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夜の庭の抱擁

 翌朝。


 いつもより遅い目覚めだった。


 洗面器の冷水を頬へあてると、肌の下で血が音もなく巡りはじめ、泣きはらした瞼の重さが、やけに意識へ触れた。


 鏡の向こうに映るのは、見慣れた顔のはずだった。


 けれど、まぶたはまだ少し腫れ、頬にも薄い紅が残っている。繊細なドレスを纏っても、そこだけは誤魔化せなくて、胸から細い息が漏れた。


 襟元を直した指先に、ごく薄い革と潤滑油の名残が移る。


 喉の奥が、ふっと熱を持った。


 思い出した途端、鼻の奥までじんと熱くなる。夜の庭の冷え。外套の硬さ。その奥にあった体温。泣き崩れた自分の呼吸が、いまも胸の内側に残っている気がした。


 侍女のリディアが「もう少し休まれたらいかがですか」と遠慮がちに声をかけた。


 わたしは「大丈夫です」と微笑み、襟元を正して廊下へ出る。歩き出す前、踵が床を探った。行くのか、戻るのか、その一歩にまだ迷いが残っていた。


 厚みのあるカーペットが足音を吸い、大理石の床を走る朝の光が白亜の柱に長い影を刻んでいる。


 夜とは違う明るさが、心の揺れを逆さから照らし出すようで、落ち着かなさと安堵が交錯した。


「はぁ……」


 息が落ちる。


 昨夜、わたしは自分でも制御できないほど泣きじゃくり、ヴィルの胸へ縋るように身を預けていた。彼は何も言わず、ただ肩を抱き、背を静かに撫でてくれた。


 あの腕の確かな重みが、どれほどわたしを繋ぎとめてくれたか。


 思い出すたび、喉の奥が熱を持ち、頬の内側までじんと痺れる。


 あんなふうに泣き崩れたのは、父の名を呼んで取り乱した、あの日以来かもしれない。


 昨夜のわたしは、王家の養女だの、伝説の巫女の再来だの、聖剣の資格者だの、そんな名のどれにもなれず、ただ抱えきれなくなって泣いた少女でしかなかった。


 深部領域のことも、お祖父さまの治療のことも、クロセスバーナの影も、ひとつずつならまだ耐えられたのかもしれない。


 けれど昨夜は、その全部が胸の内で絡まり合い、とうとう堰が切れた。


 もしあの数分がなければ、わたしはもっと深いところで、ひとりきりになっていた気がする。


◇◇◇


 いつも通り、腰のベルトに下げた白きマウザーグレイルに意識を重ねる。


 柄の冷たさに指先が落ち着き、内側から柔らかな声が波のように伝わってきた。


《《……美鶴、大丈夫……?》》


 か細い呼びかけに、わたしは袖口をそっと握り、周囲の視線を避けながら小声で返す。


 侍女や衛兵の往来が増える時間帯だ。怪しまれたくない。


「茉凛……おはよう。うん、まあ……少し眠れたけど、まだモヤモヤしてるかな」


《《そっか……気分が沈んでるみたいだから、声かけていいか迷ってたんだ。昨夜はごめんね。あんなこと、言うべきじゃなかった。美鶴を傷つけるつもりは無かったんだ。なのに、何をぺらぺら言っちゃったんだろうって》》


 親友に肩を叩かれたような、あたたかい気配。


 まぶたの裏に、夜の庭の光景が淡く重なる。


「ううん。もう気にしないで。いずれ知らなければならないことだったんだし、あなた流にいわせれば、無問題(もーまんたい)よ」


《《強がり言わないの。無理しないで。罵詈雑言だろうとなんだろうと、なんでも浴びせて下さいな。でないと、すっきりしない》》


 わたしは拳でコツンとマウザーグレイルの柄頭を叩いた。


「そんなことしない。茉凛が嘘偽りなく真っすぐでいてくれるから、助かってるのよ」


《《んー……まあ、美鶴がそう言ってくれるなら、納得するしかないけど》》


「それよりもさ、ヴィルに……迷惑かけちゃったよね。子どもじゃあるまいし、人前であんなに泣くなんて。もう、恥ずかしいったらありゃしない」


《《そういえばそうだね。美鶴ってば、変に強がりだもんね。いつだっていっぱいため込んじゃうから、いちど泣き出すと手に負えない。適当なとこで吐き出さなきゃだめだよ?》》


「悪かったわね。そういう性分なんだから……。でも、彼ビックリしたと思うし。それに……抱き締められてるところを、リディアさんに見られちゃったかも……」


 頬が熱を帯び、耳の縁まで温度が広がる。


 困惑しながらも守ろうとしてくれた真剣な眼差しが、頭から離れない。


《《へーきへーき。リディアさんならわかってくれるよ。それにヴィルはああ見えて、美鶴のこと、すごく大事にしてるんだよ。だから、泣き顔見せたって、ぜんぜん迷惑だなんて思ってないはず》》


 胸の内側が少しだけ柔らかくなる。


 それが守るべき相手としての大事なのだとしても、いまのわたしには十分すぎるくらいだった。茉凛はわたしの想いも、彼の態度も、見えない糸の手触りまでわかっているかのように言う。その響きは、確かに「大丈夫」を連れてくる。


「……だといいけど」


《《うん、絶対にそうだよ。だから、後は美鶴がちゃんと自分から話しかけてみるしかないんじゃないかな? あー、もちろんわたしは、邪魔しないようにするからね》》


「邪魔しないって……それ、どういう意味?」


《《ふふ。ヴィルが近くにいるときは、あんまりおしゃべりしないでおくの。わたしは美鶴が勇気を出せるように、ここから応援してるから》》


 背中を押す指先の感触が、胸の中央にぽっと点った。


「……わかった。話してみる」


◇◇◇


 離宮の長い廊下の先に、ひときわ背の高い男の姿が見えた。


 短く刈り揃えた金髪、広い肩、紺の制服。衛兵と二言ほど交わし、こちらへ振り返る。


 視線が触れた瞬間、胸が小さく鳴った。


 石柱の影が長く伸び、窓越しの陽が塵をふわりと舞い上げる。目が合った途端、鼓動が一拍だけ跳ね、胸元の布が指先に貼りついた。


 衛兵が一礼して去ると、彼はまっすぐ歩み寄ってくる。


 近づくほどに革の匂いと、微かな潤滑油の気配が混じり、昨夜の抱擁の記憶が肺の奥に温度を戻した。


「……ミツル。体の調子はどうだ?」


 低く抑えた声が石壁でやわらかく反響し、鼓膜の奥の緊張をほどく。


 パステルのドレスの布が指先で鳴り、わたしは思わず胸元を押さえた。


「うん……今は、平気。昨日は……ちょっと泣きすぎちゃって、まぶたが腫れぼったいけど……」


 言い切る前、喉が一拍だけ鳴った。


「そりゃ、あれだけ泣いてりゃ、な。まあ、なんだ……昨夜はすまなかった」


 彼の口元に一瞬、照れ隠しのような苦笑が浮かぶ。


 腕の温もりが記憶の縁で再生し、鼓動の間隔が詰まっていく。


「いや……あの……ありがとうね。わたし……いろいろ限界だったみたいで……」


 「……ごめ……」と言いかけ、慌てて飲み込む。


「いいってことさ。だがな、俺がしてやれることなんて何も無いのが、情けない」


「そんなことないよ。支えてもらったし、あのとき……そばにいてくれるだけで、すごく安心できたの。だから、その……」


 裾をそっとねじる。


「迷惑、かけたね」


 言い終えて、みぞおちのあたりがきゅっと締まる。


 彼は眉をわずかにひそめ、静かに首を振った。


「迷惑だなんて思わないさ。前にも言ったはずだ。泣きたくなったら、泣けばいい。それを受け止めるのも、俺の仕事のうちだし。まあ――」


 彼はそこでわずかに視線を外し、喉仏がひとつ上下した。


 窓辺からの朝の光が、睫毛の影を短く揺らす。


「仕事抜きとしても、お前が泣いてたら……どうしたって放っておけなくなるしな」


「……どうしたって?」


「……ああ、そうだとも。何よりお前は、俺の最優先なんだから」


 軍務の順位を口にするみたいな、ひどく彼らしい言い方だった。


 そんな硬い言葉のはずなのに、胸の奥では妙に甘く響いてしまう。守護の意味だと頭ではわかっているのに、その不器用さが余計に痛かった。


 裾をひとつねじる。頷きの代わりに、言い訳が指先へ逃げた。


 呼吸の深さがひとつ増す。自分でも気づかないうちに――彼が近いと、胸がゆっくり熱を帯びる。


「あの……もし、時間があったら……少しだけ話していい? その、お祖父さまの治療のこととか、これからわたしがどうしたいのかとか……考えていることを、聞いてほしいの」


 言葉を置く場所を探しながら、それでも正面へ。


 彼は驚いたように目を見開き、すぐ静けさを取り戻して頷いた。


「そうか。わかった。だが、ここじゃ話しにくいだろ。少し離れた部屋に移ろうか? 朝のうちなら、人目も避けられる」


「ええ、そうしましょう……」


 肺に入る空気が、さっきより少し軽い。


 受け止めてくれることが、身体の内側まで沁みていく。


 背後を見ると、リディアがこちらに気づき、そっと距離を取った。ドレスの裾が揺れて、衣擦れの細い音が朝の光にほどける。


 恥ずかしさで固まっていたはずの胸に、不思議と安心が芽生える。たぶん、彼がいるからだ。


 ――よし……。


 茉凛の《《がんばってね》》が背中へ触れる。


 わたしは彼の後を歩き出した。あまり使われない離宮の一室へ続く、小さな扉が光の先で待っている。


 取っ手に触れる前、彼の指が一瞬だけ空を探した。


 触れないままの距離が、やけに温かい。扉の向こうの空気は少し冷たいかもしれない。


 胸元に手を添え、乱れがちな呼吸をそっと整える。


 昨夜の弱さごと抱えたまま、それでも今日は言葉にしなければならない。うまく話せるかはわからない。途中でまた詰まるかもしれない。


 それでも、彼がそばにいるのなら、もう一度だけ前を向いてみようと思えた。


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