「……そりゃあ、用事があるから来たわけなんだが? そこらも含めてあんたたちに伝えておきたいことがあってね」
声の奥に、冷えた金属のような重みがあった。
喉の奥で、息が自然に整う。けれど、さっきまで刺さっていた棘は、彼女の言葉のおかげで少しだけ丸くなっていた。
冬の庭は、霜の予感を含む冷たさを深めていく。吐く息が白くなり、指先が膝掛けの下で細かく震える。それでも、舌の奥にはまだ、セイレン焼きの甘さが残っていた。
わたしは息を整え、膝の上で指を組み直す。
カテリーナの軍服の銀線が、冬の光を細く返した。
次に来る話を、聞かなければならない。
そう思うと、崩れかけていた背筋が、ほんの少しだけ伸びた。




