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深淵の器と、不器用な騎士の約束

 扉が閉ざされ、鍵の音が乾いて硬く響いた瞬間、内側にも重い錠がひとつ降りた気がした。


 離宮の小さな応接室は、簡素でありながら静謐だ。灰味を帯びた大理石の床は微かに冷え、窓辺にはくすんだ金糸のカーテン。そこを透過した朝の光が薄い蜂蜜色になって室内に沈み、家具の縁をやわらかく縁取っている。


 けれど、わたしの心はそれとは正反対に湿り、呼吸ばかりが浅い。


 ヴィルは向かいのソファに腰を下ろし、まっすぐ目を合わせている。肩幅の広い騎士の制服が作る直線、革と潤滑油の淡い匂い。昨夜、庭で抱きとめられたときの安心が、薄い温度として肌へ戻ってくる。


 呼吸がほんの少し楽になる。


 それでも、いま口にしようとする言葉を思うと、喉が小さく鳴った。


 もう、逃げない。


「……ヴィル、どうしてもあなたに話しておかないといけないことがあるの」


 震えないよう意識して声帯に息を通す。


 彼は小さく頷き、組んだ手をほどかずに先を促した。言葉は少ないのに、どんなことでも話してみろ、という確信が身振りに宿っていた。


 わたしはひと呼吸置く。


「……お祖父さまの容態については、すでに聞いているわよね?」


「……ああ。お前の新しい治療が効いてるって話は聞いた。日に日に血色も良くなってるって、リディアも喜んでいたぞ」


「うん。でも、それは一時的なことにすぎないの。わたしができたのは、肝臓にあった悪性の腫瘍を、少しだけ小さくしただけなの」


「腫瘍……? そいつは、腫れ物みたいなものか?」


「ええ。体の中の一部が異常に膨れ上がって、身体の働きを邪魔するものだと思ってもらえばいいかな。しかも、これはただの腫れじゃなくて、どんどん増えていく性質を持つの。それが『悪性』ってこと。放っておくと、内臓をむしばんで死に至る危険があるの」


 ヴィルは神妙に頷き、額へ手を当てて思考の重みを支える。


 馴染みのない領域。その顔色を見取りながら、わたしは言葉をかみ砕いた。


「悪性の腫瘍は、体の奥の生命の設計図が壊れて、際限なく増え続ける雑草みたいなものなの。わたしがやったのは、その雑草を少し刈り込んだだけに過ぎないのよ」


「ということは……じきにまた生えてくるってわけか?」


「そう。だからまた大きくなる可能性が高いし、体の他の場所に潜んでいる細かな病巣まで、全部は抑えきれていないの。このまま何度も同じ治療を繰り返せば、お祖父さまの身体に負担がかかり過ぎる……」


「わかった。つまり今のやり方じゃ、じりじり命を繋いでるだけで、病の根までは止められないってことだな」


 重い響きだった。


 わたしは小さく頷き、掌を膝の上で重ねる。大理石の冷えが足裏からじわりと上り、指先の震えがわずかに収まった。


「それでも、わたしはまだ諦めたくない……もっと抜本的な方法――この雑草そのものの育ち方を変えることができないかって、考えているの」


「……たとえば、どんな?」


「そうね。体の奥にある生命の設計図を正しい形へ戻して、もう勝手に増えないようにできれば、腫瘍を抑えられるかもしれない。雑草を一本ずつ抜くんじゃなくて、そもそも伸びないようにするみたいに」


「生命の設計図ってやつが、俺にはよくわからんのだが……そんなもんが人間の体にあるのか?」


「うん。わたしが学んだ知識だと、生きものには『どうやって成長するか』を決める細かな情報があるの。それに不具合が出ると、細胞が勝手に増える。だから、その部分を見極めて、腫瘍だけが自然に消えていくよう導ければ……もしかしたら」


 そこまで言って、喉が一度詰まった。


 それはまだ、祈りに近い仮説だった。紙に書けるほど確かな道筋ではない。けれど、お祖父さまの病の根があまりにも深いことを知ってしまった今、そこへ手を伸ばさずにいるほうが、わたしにはずっと怖かった。


「……やっぱり、俺には難しすぎる。けど、その……ただ攻撃するって話じゃないんだよな?」


「そう。簡単に言えば、寿命が来たみたいに静かに消えていくよう仕向けるの。雑草を刈るんじゃなくて、土のほうから育つ力を断つみたいにね」


「ああ、なるほど……合点がいった」


「けれど、それを病んだ部分だけに起こすには、どこが壊れているのか正確に見極めて、そこにだけ終わるよう働きかけなくちゃならない」


「ふむ……なんだかわからんが、精霊魔術でそこまでのことができるのか? 聞いてるだけでも、まるで神の御業としか思えん。危険はないのか?」


「たしかに、まだ確立された術式ではないわ。失敗すれば、雑草じゃない草花まで枯らしてしまう――健康な臓器まで傷つけるかもしれない。危険は大きいし、正直怖い。でも……怯えて何もしないより、挑むべきだと思ってる。お祖父さまの病は、本当に根が深いから」


 裾を握る指に力が入り、布の繊維が節でこすれた。


 マウザーグレイルの深部記憶層と、IVGに連なる演算領域。そこへ踏み込むとき、何が起きるかは誰にもわからない。


「でもね……どう頑張っても、今の段階では不可能なのよ。どうしても、マウザーグレイルの中に隠されている、秘められた力を解き放つ必要があるから……」


 彼の眉がわずかに動き、瞳に硬い色が差す。


 室内の温度が、いくらか下がったように感じられた。


「マウザーグレイルにはね、これまでの運用層とは異なる、さらに深い記録と、今のわたしたちでは扱いきれない演算の層が隠されているの」


 わたしはひと呼吸置き、言葉を選ぶ。


「この剣には、接続をさらに深めた時にだけ開く記録と、発現しうる演算領域がある。それが解放されれば、この剣を生み出した古代文明の技術にも手が届く。そうなれば、精霊魔術で生命の設計図の情報を読み取り、働きかけることさえ可能になるかもしれない」


 言い切った途端、指先が柄の金具を探った。


 爪の脇へ、冷たい硬さが細く刺さる。


「でもね、良いことばかりじゃないの。その先には、きっと底なしの奈落もある。負担がどれほどかかるのか、どんな危険が待ち構えているのか――わたしにも茉凛にもわからないの……」


 膝の上で握る手に汗が滲む。


 瞳の奥では、恐怖と焦燥が渦を巻いていた。


「おい。まさか命を取られるなんてことはないだろうな?」


 低い声の奥で、焦りの熱がわずかに走る。


「命……か。それは、たぶん大丈夫。でも、その時には、わたしはもう以前のわたしじゃなくなっているかもしれない……」


「なんだと?」


 肩に重みが乗る。


 わたしはゆっくり視線を落とした。


「茉凛の見立てでは、この剣には、初代の所持者であるデルワーズの膨大な記憶や、わたしの知らない術式、システムと結びついた戦闘経験まで眠っているらしいの。それが解放されたら、溢れ出る情報に呑まれて、記憶を書き換えられるだけじゃなく、わたしそのものが塗りつぶされてしまうかもしれないって……」


 口にするだけで、みぞおちが熱く疼く。


 ロスコーの記憶。精霊子という情報体の特性。前世で為されたこと。お祖父さまを救う鍵がそこにあるのだとしても、同じ場所に奈落もある。


「最悪、わたしの心そのものが別のものに変わって、あなたの知っているわたしじゃなくなってしまうかもしれないわね……」


 そこで言葉は途切れ、喉の奥で乾いた音が鳴る。


 視界の端で指先が震え、布をつまんだ爪の白さだけがはっきりした。


「……名を呼ばれても、その輪郭にすら戻れない。そんな気がする……」


 肺の奥で小さな痛みが跳ね、息が細くなる。


「でも、お祖父さまを救うためには、いつかその力を使わなければならない日が来るのかもしれないなって……そう思うの」


 喉が塞がる。


 けれど言葉は止めない。知らなければ楽だった。その逃避は、破滅までの目隠しに過ぎないから。


「わたしという存在は、正確には『巫女』じゃない。巫女の血は継いでいるけれど、本来の能力を歪な形に拡大され、制限を外された――殲滅のための因子を色濃く持つ、戦闘に特化した精霊魔術の担い手。わたしは、そういう存在の生き写しみたいなものなの」


 言い切ったあと、喉の奥で乾いた熱がかすかに揺れた。


 それが本当に正しい名なのかは、まだわからない。ただ、そう名づけなければ、この胸の奥にある恐れへ触れられない気がした。握った裾の布が、指の腹で小さく鳴る。


「けど、わたしはそれだけじゃないんだって信じたい。傷を癒やす術、人を救う術、生命の設計図を正しい形へ戻す術だって――きっと探せばあるはず。でも……」


「……でも?」


 静かな低音が受け止める。


 わたしは息をひとつ落として、核心へ踏み出した。


「もし、その中にわたしを乗っ取って、完全に消し去るための仕掛けが仕込まれているのだとしたら……」


 そこまで。


 続きは喉で崩れ、沈黙が室内に満ちた。腹の底で、冷たい砂がさらさらと流れる。


「わたし、いったいどうすればいいんだろう……」


 張り詰めた静けさ。


 ヴィルはすぐには声を出さず、厳しい表情のまま沈黙を受け止める。


 その沈黙が見捨てるためのものではなく、最も必要な言葉を探す時間であることが、痛いほど伝わった。


 数秒ののち、荒い息がひとつ落ちた。


「……そんなことになったら、俺が――たとえぶん殴ってでも――引き戻してやる」


 一瞬、空気が固まる。


 椅子の微かな軋みが耳に触れ、わたしは息を詰めた。


「え……」


 言葉尻は荒い。


 けれど、その荒さの奥で、わたしをつなぎとめようとする必死がまっすぐに通ってくる。


「そんな、ぶん殴る……って……」


 頬に熱がのぼる。


 乱暴な言い方のはずなのに、その奥にある本気だけはまっすぐ伝わってきて、肋の裏で小さく鳴った。


「言いたいことはわかるけど、もう少し別の言い方ってないの……?」


 はっと目を瞬かせ、視線が泳ぐ。


 自分の言葉に自分で気づいたように、ヴィルは気まずく頭をかいた。


「う、うむ……すまん。ただな……」


 彼は視線を落とし、膝の上で握った拳を一度だけほどいた。


 革手袋のこすれる音が、静かな部屋に細く残る。


「何があってもお前を守り抜く。それだけは、絶対に変わらん」


 ぎこちない返答。


 けれど核はひとつだった。その不器用な真剣さが、内側の硬い部分をやわらかく押す。


「まったくもう……むちゃくちゃね」


「すまんな。俺は理屈が苦手だし、気の利いたことも言えん。だが、根拠も確信もないまま、希望だけ抱かせるような無責任はできん。俺にできることを示すだけだ」


 なんでこんなにまっすぐ言えるのだろう。


 そういうところが、たまらなくヴィルらしくて、少しだけ苦しい。


「……ありがとう。なんだか乱暴だけど、わかりやすかった。こんなふうに誰かに言ってもらえるなんて、正直……すごく嬉しい」


 指先で頬の熱を拭う。


 こわばりが少しずつ解け、涙は悪いものではなく、温度の兆しに思えた。


 彼は照れ隠しに視線を外し、むずがゆそうに頭を掻く。


「……お前が泣くと、俺まで落ち着かなくなるんだがな」


「それは、まぁ……ごめんね」


「なら、仕方ない。どこにも行かないように、捕まえておいてやる」


 普通なら怖がられる言葉かもしれない。


 けれど、わたしは知っている。彼はいつだって、オブシディアン・アラクニドの時も、ハムロ渓谷で虚無のゆりかごを見た時も、玉座の間のあの一件でも、わたしを最優先に守ろうとしてくれた。不器用で、言葉は足りない。それでも積み重なった事実が、彼ならわたしを引き戻してくれると思わせる。


「……ねえ、ヴィル。もし、本当にわたしがわたしじゃなくなりかけても……決して、離さないで」


「当たり前だ。離すものか」


 また、直球。


 胸が甘く熱い。握りしめていた裾から指を放ち、瞼をひと拭いする。


 もし、マウザーグレイルの深部記憶と、IVGに連なる演算領域の解放へ踏み込んだ果てに、喪失の危機が訪れても、彼がここにいるなら、わたしは戻ってこられる。


 小さな灯が、心の底にともる。


 静かな部屋に、わたしの啜り泣きが薄く響く。


 不思議と、心は少し軽い。


 破滅が待つかもしれない。けれど、どんな暗闇でも、彼の決意があれば光を見失わない。そう思えるだけで、吸う息が少しあたたかかった。


 ぎこちない手がわたしの頭へ伸び、掌の節が髪に引っかかり、さらりとほどける。


 その一瞬、安堵の粒が落ちる。子ども扱いなのだろうとわかっている。それでも嫌ではない。むしろ、これこそが彼らしい。


「……ごめんね、こんな話ばかりで、嫌になっちゃうでしょう?」


「気にすることはない。俺はお前の騎士だ。お前がそんなふうに思い悩んでるのを、放ってはおけん。何があっても、俺がついてる」


 涙に混じった笑いが、自然にこぼれる。


 みっともなくても、彼のまなざしはやわらぎ、その気配がわたしにも移る。


 少しずつ、目の前の絶望へ向き合う力が戻っていく。お祖父さまの病を治すために。戦わずに済む術を探すために。そして、わたしが“わたし”でいるために。


 険しい道でも、彼がわたしをしっかり捕まえてくれるなら、踏み出せる。


「……昨夜のわたし、取り乱して情けなかった。でも、不思議と今は、泣けてよかったって思えるの。たぶん……あなたのお陰よ。ありがとうね、ヴィル」


 指の腹で頬をなぞり、こぼれかけた涙を拭う。


 昨夜の冷たい風は抱擁の温度と重なり、今では温かな記憶へ変わりつつある。


「そのためにいる。いつでも頼れ」


「うん、そうさせてもらうわ」


「さて……いつまでもここに閉じこもっていては、息が詰まるだろ。外に出ようか」


 彼が立ち上がり、鍵が外れる。


 薄金の光が扉の縁から差し込み、床に新しい朝の筋を引いた。


 わたしは裾を整え、腰を浮かせる。ほどけた緊張のあと、肺の奥で小さく風が鳴った。


 扉の先の光が目に射し込み、思わずまぶたをすがめる。


 その温度に、わたしはかすかに息をついた。


 先はまだ長い。お祖父さまの病も、わたしの力も、マウザーグレイルの深部記憶も、IVGに連なる演算領域のリスクも、なにひとつ片づいてはいない。


 それでも、昨夜よりはほんの少しだけましな足取りで、この扉を出られる気がした。


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