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穏やかな朝に、運命の手紙を読む

 翌朝。やわらかな朝光が窓辺を撫で、瞼の裏へうすい温度を差し込んでくる。


 思いのほか深く眠っていたらしい。起き抜けの身体は羽のように軽く、昨夜、茉凛と交わした言葉の余韻が、胸の奥に残っていたひっかかりを、静かにほどいていた。


 カーテンの隙間へ目をやる。薄青の空に淡い雲が流れ、夜明けの名残が、離宮の古い壁や柱の陰影をやさしく立たせていた。その清澄に、知らず背筋がすっと伸びる。


「……ふう」


 眠れなかったはずなのに、目覚めは驚くほど心地よかった。ベッドから身を起こし、窓下の庭園を見やる。朝露をまとった芝生と季節の花壇がやわらかく瞬き、高台の離宮からは、朝靄に沈む街並みが遠くに透けて見えた。


 そのとき、扉が控えめに叩かれる。朝の静けさを乱さない、小さな音だった。


「お嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか」


 リディアの声だ。年を重ねたやわらかな響きが、朝のひかりみたいに部屋へ差し込んでくる。


「はい、起きています。入って」


 扉が静かに開き、リディアが銀盆を手に入ってきた。水差しと洗面器、白布、それから淡い香りの立つ茶器。深緑のエプロンドレスの裾が、床を擦らずに流れていく。長年の習い性が、音まで整えているようだった。


「おはようございます、お嬢様。今朝は、お顔色が少しよろしゅうございますね」


 その言い方があまりにさりげなくて、わたしは思わず小さく笑ってしまう。


「そう見えますか?」


「はい。昨夜より、目の奥の翳りが薄うございます」


 否定も詮索もせず、ただ気づいたことだけを差し出してくる。そういう優しさに、胸の奥がふっとゆるんだ。


 リディアがカーテンを少しだけ開く。朝の光が広がり、部屋の空気がひとしずく澄んだ。洗面器の水へ手を差し入れると、冷えが指先から頬へ、ゆっくり意識を引き戻していく。白布で水気を押さえるあいだも、リディアは余計な言葉を挟まない。ただ、必要なものを必要な位置へ置いていく。


 薄絹のナイトガウンの襟を整え、鏡へ映る自分に指先を添える。昨日までの翳りは薄く、口元をわずかに持ち上げると、瞳の奥で小さな光が返った。


 ――よし。今日は、ちゃんと動こう。


 胸の奥に残る不安が消えたわけではない。けれど、それを抱えたままでも進める気がした。昨夜もらった一筋の灯を、胸の内へそっとしまいこむようにして、今日という一日に手をかける。


 リディアはクローゼットから朝用のドレスを取り出し、寝台の脇へ広げた。手首を返すだけの所作なのに、布がふわりと息をする。


「今朝の朝餉は、いつもの食堂へお運びしてよろしゅうございますか」


「ええ」


 頷きかけて、ふと別のことを思い出す。昨夜のやりとりの余韻が、まだ胸のどこかであたたかい。


「……ねえ、リディアさん。ヴィルはもう起きているかしら?」


 リディアの指先が、背の留め具へかかる。声は変わらず穏やかだった。


「はい。ブルフォード様は、朝からお部屋で書類をご覧になっておいでです」


 その答えに、胸の真ん中がほんの少しだけ騒ぐ。昨夜のことを思い出したのか、それともただ、朝いちばんに顔を見たいと思ってしまったからなのか、自分でもうまくわからない。


「そう……。じゃあ、あとで少し顔を出してみます」


「かしこまりました。朝餉は二名分、ご用意しておきましょうか」


 その一言に、耳の裏がじわりと熱くなる。


 リディアはわかっていて言っているのだろうか。けれど、問うような気配はない。ただ、必要な段取りだけを先に整えてくれる。


「……お願いできますか?」


「もちろんでございます」


 最後の留め具が閉じる。布地が肩へ馴染み、気持ちまで整えられていくようだった。


 腰へ差し出された白きマウザーグレイルを受け取る。磨き込まれた鞘の冷えが、掌へ静かな確かさを返してくる。身支度を終えたわたしに、リディアはいつものように一歩だけ下がった。


「どうぞ、ご無理はなさいませんよう」


「ありがとうございます、リディアさん」


 それだけのやりとりなのに、離宮の朝はちゃんと人の手で始まっているのだとわかる。ひとりで立っているようでいて、そうではない。そのことが今朝は、不思議なくらい心強かった。


 部屋を出ると、廊下には冷えた石と朝の匂い、遠くの足音が薄く漂っていた。衛兵や侍従へ会釈を返しながら歩いていくうちに、足取りは自然と軽くなる。


 やがてヴィルの部屋の前。


 扉を叩く寸前で、指先がほんの一瞬だけ止まった。昨夜、自分がどんな顔で眠りへ落ちたのかを思い出し、耳の裏がすこし熱を持つ。


 侍従が内へ告げると、扉の向こうから低く確かな声が返った。


「……ミツルか? 構わない、入ってくれ」


 開く扉。差し込む陽。窓辺の机で書類をまとめている彼の金の髪が、朝の光を受けて淡く縁どられていた。精悍な横顔の硬質さに、いつもより少しだけやわらかな気配が混じっている。


「……おはよう。早かった、かな」


 口にした瞬間、自分の声が思っていたより近く、少しだけ頼るように響いていた気がして、胸のあたりが小さく騒いだ。


 彼が顔を上げ、口元にわずかな笑みを押し上げる。


「いや。ちょうど区切りがついたところだ。……それより、顔色はだいぶましだな。昨夜は、ちゃんと眠れたのか」


「うん。不思議なくらい、すっきりしてる。自分でもびっくりした」


 そこで一度、視線が机の端へ滑る。積まれた書類の端を見つめながら、息をひとつ整えた。


「……ねえ、ヴィル。もし、急ぎじゃなかったらだけど。一緒に朝食、食べない? ちゃんと落ち着いて、話したいの」


 彼はわずかに目を細め、手にしていた書類を束ねて脇へ寄せた。


「いいだろう。言われてみれば、腰を落ち着けて食事をとるのも、ずいぶん久しぶりだ」


 ふたりで離宮の食堂へ向かう。


 そこは豪奢というより、古風で静かな意匠の残る場所だった。大きな窓から差し込む光がテーブルクロスへ薄金の影を置き、人影はまだまばらで、空気は朝の冷えを少しだけ残している。陽だまりの席に向かい合って腰を下ろすと、ようやく一日が始まったのだという実感が、やわらかく胸へ落ちた。


 湯気の立つコンソメ。ハーブを添えたパン。ふわふわのスクランブルエッグ。焼きたての香りが指先の冷えをほどき、スープをひと口含むと、滋味が喉をまっすぐ落ちていく。


 以前なら茉凛がすぐに《《おいしい!》》とはしゃいだはずだ。今は剣の内界での作業が多いせいか、五感の接続を自ら外しているのだろう。その静けさが少しだけ寂しくて、でも、今はそれでいいとも思えた。


「ねえ、ヴィル。……こういうの、やっぱりいいよね」


 スープ皿の縁へ視線を落としたまま言うと、彼は小さく息を吐いた。


「わかる。今朝は、こういう味がやけに沁みるな。昨夜は少し気が立っていたせいか、胃の奥まで固かった」


 言葉を急がず、温度を確かめるみたいに食事を進める。その穏やかな間合いの中で、彼がふとポケットから一通の書簡を取り出し、卓上へそっと置いた。封蝋の色が朝の光を受け、固く、低く光る。


「……これ、朝いちで届けられた。お前宛だ。差出人はラウールらしい。開封はしていない」


「ラウールから……」


 胸の奥が小さくざわめく。彼との関係は、いまだにたやすく名づけられない。けれど矢面から遠ざけようとする、その不器用なくらい実直な姿勢だけは知っている。


 ヴィルが鼻をわずかに鳴らした。


「正直、気分のいい差出人じゃない。名を聞くだけで胸くそが悪い」


 そこまで言ってから、カップの縁へ指を置き、視線をわたしから外す。


「……だが、あいつの目に曇りがないのも事実だ。何を背負ってるのかまでは知らん。だからこそ、お前が自分で読んで、自分で決めればいい」


 少し不機嫌な、そのくせ誤魔化さない物言いに、思わず笑みがこぼれた。


「……うん。読んでみる。ありがとう」


 封の重みを掌へ移し、すぐに開けようとして――今はまだ、この朝の温度を壊したくないと、ふいに思い直す。もうひと口スープを含み、体の芯へ温かさを落とす。


「ラウールって、怖いくらい真っ直ぐな人でしょう?」


 言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。


「だから、ときどき息が詰まるの。でも……伝説の巫女と騎士を担ぎ上げれば、それで済むなんて、本気で思ってる人じゃない。そこは、ちゃんとわかるの。だからわたしも、自分にできることをきちんとやらなきゃって思う。それが、あの人の誠意に対する……わたしなりの返事になる気がして」


 彼は湯気の立つ杯を両手で包み、しばらく黙っていた。それから、静かに頷く。


「それでいい。人間、欲張ったところで、できることには限りがある。手の届く範囲で踏ん張ればいい」


 その声が一段低くなる。


「ただし、無茶だけはするなよ。お前が倒れたら、結局は余計に誰かを巻き込む」


「……うん。肝に銘じる。ありがとう、ヴィル」


 彼のことばが、すっと胸に染みた。いつの間にか、こうして向かい合って言葉を交わすことが自然になっている。たぶんわたしは、彼がそばにいてくれることに、気づかぬうちにずいぶん救われているのだと思う。


「……さて。俺は一度、仕事へ戻るとするか」


「仕事?」


 わざとらしく目を丸くしてみせる。軽くからかっただけのつもりなのに、喉の奥で弾けた笑いが、自分でも思ったより明るかった。


「珍しいわね。わたしの知ってるヴィルって、巡回と称してぶらぶらしてるか、庭で素振りしてるか、木陰で昼寝してるか、そのどれかなんだけど」


 彼は不機嫌そうに頭を掻いた。金の髪がふわりと揺れ、爪が地肌をかすめる乾いた音がした。眉間の皺は深いのに、目元の影はどこか照れくさそうだ。


「あのな、これでも今は一応、宮仕えの身なんだぞ。報告書だの決裁だの、細かい書類が回ってきてだな、面倒で仕方ない。そういうのは昔から苦手なんだ」


「で、溜まりに溜まって、ついにお尻に火がついたとか?」


 スプーンが皿の上で小さく震えた。軽口の明るさの下で、胸の真ん中だけがすこしきゅっと鳴る。こうして冗談が言えるくらいには、わたしたちは近くなったのだと、遅れて思う。


「ぐっ……まあ、昼頃にはまた顔を出すつもりだ。何かあったら知らせてくれ」


 言い淀む間合いが可笑しくて、笑いが喉をかすめた。彼は踵をわずかに返し、靴底が石を穏やかに叩く。立ち上がる影が一瞬、テーブルクロスを横切り、白い布の上へ淡い縞を落とした。


「……わかった。手紙、ちゃんと読んでおく」


 声に出した途端、紙の縁が現実の重さを取り戻す。封の合わせ目へ指を沿わせると、羊皮紙の乾いたざらつきが、爪の先へかすかにささやいた。


 彼が視線を一瞬、わたしの手元へ落とす。それ以上は何も言わず、踵を返した。外套の裾が低くさざめき、去っていく足音が二度、三度、石へ吸い込まれていく。


 残された温度の中で、わたしはひとつ呼吸を整える。


「あ……」


 剣の奥から、茉凛の気配がふと立つ。胸の内側を、くすぐったいような静けさが、ふわりと撫でた。


「……大丈夫。ちゃんと向き合うよ。あなたが昨夜、背中を押してくれたから」


 言葉にするほどでもない、けれど確かに感じる寄り添い。頭の奥で、小さな笑い声が転がったような気がした。


 深く息を吸い、ゆっくりと封を切る。紙の繊維へ刻まれた文字が、彼の意志の温度を帯びて整然と並んでいた。


◇◇◇


親愛なるミツルへ


 この手紙を読んでいる頃、僕はもう次の動きに入っているはずだ。君と肩を並べられないのは歯がゆいけれど、せめて手がかりだけでも先に渡しておきたい。


 まず伝えたいのは、クロセスバーナの動向だ。


 彼らは、単にリーディスの巫女が邪魔だから狙っているわけじゃない。もっと深い目的のために、君と君の剣を必要としている。


 僕が掴んだ話では、彼らは“無の残響”と呼ばれる禁忌へ手を伸ばそうとしている。古い文書には名前だけが残り、中身はほとんど失われていた。ただ、もともとは精霊子に深く関わる現象だったものを、彼らは膨大な魔素を媒介に擬似的に再現しようとしている節がある。物質と精神、そして空間を無理に結び直すような術ではないか――断片的な記述から、いま読めるのはそこまでだ。


 そして彼らは、その鍵が君とマウザーグレイルにあると見ている。だから、あそこまで執拗に君を狙う。


 さらに、近く“蒼の尖塔”で大規模な魔素の収束を試みる計画があるらしい。ソミンの古伝では、そこは太古の巫女が犠牲を払って封じた“禁域”の縁にあたる場所だという。もし封が緩めば、君の宿命に深く関わる何かが、動き出す可能性が高い。


 現時点で断定できるのはここまでだ。


 曖昧な書き方に見えるなら、それは僕が君を煽りたいからではない。まだ輪郭の揃わないものまで、断言で押しつけたくないからだ。


 ただ、ひとつだけ言える。


 君が背負うものは、君ひとりのものじゃない。そこには君の知らない悲劇も、希望も、幾重にも折り重なって眠っている。そして、その鍵を握るのが、君の剣と、その剣に宿る魂だ。


 だからこそ、心が折れそうな時は、どうかこの言葉を思い出してほしい。


 “欠けた翼の中に眠る真実。それは悲しみの中に輝く灯火を守る。”


 これはソミン王家に伝わる古い一文だ。僕にも意味のすべてはわからない。けれど、きっと君のために遺された言葉だと思う。


 どうか、ひとりで抱え込まないでほしい。


 君は孤独じゃない。必ず味方がいる。それだけは忘れないでいてほしい。


 君が今、迷い、苦しみ、それでも選んでいくものは、きっとこの先の未来を照らす光になる。だから、もし僕の祈りが届くなら、君の選ぶ道がどんな未来であれ、その先に灯火を見いだしてほしい。


 また必ず会おう。


 ラウール


◇◇◇


 読み終えて、そっと息を吐く。


 無の残響。蒼の尖塔。欠けた翼。


 どれも、まだ地図の上に置ける名ではない。名だけが先に届き、意味は霧の向こうで息を潜めている。それでも、古文書の中でしか見えなかったものが、たしかな企図として今ここへ置かれたことだけはわかった。


 軽くはない。


 けれど、ラウールの筆はわたしを煽り立てるためではなく、危険を静かに伝えるためだけに動いていた。その誠実さが、胸の奥へ不思議な熱を残す。


 けれど、いまのわたしには最優先がある。


 お祖父さまを苦しめる病。あの苦しみを、少しでも和らげたい。寛解へ近づけたい。国を揺るがす脅威が迫っていようとも、今この瞬間のわたしにとって、それ以上に切実なものはない。


「……クロセスバーナのことが大事じゃないわけじゃない。でも、だからって、わたしが焦って表に立つのは、違う」


 頬へそっと手を当て、呼吸を整える。ヴィルのことばも、ラウールの祈りも、結局は同じところを指している。全部をひとりで背負えば、どこかで必ず崩れてしまう、ということだ。


「いまは、足元を見失わないこと。そういうことなんだろうね」


 お祖父さまの病は、この国の思惑とも、政治とも、まるで別の場所で進んでいる戦いだ。侍医たちと最善を探り、必要なら精霊魔術も、マウザーグレイルの力も使う。順番だけは、間違えてはいけない。


「……今は、目の前に集中しよう。ラウールもヴィルも、わたしが無茶しないようにって、何度も言ってくれているんだし」


 小さくつぶやいた瞬間、胸のこわばりが、ほんの少し緩んだ気がした。


 焦らなくていい。わたしが象徴として目立てば、敵にとっては都合のいい的になる。あちらの思惑へ、わざわざまっすぐ飛び込む必要なんてない。


「……まずは、わたしがやるべきことをやる。それでいい」


 手紙を丁寧に折り、掌の上へそっと温度を移す。遠い場所で同じ朝陽を見上げているような、かすかな熱が紙の奥に残っていた。


 冷めかけた紅茶をひと口。ゆっくり立ち上がる。窓の外の庭は変わらず朝の光に包まれ、その先には、日々の暮らしを営む人々がいて、わたしにとって何より大切な家族がいる。その事実が、静かに胸の底で揺れた。


「よし、お祖父さまのところへ……顔を出そう」


 ラウールの忠告を、忘れたわけじゃない。因縁も宿命も、きっとこの先でわたしを待っている。けれど――


 いまのわたしには、最優先で守りたい命がある。


 いつか、もっと強い意志で選ばなければならない日が来るのかもしれない。その時に後悔しないように、いまは目の前の“できること”をひとつずつ重ねていく。


 草花の匂いが、ふと胸いっぱいに満ちてくる。静かな朝の空気のなか、わたしは手紙を胸もとへ抱き、離宮の廊下へ歩み出した。


 足取りは軽かった。けれど胸の奥には、まだ名を持たない不安も静かに残っている。


 それでも今は、それごと抱いて進める気がした。


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