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紙束の午後、名づけられない夜

 魔術大学の大図書館。その奥まった一角で、わたしは一人、机に向かっていた。


 革装の背表紙が高く積み上がり、古紙と埃の匂いが薄く満ちている。椅子がこきりと鳴り、肘に当たる机の冷たさが、皮膚の内側へゆっくり沈んでいった。


 高窓から落ちる粉塵の帯が、頁の縁に薄い金を置いている。遠い時計は一定の間隔で鳴り、静けさの底へ、小さな刻みを落としていた。


 目の前には、書き散らしたノートの束。


 綴られた文字がこちらを押し返すみたいで、肩の力が知らず固くなる。


 精霊魔術の講義。――精霊子の基礎と、〈場裏〉の安全運用を核に据える、と決めている。〈場裏〉の安全運用は、剣が編む術の土台だ。情報体の刃ほど、基礎の手順に救われる。


 その資料をまとめるために、ここへ来てどれほど経ったのだろう。


 行を追っては書き足し、消しゴムの粉が白く舞う。糸口は指先でほどけては、また絡まった。


「やっぱり……人に伝えるための文章を組み立てるのって難しすぎるのよ。頭の中では筋道が通っているのに、形にしようとすると――全然まとまらないんだから……」


 囁きは、静寂に沈む図書館へ吸い込まれていく。息の音さえ染みるような場所だった。


 けれど、その小さな声を拾う耳があった。腰に下げた剣――白きマウザーグレイルに宿る茉凜の、軽やかな声がこめかみの内側で弾む。


《《美鶴ったら、また変なところで力んでるね。ほら、一回休憩したら? 甘いものでも食べてさ》》


 眉間に指を当てる。


 焦りが、喉の奥へ重く沈んだ。


「でも、講義本番まであと三週間しかないんだよ。導入から基礎理論の章ですらまだ未完成。量ばかり膨らんで、このままじゃ冗長で伝わらない。聞く人も、きっと眠くなっちゃうわ……」


 言葉が胸の底でほどけ、浅い呼気になって出る。


 茉凜は、あきれ半分の長い吐息を返してきた。


《《ほんと、真面目で几帳面すぎるのがあなたの悪い癖よねぇ》》


「何が悪いっていうのよ?」


《《度合いの問題なの。美鶴って気を回しすぎて、あれもこれもって盛ろうとするから――だから散るの。いくらマウザーグレイルの処理や推論が優れてても、最後に要約して受け取りやすく整えるのは講義者の仕事だよ。つまり、あなた次第なんだから》》


 言い方は軽いのに、逃げ道だけをきれいに塞がれた気がした。


 みぞおちの内側が、きゅっと縮む。


「そんなこと、わかってるわよ」


 弱くこぼした声に、茉凜の調子がわずかにやわらぐ。


《《ま、応援してるから頑張りなさいな》》


「応援じゃなくて、手伝ってほしいわ」


《《残念でしたー。わたし、剣の中からどうやって手伝えっていうの――って話》》


「……ああ、手首が痛い。猫の手でもタコの手でも借りたいくらい……」


《《タコといえば、あー……タコ焼きたべたいなぁ》》


 また始まった。


 茉凜の食べ物妄想。


《《タコは魚市場で手に入るとしても、問題は出汁だね。あと、青のりとか鰹節とか。手に入らないにしても、なんとか自作できないものかねー》》


「はいはい……そっちで好きにシミュレーションしてて。今はそれどころじゃないの」


《《ちぇっ。美鶴のいけず》》


 ぷりっと拗ねる声音が可笑しくて、口角が少しだけほどける。


 ノートへ視線を戻すと、その笑みは紙の白へ吸われて消えた。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。


 少し離れた本棚の影に、ヴィルの気配がそっと立っていた。


 革表紙の許可証の角は冷たかった。付き人は一名まで――それがこの大学の規則で、今の彼はその枠でわたしのそばにいる。


 わたしが頼んだ必要そうな表題の本を、彼は黙って差し出す。革の匂いと、手袋越しの体温が指先に移った。言葉は交わさない。けれど、穏やかな眼差しがこちらにとどまっているのはわかった。


 ありがたいのに、それだけでは済まない何かが、胸の奥で小さく騒いだ。


 紙の端をそろえる指先の癖が、ふいに父の手の記憶へ触れる。


「……そんなに、心配そうに見えるのかしら」


 独り言みたいにこぼして、すぐ視線を落とした。


 ヴィルは何も言わない。ただ一定の距離を保ったまま、そこにいる。その静けさが、今日はやけに意識へ残った。


 浮かんだ疑問から目を逸らすように、わたしはペンを握り直す。指先がわずかに震え、呼気が浅くなった。紙の上でインクが細く滲む。


「……こんなことで悩んでる場合じゃないのに。……あぁ、もう」


 額の髪を耳にかけ、背筋を伸ばす。


 集中の姿勢だけは保つのに、心は空回りしていた。


 その時だった。


 静けさを破る軽い足音と、明るい声が重なる。


「ミツルさん! 久しぶり!」


 驚いて顔を上げる。


 淡い茶の髪を揺らし、太陽みたいな笑顔を浮かべたソレイユが駆け寄ってくる。閉じこもっていた視界へ、あたたかい気配が差し込んだ。


「ソレイユ……!? なんでここに?」


 問いかけるわたしに、彼女は頬をふくらませ、口を尖らせた。


「なんでって、あなたこそ! 一体どうしてたの? 急に大学に来なくなって、先生方に聞いても何も教えてくれないんだもの。……本当に心配したんだから!」


 怒りというより、切実さの混じる声だった。


 喉の奥がきゅっとすぼまる。立場やお祖父さまのこと――どれも言えない。


 わたしは椅子から立ち、彼女と向き合った。背丈はほとんど同じ。澄んだ瞳を受け止め、ゆっくり言葉を選ぶ。


「……実はいろいろと事情があって、家から出られなかったの。詳しく言えないのは申し訳ないんだけど、心配をかけてごめんなさい」


 深く頭を下げる。


 彼女の表情がわずかにゆるんだ。


「そうか……大変だったんだね」


「もう大丈夫なの? 無理してない?」


 その優しさに、わたしは曖昧な笑みで小さく頷く。


「うん……今はなんとか、ね」


 実際は綱渡りだ。


 視線をそらすと、机のノートが目に入る。ここは資料に集中すべき――頭ではわかっているのに、心は落ち着かない。


 ソレイユの目が、机いっぱいに広がった紙束へ自然に向かった。


「ミツルさん……それって、もしかして精霊魔術の講義用の資料?」


 その問いのあと、ソレイユはそれ以上事情を問いつめなかった。わたしの顔をひとつ見て、それで十分だと判断したみたいに、小さく頷く。


「わかった。その話はここまでにしよう」


 さらりと言ってから、彼女は机の上のノートへ視線を落とした。


 切り替えの早さが、ありがたい。踏み込まないでいてくれる優しさに、肩の力が少し抜けた。


「よーし、じゃあ講義に向けて作業再開だね。前に話してたところ、今日はどこを詰める?」


 その明るさに、わたしもようやく息を吐く。


「……精霊子の基礎的特性と、〈場裏〉の安全運用のつながりを、もう少し整理したいの。頭の中では一本に繋がってるのに、紙へ落とすと、どうしても説明が増えすぎてしまって」


「うん。じゃあ、そこ見せて」


 彼女は迷いなくノートを引き寄せた。


 紙をめくる音が、静かな図書館の空気に薄く混じる。行を追う目に淀みはなく、わたしは無意識に息を止めて、その横顔を見てしまう。


「んー……やっぱり、順番かな」


 ソレイユが指先で数行をなぞる。


「ここ、内容はすごく大事なんだけど、最初に置くとちょっと重たいかも。先に『なぜその説明が必要なのか』が見えたほうが、聞く側は入りやすいと思う」


 そこで一度ページを戻し、今度は欄外の注記に目を落とした。


「それと、この専門用語のところ。意味はたぶんあとでわかるんだけど、その『あとで』まで待たされると少し不安になるかも。ここに一言だけでも、受け取りやすい言い換えがあると、印象がぐっと柔らかくなる気がする」


 言われた瞬間、自分の中で絡まっていた糸が一本ほどける。


「……やっぱり、そう思う?」


「思う。前の版より、ずっと筋は通ってるよ。だからこそ、今は『削る場所』が見えてきた感じ」


――削る場所か。わたしにはぜんぜん見えてこなかった。


 その言い方に、胸の奥がかすかに明るくなる。増やすことばかり考えていた頭の中へ、ようやく風が通った気がした。


「どうして、そんなにすぐ見えるの?」


 思わず口をつく。


 ソレイユは少しだけ照れたように笑った。


「うーん、たぶん慣れかな。父の手伝いで、資料をまとめたり、順番を入れ替えたりすることが昔から多かったから。読んでると、どこが骨で、どこが飾りか、なんとなく浮いてくるの」


 その控えめな言い方とは裏腹に、やっていることはかなり鋭い。


 わたし一人では、たぶんまた全部を抱え込んで散っていた。


「助かるわ。本当に。わたし、つい癖で盛り込みすぎちゃうから……」


「知ってるよ。前も『それは次の紙に逃がそう』って話したじゃない」


 くすっと笑われて、頬の内側が少し熱くなる。


 そうだった。わたしたちは、そこまで一緒に作業していたのだ。


 紙をめくるあいだも、少し離れた場所にあるヴィルの気配だけは、視界の端で消えなかった。見られているというより、見守られている。そう言い換えてしまえば簡単なのに、そのやさしさの置かれ方が、今日は妙に落ち着かない。


 そのとき、ソレイユがふと鉛筆を止めた。


「ねえ」


「なに?」


「前から思ってたんだけど……ヴィルさんって、ほんとにずっとあの位置にいるんだね」


 心臓が一拍、強く打つ。


「……護衛だもの。当然でしょう」


 そう返した声は、自分でも少し固かった。


 ソレイユはわたしの顔を見て、すぐには笑わなかった。言葉を選ぶみたいに、少しだけ首を傾げる。


「うん、最初はね。そういう人なんだろうなって思ってた。頼れて、年上で、なんていうか……お父さんみたいな感じなのかなって」


 その一言が、無邪気なまま深く刺さる。


「……お父さん、って……?」


 返した声は、思ったより頼りなかった。


「でも、違うよね」


 ソレイユはきっぱり言った。


「だってミツルさん、ヴィルさんを見る時、そんな顔してないもの」


 指先が止まる。


 ページの上で、ペン先だけが宙に浮いた。


「そんな顔って、どんな……」


「うまく言えないけど。安心してるだけじゃなくて、もっとこう……嬉しそう、かな。あと、ちょっとだけ困ってる」


――困ってる?


 その言葉が、妙に胸へ残った。


 否定したいのに、すぐには声が出ない。


 そのとき、衣擦れの気配が少し近づいた。


「ご挨拶が遅れました」


 低く落ち着いた声。


 ヴィルが本を一冊抱えたまま、わずかに頭を下げる。


「ヴィルと申します。ミツルお嬢様の護衛を務めております。図書館では静粛が第一ですので、つい礼を失しておりました」


 その丁寧すぎる言い回しに、わたしは思わず顔を上げる。


 こんなふうに、きれいに外向きの顔を作る時の彼を、わたしはまだ少し苦手としている。


 ソレイユは少し慌てたように立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。


「ソレイユです。こちらこそ、いつもお邪魔してしまって……」


「いえ。ミツルお嬢様の講義準備にご協力くださっていると伺っております。感謝申し上げます」


 隙がなくて、よそゆきで、なのにやさしい。


 それが今はなぜだか落ち着かない。


 ヴィルが元の位置へ戻っていくのを見送りながら、ソレイユが小さく息を吐いた。


「……やっぱり、すごく大事にされてるんだね」


「そういうわけじゃ、ないの。ただ、事情があって、そばにいてもらってるだけ」


 言葉は整っているのに、自分の耳には少しだけ尖って聞こえた。


 ソレイユはそれ以上追及せず、ただ「ごめん」と小さく笑ってノートへ視線を戻す。


 けれど、わたしの内側では、さっきの「お父さんみたい」がまだ小さな棘みたいに残っていた。


 ソレイユは何事もなかったみたいに、ページを指先でとんと叩く。


「はい、戻ろう。いま止まると、たぶんまた重くなる」


 その一言に救われる。


 わたしは小さく息をついて、頷いた。


「……うん。続けましょう」


 彼女がいてくれると、説明は少しずつ人へ渡る形になる。


 それなのに、胸の奥では別のものがざわついている。その二重の忙しさに、自分でも少し嫌気がさす。けれど、どこかほっとしている自分もいた。


◇◇◇


 夜。


 離宮の自室は、魔道ランプの淡い灯りだけに満たされていた。窓の外は深い闇で、硝子に触れた指先へひんやりとした冷えが返る。白きマウザーグレイルの刃には灯が薄く貼りつき、油芯の甘い匂いが、静かな部屋の隅へやわらかく沈んでいた。


 昼のことを思い出す。


『最初は、お父さんみたいな人なのかなって思ってたんだ』


 ソレイユの無邪気な声だけが、いまも耳の奥で変に澄んでいる。


 わたしは剣へ額を寄せ、息をひとつ落とした。


「……そりゃ、そう見えるよね」


 言葉は自分への宛て先で、すぐに夜の底へ溶けた。


 客観で見れば、そうなる。


 守られる立場のわたしにとって、ヴィルが父の代わりみたいに映るのは、理屈としては正しい。年上で、強くて、少し後ろに立ってくれて、危ないところへ行けば止めてくれる。並べてみれば、たしかにそうだ。


 でも、違う。


 そう思った瞬間の胸の痛みだけが、妙にはっきり残っている。


「対等に見てもらいたいって、ずっと思ってる。でも……どうしたって、子ども扱いされてるとしか思えない」


 刃の白に映る自分の輪郭は、あまりにも幼い。


 十二歳という器は、どれだけ理屈を積み上げても、最初に庇護の対象として読まれてしまう。


 唇の内側を噛む。


 かすかな鉄の味が、こぼれそうになった言葉を引き戻した。


「……何で、こんなわかりきったことに引っかかってるんだろう。馬鹿じゃないの、わたし」


 答えには、まだ触れたくない。


 触れたら、どこかが崩れそうな気がした。


「……好きとか、そういうふうに、きれいに言い切れるほど、自分のことがわかってるわけじゃない。でも、お父さんみたい、って言われて平気じゃいられなかった」


 口にした途端、鼓動がひとつ大きく跳ねた。慌てて蓋をするみたいに、唇を固く結ぶ。


「守るとか、守られるとか、そういう形じゃなくて……同じ場所で、同じものを見ていたいのに」


 こぼれた声が、薄い夜気に混じる。


 ぶつける勇気は、まだない。


「……今のわたしじゃ、言葉にしたところで届かない」


 言葉にして、さらに沈む。


 胸の奥へ落ちたものが、底で鈍くひびいた。


 そのとき、頭の中に穏やかな声が響いた。


《《さあて、それはどうだろうね。……それを決めるのは、あなただよ》》


 茉凜の声は柔らかく、けれど逃がしてくれない。


 小さな震えが、喉の奥で生まれた。


「……わたしが決めるの? このわたしが? 無責任なこと言わないでよ」


 胸の内に答えの影が見えた途端、喉の奥が細くすぼむ。わかっている。おなじところを回っているだけだと。けれど、抜け出し方が見えない。


《《焦ることないって。焦ってるときほど、自分の気持ちって見えなくなるものなんだよ》》


 少し間を置いてから、茉凜はいつもの調子を取り戻すみたいに続けた。


《《だから……ゆっくりでいいの。それと、トライ・アンド・エラー。失敗を怖がってたら、いつまでも同じ場所のままだよ。これはトライアル競技の基本でね、わたしの人生訓みたいなもの》》


 包むような声に触れると、後頭部の内側がじんわり熱を帯びる。


「……そんなの、わたしにわかるわけないでしょ」


 喉の奥で声が細く震えた。


――わたしは茉凜とは違う。あんなふうに、まっすぐ前だけ見ていられるほど、強くなんてない。


 灯の先に、ヴィルの背中を思い浮かべる。


 大柄で、頼もしくて、少しだけ遠い。その輪郭を想像するたび、膝の裏がひとつ縮む。その痛みの名前は――わかりかけて、わたしは目をそらした。


 名づければ崩れる気がして、舌先で言葉の縁をそっと避ける。


 窓の外の気配は静かで、庭の黒が深い。


 わたしは視線を落とし、光から少しだけ身をずらした。


 胸のざわめきには、まだ触れられない。


 硝子に映った自分の輪郭が、夜の中で薄く揺れている。わたしはその揺れを見ないふりで、膝の上の手をそっと握り直した。


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