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願いの先は、光か闇か①

 空模様さえ息を潜めるようだった、あの張り詰めた日から、気づけばもう二週間が過ぎていた。


 砂時計の砂がこぼれ落ちるみたいに、わたしの手の中から時間だけがさらさらと流れていく。


 離宮の廊下を照らす魔道ランプの明かりは、今日も変わらず煌々としている。柔らかでありながら毅然とした光の筋に照らされ、わたしは先ほどまで書斎でアルベルトとともにまとめていた検査結果の書類を、胸元へ抱き込むように持っていた。


 お祖父さまの容態には、予想を上回る改善の兆しが見えはじめている。


 肝臓の腫瘍は、共振解析上ではたしかに縮小傾向を示していた。肺へ及んでいた病巣も、侍医司の処置と局所温熱の継続によって、ひとまず増悪を抑えられているように見える。


 けれど、まだ油断はできない。


 検査結果には、目立つ病巣とは別に、細かな転移がなお残っている事実が、細い文字となってぎっしり示されていた。


 ――いわゆる寛解には、まだ遠い。


 そう思うだけで胸の奥がぞわりと落ち着きを失い、心はどこか浮き足立つ。頭では、焦らず着実に前へ進むしかないとわかっている。それでも、血が急かすような不安だけは消えてくれなかった。


 扉の前に立ち、息を整える。


 微かに震える指先をほんの少し握ると、書類がかさりと音を立てた。乾いた紙の音は小さいのに、いまのわたしの呼吸を乱すには十分だった。


 廊下に漂う消毒薬の気配が少し薄れる。


 控えめにノックをしてから、お祖父さまの部屋へ足を踏み入れた。重厚な扉が開くと同時に、懐かしくも優しい声がわたしを包んだ。


「やあ、ミツル」


 その声とともに目へ飛び込んでくるのは、変わらない穏やかな笑みを湛えたお祖父さまの姿だった。


 本来は先王の私室であったこの部屋は、いまは療養のために静かに整え直されている。廊下よりさらに明るい魔道ランプの光が、壁紙の柔らかな色合いをやさしく返していた。


 窓辺には侍医司から運び込まれた薬棚と器具が、余計な威圧を見せぬよう控えめに収められている。ベッドサイドの小卓には、仄かに香るフラワーポプリ。清潔なシーツの匂いに、薬草の苦みがほんの少しだけ混じっていた。


 薄手の毛布をかけられたお祖父さまは、白い枕を背もたれにゆったりともたれながら、まるでわたしの不安を見透かすように微笑んでいる。


「浮かぬ様子だね。いかんぞ、そんな顔をするものではない。さあ、背筋を伸ばして、胸を張り給え」


 その姿を目にするだけで、張り詰めていた胸はほんの少し解ける。


 けれど同時に、何かもっとしてあげられることはないのだろうか、という思いがせき立てる。わたしは必死に平静を保ちながら、持ってきた書類を胸の前でそっと抱きしめ直した。


「お気遣いありがとうございます。ですが……自分の力の無さが、どうにも悔しくて」


 自分の声が、これ以上ないほど小さく、重く響いた気がした。


 口を開くたび、どうしてこんなにも心が軋むのだろう。わたしはぎゅっと握りしめた拳に力をこめる。爪が掌へ食い込む感触が、かすかな痛みとなって心をつなぎとめてくれた。


「『精霊魔術の可能性を切り開く』などと大口を叩いておきながら、この程度の成果しか示せず、せっかくお祖父さまにご期待いただいたのに、申し訳なくて……」


 言い募るように漏れた声に、お祖父さまはふっと切なそうに目を細めた。


 けれどそれは責めるためではなく、すぐに優しい笑みへ移り変わっていく。まるでわたしの心の奥底ごと抱きしめるように、落ち着いた声が部屋へ静かに広がった。


「はは、何を言うかと思えば。そんなことはない」


「ですが……」


「君が示した成果は称賛されるべきものだ。事実、侍医司の面々も、君が新たな治療法を提示してくれたことを高く評価している。今後の医療の発展に大きく寄与するだろう、とね」


 その言葉を受け取っても、背筋の強張りはまだ消えなかった。


 嬉しさはある。たしかにある。けれど、それよりも道半ばだというもどかしさのほうが、ずっと強く胸を押してくる。


 視線を外し、窓際で薄く揺れているカーテンへ目をやる。そっと息を吸い込むと、清潔なシーツや微かな薬草の香りと一緒に、これ以上ないほどの切実さが胸いっぱいに広がった。


「ですが……検査資料はご覧になっているでしょう? 現状ではまだ、完治への道筋が見えておらず……お祖父さまをお救いするには、ほど遠いままで……」


 声が震えを帯び、唇の端が小さく揺れるのが自分でもわかった。


 どうしても納得できない。


 お祖父さまの病が根こそぎ消え去るまで、わたしは満足できないのだ。何より、お祖父さまには少しでも長く元気でいてほしい。その思いだけが、喉の奥でずっと燻り続けていた。


 そんなわたしの思いを汲んだのだろう。お祖父さまはゆっくりと首を振る。


 動作こそ年老いた人のそれではあるけれど、瞳の輝きは以前と変わらない。しわが刻まれたその表情から、不思議なほどの安心感が湧き上がってくる。


「なあに、私のことなら気にする必要はない。元々老い先短い身だし、こうして君の研究の糧になれるなら、まさに本望といえよう」


 冗談めかした声だった。


 けれど、そこに自分を軽んじる色はない。未知を前にした知の人としての明るさと、わたしを怖がらせまいとする祖父のやさしさが、同じ呼吸の中にあった。


「……そんなこと、おっしゃらないでください」


 喉の奥がひやりと狭まり、書類の角が指の腹へ硬く食い込んだ。


「無論、最後まで諦めるつもりはないがね。君も、そうなんだろう?」


 そう言って、小さくクスリと笑う。


 お祖父さまの笑みはどこまでもやさしく、力強い。わたしのため息まで包み込み、癒してくれるみたいだった。


 胸の奥に、遅れてぬくもりが滲んだ。


「……はい。わたしは絶対に諦めません」


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


 こみ上げる覚悟が、そのまま言葉になったみたいに、頬から耳へ熱が駆け上がっていく。でも、もう後ろを振り返るつもりはなかった。


 何もかもを諦めたくはない。


 研究も、治療も、お祖父さまとの時間も――わたしにとって、どれ一つ欠かすことのできないものなのだから。


「ならばよい。やれるだけ、やってみなさい」


 お祖父さまの静かな声は、魔道ランプの柔らかな光と相まって、胸をとくとくと励ました。


 わたしはそっと深呼吸をしてから書類に目を落とし、意を決したように一歩、ベッドへ歩み寄った。


 ――わたしはもう、誰も失いたくない。もう、奪われ続けるのは嫌だ……。


 その思いが強くなるたび、わたしの中で何かが燃え上がる。


 ――絶対に諦めない――お祖父さまの命を救うためなら、精霊魔術の限界すら乗り越えてみせる。


 こわばっていた呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。


 深くなったはずなのに、肺の奥だけが妙に熱い。握りしめた書類の角が掌へさらに食い込み、紙の硬さが、皮膚の下で細く脈打つように感じられた。


 それでも、わたしはその痛みから目を逸らさなかった。


「はい、お祖父さま。わたしのできる限りを尽くします。どうかご覧になっていてください」


 窓の外を見やれば、夜闇の端に微かな星影が瞬いている。


 部屋の隅で揺れる暖色のランプの明かりが、その星々と呼応するようにやさしい光を落としていた。


 それはまるで、わたしの決意を祝福してくれているみたいだった。


 けれど同じ光は、書類を握るわたしの指の影も、ベッドの白い毛布の上へ細く落としている。


 その影が何を指していたのか、そのときのわたしにはまだ、わからなかった。


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