拒めない温もり
どれほどそうしていたのかわからない。
背後で、ごく控えめな足音が夜気を切り、わたしははっと顔を上げた。月光の薄い縁取りの中、ヴィルが立っている。外套の裾が風をはらみ、革と潤滑油の薄い匂いが、夜の冷たさと混じって胸に降りてきた。
「おい、ミツル?」
名を呼ぶ声は低く、夜更けの石廊にやわらかく反響する。
肩がびくりと震え、頬に触れた涙が一筋、冷えた空気で薄く乾いた。
「ヴィル!? どうして、ここへ……」
問いはかすれ、喉がこわばる。
月が雲に隠れ、足元の影がほどけては結び直される。彼の靴音が一歩、また一歩、穏やかな歩調で近づいた。
「どうしたもこうしたもない。いつまで経っても戻らないから、リディアが心配してたぞ。こんな夜更けに外へ出て……本の虫のおまえらしくもない。風邪を引くぞ。戻れ」
返す言葉より先に、胸の奥が早鐘を打つ。
わたしは涙を拭う間もなく、月下の彼を見上げた。瞳には驚きと心配が重なり、灯りのない夜にも色の温度があるのだと気づかされる。けれど、声は出ない。胸が苦しく、息が浅かった。
「……泣いてるじゃないか。何かあったのか?」
真っ直ぐな問いだった。
逃げ場がない。わたしは視線を落とし、石床の薄い光を見つめたまま、ゆっくりと首を振る。喉の奥がきしんだ。
「……気にしないで。あなたには……関係ないことだから」
夜風が頬を撫で、濡れた睫毛の先だけが冷えた。
「関係ないわけあるか」
強くはないのに、退く気のない声だった。
「そんな顔してるやつを見て、放っておけるか」
彼が一歩、距離を詰める気配。
ためらいながらも伸びかけた手が、夜風の中で微かに揺れた。わたしはその動きに心臓をつかまれたようになる。
――本当は、その手に……。
一瞬だけ、胸の奥で小さな声が跳ねた。
揺れる月明かりの下、指先がかすかに袖口へ触れかけた。その気配だけで、体の中心に温度が灯る。
でも、あの温もりに甘えたら、隠してきたものが全部、ほどけてしまいそうだった。
「……やめて。触らないで……」
身をひねる。
彼の指先は宙を掠め、行き場を失って止まった。触れなかった。そのことに、ほっとしたはずなのに、胸の奥が痛んだ。
「いったい、何があった? 話してくれ」
伏せられた瞳の影に、短い痛みが走る。
「……話したところで、何になるの? どうせわかってもらえないし。だから放っておいて。ちょっと涙を見せたくらいで、大げさなのよ」
声は自分でも驚くほど冷たく響き、胸の内側を自分の言葉で切ってしまう。
いまはどんな優しさも、刃のようにわたしを壊しかねなかった。
「……ミツル」
唇が動く。
けれど、それ以上は追ってこない。伸ばしかけた手がぎこちなく下ろされる。その不器用さが、かえって胸を締めつけた。
本当は、頼りたい。
けれど、ひとたび縋ってしまえば、溢れ出るものを抑えられなくなるのが怖い。
わたしは、マウザーグレイルの柄を強く握った。冷たい金属の感触だけが、現実へ繋ぐ鎖だった。
視線が痛い。
わたしは顔を背け、夜風に頬をさらす。刹那の光が胸の迷いと痛みを白くあぶった。
――逃げなきゃ。このままじゃ……わたし、だめになる。
足は速くない。
それでも庭園へ向けて一歩、また一歩。唇を噛み、震える膝に言い聞かせる。
背後で呼び止める声がしたかもしれない。けれど、わたしにはどこか遠くで銅鑼が反響しているようにしか聞こえない。
――お願いだから、放っておいて。
心で繰り返す。
それでもわかっている。彼が、こんな簡単に諦める人ではないことを。雲の奥からのぞく月が、わたしの細い影をちらつかせ、その揺らぎが心細さの形を示していた。
――いまのわたしの顔、きっとひどい。彼にだけは、見られたくない。
そう思った刹那、背後の気配が近づいた。
振り返る前に、腕を支えられる。掴まれた、というより、崩れかけた身体を止められたのだと、遅れてわかった。手甲の金具が、かすかに鳴った。
「きゃっ!?」
息が詰まり、背中をひやりと汗が落ちる。
「……行くな」
低い声。
落ち着きの下に、焦燥が薄く滲む。見上げた闇の中、彼の瞳と視線が交わった。胸が鋭く疼く。切実さの温度が、そこにあった。
「……どうして……」
逃げ出したかったはずなのに、足が動かない。
胸に熱が溜まり、呼吸が乱れた。
「すまん」
ひと呼吸置いてから、彼の指がわずかに緩む。
それでも支えだけは外れなかった。離された途端、また膝から崩れるのだと、たぶん彼にもわかっていたのだと思う。
「だが、今ここで手を離したら、おまえ、ほんとにどっかへ行っちまいそうだから」
その言い方が、妙に彼らしかった。
飾らないくせに、退かない。その不器用さに胸の奥がさらに揺れる。
振りほどこうとした拍子に、膝が頼りなく折れかけた。視界がぐらりと揺れ、足元の月光が滲む。
次の瞬間、支えるように引かれた身体が、そのまま彼の胸へ崩れ込んだ。
「っ……!?」
声が出ない。
広い胸板。思いのほか穏やかな体温。革の匂い、鉄と油の薄い香り。全部がわたしを包み、弱さを露わにする。目を閉じたくなるほど、心が揺れた。
――いやだ。誰かにすがるなんて。わたしじゃない。
頭で言い聞かせても、背に回った腕はあたたかい。
拒めば、彼はきっと手を離すだろう。けれど、離された途端、わたしの膝はまた崩れてしまう。そうわかってしまうくらい、身体の芯がもう残っていなかった。
「……離して。護衛の騎士がこんなこと、しないで……」
震えた声。
涙で滲む視界の奥、青白い月光の庭は遠い。胸が詰まった。
「護衛だろうが何だろうが知ったことか」
短い返事だった。
けれど、そのまま腕の力は強くならない。ただ、わたしが倒れないように、確かにそこにある。
「今のおまえを、一人にできるか」
穏やかな口調の下に、必死さが脈打つ。
頬に当たる彼の胸が熱を帯び、夜の冷えとの境目が少しずつ曖昧になっていく。
「やめて……わたしのことなんか、もう放っておいてよ……」
抑えていた感情が、堰を切る。
涙が止まらず、喉が焼ける。どうしてこんなにも脆いのだろう。
「……ミツル」
名を呼ばれるだけで、逃げ場がなくなる。
拒むはずが、彼の胸へ顔を埋め、布を掴む指先に自分の弱さが伝わる。外套の布地は思ったより硬く、その奥の体温だけが、ゆっくりと震えを受け止めていた。
「おまえが何を抱えてるのか、俺には全部はわからん」
低い声が、耳のすぐそばで落ちる。
「けどな、そんな顔してるのを見て、黙ってろってのはどうしたって無理だ」
年齢相応の落ち着き。
静かな声が、わたしの暗がりをなぞる。背をさする大きな手の温度が、支えている糸をほどきかける。
「……あなたには関係ないって、言ってるでしょ……」
声は震え、それでも腕は彼の胸を掴んだまま。
押し退けられるはずなのに、体温と鼓動が許してくれない。
「関係あるだろうが」
そこで一瞬だけ、言葉が途切れた。
躊躇いみたいな沈黙が落ちる。そのあとで、彼はひどく不器用に続けた。
「……俺にとって、お前は大切なんだから」
胸の奥で、何かがきしんだ。
「っ……大切って……」
不意を衝かれる。
熱が広がるのに、指先は冷えている。普段は無愛想なくせに、こういう時だけ真っ直ぐ過ぎる。その不器用さがいちばんずるい。
――わかっている。その意味は、守護だってことくらい。あなたは、いまもずっと父さまの影を追いかけているってことも。
それなのに、いまだけは甘く聞こえてしまう自分がいる。
「すべてを話せなんて言わない。ただ……ここで一人で立ってなくていい。それだけだ」
言葉は多くない。
取り繕いもない。ただ真剣さだけが静かに通る。そこに余計な飾りがないからこそ、胸の奥の硬いところがほろほろと崩れていく。
「……あなたは……何も……何も……」
本当は言いたくない。
隠しておきたい。けれど抱きとめられていると、崩れてしまう。みじめさと、限界の近さが、喉の奥でぶつかる。
「無理に言わなくていい」
彼の声は低いまま、揺れなかった。
「だが、行くな。今はそれだけでいい」
気の利いた誰かなら、もっとやさしい言葉を探したかもしれない。
けれど彼は、ただ退かないことだけを置く。そのぶっきらぼうなやさしさが、いちばん深く刺さった。
「あなたって……どうして……そこまで……」
吐く息が震え、涙で視界がぼやける。
彼の服を強く握った。どんな弱さをさらしても、呆れないのだろうか。その問いが鋭く胸を刺す。
「俺はずっとお前を見てきた。無理して笑ってるのも、強がってるのも、見りゃあわかる」
嗄れた声が耳を掠める。
――言ったわよ。わたしを見ていてって。でもそういうんじゃない。こんな情けないわたしなんて見ないでよ。
「それを見て放っておけるほど、俺は器用じゃない」
わたしは黙ったまま、顔を伏せた。
強がりは、もう簡単に崩れた。
静寂の中、夜風が外套の端を揺らす音だけが残る。彼の胸を涙で濡らしてしまう罪悪感と、離れられない甘さが、胸の内でせめぎ合った。
「……ミツル」
もう一度呼ばれる名に、全身が微かに戦ぐ。
強引に抱きとめてもらいたいのではない。ただ、離れないでいてほしい。その区別さえ、いまのわたしにはうまくつけられなかった。
「……っ……わ、たし……」
言葉が出ない。
胸が詰まり、呼吸が浅い。喉がひりつく。
それでも彼は黙って支え続ける。腕の中に閉じ込めるというより、崩れた身体を夜の底へ落とさないように、ただ受け止めている。その静けさが切なくて、涙がまた増えた。
「——ご……ごめ、……ごめんなさい……」
嗚咽まじりの小さな謝罪。
こんなふうに泣くつもりじゃなかった。誰にも見せたくなかった。情けなさと、どこかの安堵が混ざり、涙は止まらない。
何も尋ねない。
背をさするだけ。その仕草が、いちばん胸を締めつける。
「何も言わなくていい。いまは、それでいいんだ」
落ち着いた声が夜に溶け、心の結び目がひとつずつほどけていく。
腕の中から離れる力も意志も、もう残っていなかった。しゃくりあげる息が、暗がりに吸い込まれていく。
――だめだ。縋っちゃだめ。もっと強くならなきゃ。
頭の片隅が繰り返しても、涙はやまない。
彼が何を考えているかはわからない。それでも、ためらいなく支えようとする腕がある。ただそれだけで、救われてしまう。
「ヴィル……」
名を呼ぶと、彼は一拍のためらいのあと、しっかり抱き寄せた。
役割も立場も、いまだけは夜の向こうへ霞んでいた。胸の奥がじくじくと痛む。それでも、ぬくもりから離れたくない。
やわらかな夜風が二人のあいだを抜け、月は雲に隠れて足元をやわらかく沈める。わたしは震える体を持て余し、涙だけが流れ続けた。
――甘えれば、また傷つくだけ。わかってる。でも、それでも、いまだけは……この温もりを拒めない。
嗚咽まじりの呼吸を繰り返しながら、わたしは彼の腕の中で泣き続けた。
明日になればまた戦わなければならない。背負うものは減らない。それでもいまは、ただの女の子みたいに、胸で泣きたいと願ってしまう。
胸の奥の軋む痛みを抱え、小さくしゃくり上げた。
彼の心臓の鼓動が耳へ静かに届きはじめ、わたしはそのリズムに合わせて、か細い息を吐いた。
――もう少しだけ、こうしていたい。たとえ甘えだとしても、いまはそれしか選べない。ごめんね、ヴィル……。




