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離宮の朝、あなたと揺れる馬上

 扉を出ると、朝の光が白くひらけた。さっきまで閉じていた応接室の空気とは違って、回廊を渡る風は薄く冷え、肺の奥に残っていた重たさを少しずつほどいていく。


 わたしがその明るさに目を細めたときだった。ヴィルは足を止めず、ぶっきらぼうに言った。


「こんなところに閉じこもっていたら、息が詰まる」


 それだけ置いて、彼はそのまま回廊の先へ歩き出す。


「厩舎に行くぞ」


 戸惑って立ち尽くしかけたわたしへ、今度は半ば連れ出すみたいに背を押した。


「スレイドに会いたくないか?」


 その不器用さが、かえってありがたかった。


 白亜の柱の並ぶ曲がり角を抜けた先で、侍女のリディアがこちらに気づいた。白い光を受けた髪がやわらかく艶を返し、彼女はいつも通りの静かな笑みを向けてくる。


 一見、何も変わらない景色なのに、肋の裏だけがひそかに疼いた。昨夜の庭での、あの抱擁と嗚咽を、彼女は見ている。騒ぎ立てず、何も問わず、ただこうしていつもの顔でいてくれることが、いっそう頬を熱くした。


「お出かけになられるのですか?」


「厩舎だ」


 短い返答に、喉の奥で笑いがほどけそうになる。


 ――まったくもう。そんなんじゃ、誤解されるでしょ。


 必要なぶんだけ置いていく、あの言い方。旅のあいだに覚えた、彼らしい気遣いだった。


「少しだけ、気分転換に乗馬をしたいんです。心配ありませんよ、離宮の敷地内を回るだけにしますから」


 わたしが言葉を添えると、リディアは穏やかにうなずいた。視線のやわらかさが、黙ったまま背を支えてくれるみたいだった。


「では、お怪我だけはなさいませんよう」


 その声に小さく頭を下げ、わたしたちはふたたび歩き出す。磨かれた大理石の床が白く照り返し、夜には気づかなかった明るさが足もとから静かに満ちてくる。冷たい空気の底に、かすかな春の匂いがあった。


 厩舎へ近づくにつれ、藁の甘い香りと馬たちの息づかいが濃くなる。木組みの梁に残る古い木の匂い、革鞍の油の気配、蹄が床を掻く低い音。そのすべてが、旅の記憶をひとつずつ呼び戻した。道なき荒野も、風の強い峠も、魔獣の影も、彼の背に従って越えてきたのだと、身体のほうが先に思い出す。


「ほら、スレイドがお前を待ってるぞ」


 黒い毛並みの雄馬が、静かな瞳でこちらを見る。伸ばした掌へ、温かな鼻先がふっと触れた。藁の匂いを含んだ吐息が指の腹をくすぐり、柔らかなざらつきがそこへ残る。


「わぁ、久しぶりね、スレイド。元気だった?」


 短い鼻息が返事みたいに震えて、自然と頬がゆるんだ。ここが離宮で、いまが朝で、昨夜のつづきの中にまだいることを、ようやく息の深さで確かめられる。


「よっぽどお前に会いたかったのか、ずいぶん機嫌がいいな」


 ヴィルは片手で手綱を確かめ、わたしを促した。敷地の外へは出られない。拉致事件の余波も、王宮と離宮の力学も、まだきれいには収まっていない。それでも、離宮の内側をゆっくり巡るくらいなら許される。その小さな自由が、今はひどく貴かった。


 ドレスの裾を持ち上げて鞍へ腰を落とす。革が低く鳴り、鞍鉄の冷えが衣越しにじわりと伝わる。少し心許なさを覚えた次の瞬間、彼がひょいと背後に跨がり、自然な動きで腰へ腕を回した。二人分の体温を、黒い背が黙って受け止める。


 蹄が石を小気味よく叩き、鞍がきしむ。裾が揺れ、髪が光をはじく。こんな姿は目立つに決まっている。そう思うだけで、耳の先まで熱を持った。


「……でも、あんまりこんな姿、見られたくないんだけど」


「気にする柄か?」


「ヴィルったら、もう……。立場上は一応、淑女としての振る舞いとか、気にするのが普通でしょう?」


「お前が淑女ねぇ……」


 からかう声にむっとしながらも、背から伝わる体温のせいで、うまく怒りきれない。旅の仲間で、守るべき相手で、頭ではいくらでも整理できるのに、こうして腕の中に収まっていると、呼吸だけが勝手にやわらいでいく。


「お祖父さまの後ろ盾があるから、こんな無軌道な振る舞いをしても、誰も咎めたりはしないけど。実際のところ、どんなふうに思われているのやら……」


 揺れに合わせて声までわずかにほどける。すると彼は、肩へぽんと軽く触れた。革手袋越しの重みが、落ち着けと言うみたいに一度だけ留まる。


「心配には及ばん。リディアから聞かされたが、メイレアはお前の歳の頃には相当なお転婆だったらしいじゃないか。言うなれば、血統なんじゃないか? それを考えれば、いまさら驚く奴などいないだろう。ははは……」


「うーっ……それって、褒めてるんだか貶してるんだか、よくわからないんだけど? 呆れられてるの間違いじゃないの?」


 彼は鼻を鳴らし、手綱を少し引いて速度を整えた。蹄のリズムがひとつ揃い、その拍に合わせて並木の影が肩先を流れていく。


「褒めてるに決まっているだろう。だから、気に病む必要はないってことさ」


 母、メイレア王女の面影が、言葉に連れられて内側へ灯る。漆黒の髪と翡翠色の瞳のせいで遠ざけられても、恨み言より先に小さないたずらで人を笑わせ、自分もまたその笑顔の中で笑っていたひと。


 リディアの声が、ふいに耳の奥へよみがえる。


『あの方は本当に、私たちにとって光のような方でした』


 陽だまりの縁へ腰を下ろしたみたいな、その温度をわたしは確かに覚えている。


 並木の向こうで王都の屋根が淡くきらめいた。ヴィルの金の髪が朝を拾い、その背に預けたまま見ていると、眩しさに目の端が白くなる。母の話をたどるうち、彼の声まで少しだけ遠い記憶をなぞるみたいにやわらいでいた。


「メイレアの話を聞いていると、俺にはどうにも今のお前に重なって見えてしまってな。なぁ、どう思う?」


「それは大げさよ。母さまみたいな細やかな気配りなんて、わたしには到底真似できそうもないし」


 自嘲気味に返しながらも、喉の奥で小さな火がともる。否定したいわけじゃない。ただ、そんなふうに言われることに慣れていないだけだ。


「でもね、正直嬉しいの。母さまがそんなふうに周囲の人たちに喜ばれることをしていたなんて……。それに――」


 喉の奥がふっと細くなり、頬を撫でる風だけが、知らなかった昔へそっと通じていく。


「昔のことなんて、あまり詳しく聞いたことがなかったから」


 言葉の終わりに、風が髪をひと房すくい上げた。彼は少しだけ視線をやわらげ、いつもより低い声で続ける。


「リディアはお前に伝えたかったんだろう。メイレアの柔らかな面が、お前にもちゃんと受け継がれているってことを。違うか?」


 不器用なくせに、こういう時だけ妙にまっすぐで困る。遠回りせず、いちばんやわらかいところへ触れてくるから。


「だから、わたしはそんなにできた人間じゃないって」


「謙遜するな」


「してないって。もう……」


 揺れに合わせて背へ添う腕の重みがわずかに深まり、それだけで言い返す声の芯がゆるんだ。


「でも、いつか母さまのような、素敵で魅力ある大人になりたいとは……思ってるの」


「願うのであれば、きっと叶うはずだ。専任の護衛騎士であるこの俺が保証するぞ」


「あなたが? どうにも信用ならないんですけど?」


「おかしいか? これでも、お前のことを、誰よりも近くで見てきたという自負はある。だから言える」


 その言い方に、手綱を握る彼の指まで見たくなる。


 ――わたしだって、見てきた。あなたのこと。


 旅のあいだ、剣を持つ手も、焚き火のそばで器を洗う手も、何度も目にしてきた。そういう積み重ねの重みが、いまさらになって胸のどこかへ沈んでいく。


「事実関係としてはまぁ、そうなのかもしれないけど……」


「大丈夫だ。自信を持て」


「うん、まあ……素直に受け取っておくわ。ありがとう」


 蹄の音が石畳へ小さく反響し、葉陰から小鳥の声が落ちてくる。風に揺れる枝葉の隙間から、王都の屋根が遠くきらめいていた。もしまた外へ出られる日が来たなら。そんな思いが、言葉になる前から輪郭を持ちはじめる。


「おい、風が冷たくはないか?」


 肩へ置かれた手の重みが、さっきより近い。背中から伝わる体温まで意識してしまい、返事がわずかに遅れた。


「だ、大丈夫よ……。むしろ、あなたのお陰で少し暖かいくらい、かな」


 ――なに言った……わたし。


 何を指した暖かさなのか判別がつかなくなり、喉の奥が熱くなる。朝の匂い、背の温度、鞍の揺れ。落ち着け、と裾を整えようとしても、指先だけが少し頼りない。


 ――ち、ちがう。これは、わたしの一方的な勘違いだ。


 そう言い聞かせても、小さな痛みが静かにさざめいた。彼にとってわたしは親友の遺した娘で、守るべき存在。わたしにとって彼は剣の師で、人生の先を照らしてくれるひと。年齢も、立場も、境界ははっきりしている。わかっているのに、背の体温ひとつで呼吸が軽くなるのは、どうしようもなかった。


「……ううん、平気」


 平静を装って言い直す。彼はそれ以上追及せず、ただ手綱をやわらかく引いた。揺れが少しだけ穏やかになる。それだけのことで、胸の内側のざわめきまで静まっていくのが悔しい。


 しばらく言葉のない時間がつづいた。馬の歩みと朝の風だけが、互いの呼吸のあいだを行き来する。その静けさに背を押されるようにして、わたしはふいに、先のことを口にしていた。


「ねえ、ヴィル。もしまた外に出られるようになったら、ちょっと遠い野原まで行ってみない? わたし、お弁当作るから……」


 言った途端、視線の置き場がなくなる。けれど彼は笑わなかった。少しだけ考えるみたいに間を置いてから、素直に答える。


「そうだな。お前の料理を久しぶりに食べてみたい。うん、いい考えだ。その日が来るのを期待しているぞ」


 その声色が思ったよりやわらかくて、鼓動がひとつ跳ねた。約束というほど大きくはない。ただ、いつかの先へ細い糸を渡したみたいな返事だった。


 敷地をひと巡りして戻る頃には、空気はだいぶ動きはじめていた。厩舎の前で彼がさりげなく手を差し出し、わたしを鞍から支え降ろす。指先が触れたほんの一瞬、礼を言おうとした声は喉でほどけ、返事ともつかない音だけが唇からこぼれた。


「ええ……」


 かすれた音に、彼の瞳がわずかにやわらぐ。それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。こんなふうに支えられることへ、もう少しだけ慣れてしまいたいのに、まだできない。


 スレイドを労わりながら厩舎へ戻す。ヴィルが馬具を外し、整えるあいだ、わたしは黒い鼻面を撫でた。藁の匂いと馬の体温が手のひらへ沁みて、さっきまでのざわめきがだいぶ遠くなる。


「……ありがとう、スレイド。また来るからね」


 短く鼻を鳴らした馬の気配に笑みがこぼれる。顔を上げると、ヴィルが肩をすくめていた。頼もしさと照れ隠しの混ざった、いかにも彼らしい仕草だった。


 回廊へ戻る頃には、離宮の静けさも人の動きへ溶けていた。侍女たちの足音、遠くから届く打ち合わせの声、磨かれた床に反射する光。そのただ中を歩きながら、わたしは自分の呼吸がさっきより深くなっていることに気づく。


「どうだ。少しは気が楽になったか?」


「ええ、ほんの少しだけど楽になった。楽しかったよ」


 ぐるぐるとした思考から離れられただけでも、十分だった。恐怖は消えていない。お祖父さまの病も、マウザーグレイルのことも、何ひとつ片づいてはいない。それでも、風や馬の吐息や、こうして気分を変えようとしてくれた不器用さが、まだこちら側に自分を繋ぎとめてくれる。


 彼は歩調をゆるめず、前を向いたまま言う。声だけが、低くまっすぐこちらへ届いた。


「いいか、ミツル。……今は先王陛下のことだけを考えろ。クロセスバーナだとか、王宮からの横槍だとか、変な雑音は気にしなくていい。それはローベルトたちの仕事だ。一人でなんでもかんでも抱え込むなんて、どだい無理な話なんだからな」


 その言葉は叱責ではなく、置き場所を決めてくれる声だった。いま考えるべきことと、いまは抱えなくていいこと。その境目を、彼はいつも乱暴なくらいはっきり引いてくれる。


「あなたの言う通りね。そうさせてもらうわ」


 曲がり角の向こう、中央ホールへ続く明るさが見える。磨かれた石床に風の匂いと足音が重なり、人がいつも通り働いている気配が静かに満ちていた。守りたいのは、きっとこういう当たり前なのだと思う。


 ――深淵の黒鶴を、守護の翼へ。


 まだ口に出すには早い決意を、胸の奥でそっと結び直す。泣きじゃくった夜のあとでも、新しい朝は来る。裾の先で揺れる光が、昨日とは少し違う色をしていた。


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