願いの先は、光か闇か②
月の光がやわらかに降り注ぐ離宮の回廊は、夜のしじまへ溶けていくように静かだった。白亜の柱が幾本も並び、その向こうで庭園が闇に淡く浮かぶ。薄い雲が月をかすめるたび、床と柱に落ちた光がわずかに揺れ、世界の皮膚が震えるように見えた。
わたしはその揺れを内側でもなぞり、マウザーグレイルの柄へ自然と力を込める。金属の冷たさに指先が汗ばみ、鼓動ばかりがやけに近かった。
「ねぇ、茉凛……?」
《《どした? なんか考え込んでるみたいだったけど》》
「まあね。例の『深部領域』――マウザーグレイルの奥に封じられた記録と、IVGに連なる演算領域の解放に踏み込むべきなのか、それが本当に正しい選択なのか。そんなことを、ずっと考えてた」
自分の声がひどく遠い。
ほの暗い空気へ吸われた音が返ってくる頃には、もう自分のものではないみたいだった。喉の奥ばかり乾いて、言葉にするたび、不安の層がひとつずつ重なっていく。
それでも、わかっている。わたしが起動しなければ、望む結果は手に入らない。けれど、みぞおちのあたりだけが先に怯えていた。待っているのが希望なのか、後悔なのか、それすら見えないまま、足だけが床へ根を張っている。
「……わたしが心配してるのはね、茉凛、あなたのことよ」
《《わたしのこと? なんで? 前に約束したじゃない。もう無茶はしないって。だから心配なんて……しなくても大丈夫だよ》》
いつもの軽さをまとった声だった。
けれど、その奥にごく細いひび割れの気配がある。薄氷に爪先を置いたみたいなかすかな震えが、耳の奥を針みたいに刺した。
「そりゃあ、今までは大丈夫だったかもしれないよ。でも、これ以上、接続深度を高めたら……また、あのときみたいなことに……」
腕を抱く。瞼を伏せる。
ヴィルと初めて手合わせした日の光景が、暗い水の底みたいによみがえった。
茉凛は予知の視界の致命的なラグを埋めようとして、自分の意識を剣の奥へ深く沈めた。そして、しばらく反応を失った。あのときのわたしには、名を呼び続けることしかできなかった。
《《……あのときのこと、まだ気にしてるの? あれは、わたしが無茶をしたせいだよ。美鶴のせいじゃないって》》
その声はやわらかいのに、耳の奥でひそやかにきしむものがある。月明かりがわずかに濃くなり、回廊の影が長く揺れた。
あのときも、時間だけがひどく長かった。呼んでも呼んでも返ってこない沈黙の重さが、いまの静けさに触れた途端、喉の底へそのまま戻ってくる。
二度とあの無力へは戻りたくない。
そう思うだけで、呼吸が薄くなった。
あれから彼女は、《《慎重に、時間をかけて解析する》》と約束し、実際にそうしてきた。機能は増え、予知の遅れは薄れ、お祖父さまの治療の場でも迷いなく働いてみせた。だからこそ、静かに変わっていく彼女が怖い。
《《……うん。危険がまったくないって言ったら、それは嘘になる》》
無邪気さを半歩だけ脱いだ声だった。
《《でもね、美鶴。たぶん、ただ昔の記憶を覗くだけってわけじゃ済まない》》
「えっ……?」
《《奥を開けたら、わたしたちの知らないものまで一緒に飛び出してくるかもしれないの。術の形とか、もっと別の何かとか……そういう、触らないままだったものまで、まとめて》》
身じろぎすると、冷えた鞘が掌の奥へずしりと沈んだ。深奥、という響きだけで、暗い底へ視線が引かれていく。
茉凛は、ただ説明しているのではなかった。
声の端が少しだけ硬い。わたしを怖がらせないように言葉を選びながら、それでも自分の恐れを隠しきれていない。そのことが、かえって胸を冷たくした。
「それが、危険ってことなの……?」
《《うん。もし一気に開いたら、わたしにも止められないかもしれない。下手をしたら、あなたまで持っていかれる》》
喉の奥がひやりと静まる。
《《それに……いやな想像だけどね。もし、向こうがまだ終わってなかったらどうする?》》
「向こう……?」
《《デルワーズだよ。もし、あの人がぜんぶ諦めて終われていなかったら。奥に触った瞬間、あなたの中へ入り込んでくるかもしれない》》
言い方は静かなのに、差し出された最悪だけが鮮やかだった。
茉凛が怖がらせたいわけではないとわかる。わかるのに、その理路整然さがほんの一瞬だけ残酷に見えて、背筋の奥へ冷たいものが走る。
「入り込むって……どうして?」
喉が乾く。
そこから先の言葉は、茉凛ではなく、わたし自身の中で形になった。
デルワーズには、魂の情報を保存し、すげ替え、再構成した前例がある。
――もし、深部記憶にデルワーズ自身の人格や記憶の写しが眠っているのだとしたら。
わたしと弓鶴の意識を入れ替え、解呪のあとには、わたしと転写された茉凛の情報までも精霊子の中へ保持した。その特性を知っていれば、深部記憶へ踏み込むことがどれほど危ういか、いまさら説明などいらなかった。
「つまり……わたしを、乗っ取るって言いたいの?」
《《そこまでは、わからないよ》》
茉凛の声が一拍だけ落ちる。
《《でも、ないって言い切れないんだよね》》
正しい。
正しすぎる。
だからこそ、いっそう残酷だった。
「けど、あなたも知ってるでしょう? デルワーズの流した、あの涙を……」
《《うん……》》
「あれを思うと、そんなの、わたしには信じられない。彼女の気持ちはたしかに本物だった。愛するエリシアが生きていける世界を守りたくて、未来が欲しくて、命を賭けてまでして、戦い続けたのよ。そんな優しい人がすることなの……?」
《《……信じたくないよ。わたしだって》》
茉凛の声が、そこでひとつ沈む。
《《でも、人ってさ、優しいまま壊れていくとは限らないでしょう?》》
その言葉が、まっすぐ刺さった。
自分が自分でなくなっていく、あの足場の崩れ方を知っている声だった。
《《肉体を失って、気の遠くなるような長い年月を、時空を渡りながら戦い続けてきたのだとしたら……》》
――彼女は、果ての見えない時の底で、たったひとりで……。
《《残っていたのが、願いそのものじゃなくて、願いの形だけだったってことも、あるかもしれない》》
「そんなの、信じたくないけど……」
どろりとした恐れがみぞおちを締めあげる。
精霊子の危うさは、嫌というほど知っている。知っているからこそ、いま茉凛が言わなかった先まで、自分で繋げてしまう。
「それじゃ、このミツルはそのために用意された、特別な依代――器だったというの?」
背筋に冷気が走る。
鞘に触れた指先が、ごくわずかに震えた。その震えに引かれるみたいに、見過ごしてきた記憶がふいに覗いた。
◇◇◇
前世と今生の記憶に揺れていた頃。
母がわたしにミツルの名を与えた経緯を知り、言い知れぬ不安に呑まれかけたわたしへ、茉凛はあっけらかんと笑って言った。
《《でも、わたしはあなたが生まれ変われたことが嬉しいよ? それもちゃんと女の子で、名前だって同じ読みだなんて》》
「だから……それがおかしいのよ? 気づかない?」
《《え? どこが?》》
「あのね。どうして、母さまがわたしにミツルなんて名前をつけたか知ってる? わたしがまだお腹の中にいた時に、『あなたがそういう名前にして、って声がしたように聞こえた』んだって。ありえないでしょ?」
《《うーん……でも、素敵な話だと思うけど?》》
「……そんな素敵な出来すぎた話が、どうして起こるの? どう考えてもおかしいでしょ?」
手のひらがじっとりと汗ばむ。
わたしたちの再会は、何かの計画の一部だったのかもしれない。デルワーズの「またいつか会える」という言葉さえ、偶然でも優しさでもなく、誰かがあらかじめ舞台を整えた結果なのだとしたら――そう思った瞬間、冷たいものが背骨に沿って這い上がった。
◇◇◇
あのときの疑念が、いま、マウザーグレイルの深部記憶と、IVGに連なる演算領域をめぐる危険と絡み合い、もっと濃くわたしの内側を満たしていく。
冷たい夜気。
長い影。
わたしの生まれも、マウザーグレイルの理由も、ここへ至るまでの道筋さえ、誰かの思惑に支えられているのではないかという確信めいた疑いが、背の芯をじわじわ粟立たせた。
「何もかもが仕組まれていたんだとしたら。この転生に何の意味があったというのよ……」
呟きは広い石の空間に薄く散った。
《《それでも、わたしは前に進みたいな》》
茉凛の声が、今度は静かにはっきり響いた。
《《グレイさんの治療だって、クロセスバーナのことだって、このまま何もしないで見送ったら、きっともっと後悔する》》
返しかけた息が喉の奥で止まり、月に冷えた空気だけが二人のあいだを薄く流れた。
《《どんな思惑が動いていようと、それでも、わたしたちの手でやらなきゃいけないことは残ってるよ》》
その奥に怯えがある。
わたしを思う気持ちと、自分自身が押しつぶされそうな苦しさを抱えたまま、それでも明るさを手放さない。その健気さが、喉の奥へじんと沁みた。
雲が流れ、月が顔を出す。
さっきより少し強い光が、回廊を白く撫でた。まぶたを伏せても、静けさばかりが耳に痛い。
「……あなた、なんでそんな平気なふりができるの?」
かすれた声だった。
彼女だって平気なはずがないのに、わたしを支えようとする優しさが、どうしようもなく大切で、切ない。
「……どうなるかなんてわからない。けど、わたしはどうしたって怖いのよ。ほんの一歩先ですら、闇が大きな口を開いて待っていそうで……」
震える声とともに剣を抱き寄せる。冷えた金属が掌に食い込み、その痛みだけで、かろうじて形を保っていられる気がした。
《《……そうだね。だからさ、その時には一緒に行こう?》》
――茉凛が、こんなこと言うなんて……。
《《二人ならなんとかなるよ。今までだってそうだったでしょ?》》
――それだけは間違いない。
「そうだね……地獄だろうと、どこだろうと……わたしたちはそうやってきたんだし、いまさらよね」
慰めらしい慰めではない。
ただ、その言い方があまりにもいつもの茉凛で、それだけで救いになった。
「でもさ……ぜったいに表には立たないって、自分で決めたのに。逃げたわけじゃないのに。それが正しいんだって思えたのに……」
声が闇へ向かってほどけていく。
「偶像にも、旗印にもならない。敵の思う通りには動かないって……そう決めたはずなのに。結局、別の場所で、こんな形で戦うしかないなんて。なんて皮肉なんだろうね……」
「こんなこと……ラウールにも、ヴィルにも言えない。お祖父さまには、なおさら」
言葉にした瞬間、腹の底がすうっと冷えた。
わたしは回廊を離れ、内庭へ出た。
離宮の敷地内とはいえ、夜の庭は完全な無人ではない。奥の植え込みの向こうには衛兵の足音が遠く残り、見回りの灯が、木々のあいだをゆっくり移っている。
それでも、いまは誰にも近づいてほしくなかった。
月明かりに身をさらせば少しは楽になる気がしたのに、頬を撫でる風は、内側の恐れの輪郭ばかりをくっきりと浮かび上がらせた。
芝の縁で、とうとう膝が折れる。
そこで堪えていたものが、いっせいに切れた。
「ああ……わたし、どうしたらいいんだろう……もう、なにもかもわかんない」
か細い声が夜気へ溶け、闇へ散る。
どの道を選んでも痛みは残るのだと知って、呼吸は浅く、噛み締めた唇へうっすら血の味が滲んだ。
抱え込んだ白い鞘だけが、冷えたまま確かにそこにあった。




