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前世の恋と、今のわたし

 部屋へ戻ると、扉の閉まる音さえ夜気の底へ沈んだ。


 衣擦れをそっと殺してベッドへ身を横たえる。冷えた麻のシーツが肌へひやりと吸いつき、背中のこわばりを少しずつほどいていく。けれど、さっき胸に立ったざわめきだけは、煤みたいに薄く残ったまま、どこへも消えてくれなかった。


 薄暗い天蓋が呼吸に合わせてわずかに揺れる。寝返りを打つたび、布目の擦れるささやきが耳朶を撫で、離宮の静けさは石の冷えまで拾って広げてしまう。遠い廊下の気配すら届かず、時間だけが窓の向こうをかすかに流れていた。


「……やっぱり、眠れないや」


 自分へ言い聞かせるように落とした声が、すぐに毛布へ吸われた。


 枕の角度を変え、呼吸を数え、瞼を閉じても、意識だけが消え残った灯みたいに醒めている。


 視線を枕もとへ落とす。


 白きマウザーグレイルが、闇のなかで静かに輪郭を保っていた。鞘のなめらかな面を指先で撫でると、奥底の気配が、息を合わせるみたいにごく薄く揺れる。


「……茉凛? 起きてる、よね?」


 空気がかすかに震え、耳許に馴染んだ響きが灯った。


《《当然。わたしは眠くならないからね。美鶴、まだ起きてたの? もう真夜中だよ。明日の顔、死んじゃうよ。またヴィルに顔色悪いぞー、なんて言われたくないでしょ?》》


 いつもの軽口だった。


 けれど、明るく跳ねるはずの語尾が、どこか落ち着かない。低いところでひとつだけ掠った声に、こちらの揺れが、そのまま剣の内側へも伝わっているのだとわかった。


「……なんだか、いろいろ考えていたら眠れなくて。ごめんね、こんな時間に。あなただって、解析で忙しいんでしょう?」


《《気にしない気にしない。わたしはいつだって美鶴と繋がってるんだから。愚痴だろうと不満だろうと、どーんとこいだよ》》


 鞘越しに、くすりと笑う気配が伝わる。


 つられて口元も少しだけゆるんだ。けれど、喉の奥にひっかかった小骨みたいな不安は、そこから先へ下りてくれない。


 親指で鞘の縁をそっとなぞる。磨かれた白の冷えが、胸のざらつきだけを際立たせた。


「ねえ、茉凛……最近、たまに言葉の感じが変わるでしょう――」


 言いさして、舌の先がためらう。


 疑っているみたいでいやなのに、聞かずにいるほうがもっとこわかった。


「……あれ、少しこわいの。前みたいに深いところへ潜ってるんじゃないかって。無理して……剣のほうへ引っぱられてるんじゃないかって」


 返事はすぐ来なかった。


 ほんのひと呼吸ぶんの間なのに、その短さがかえって胸へ刺さる。


《《ああ……そこか。あれね、半分はただの背伸びかな》》


「背伸び?」


《《そう。ちょっとカッコつけたかったの。無駄に情報が多い場面だと、短く切ったほうがそれっぽいでしょ? あなたが『来い、黒鶴!』とか『場裏展開!』とか言ってるのと同じ》》


「同じなの、それ……?」


《《同じようなもん。だから、取り込まれかけてるとか、そういうのじゃないよ》》


 少しだけ息が戻る。


 けれど安心したそばから、別の疑いがまた顔を出す。人の心配というのは、ひとつ解けても、すぐ別の形で結び直るものらしい。


「でも、もし本当に危ないことをしてたら、ちゃんと言ってほしい。わたし……茉凛のことになると、どうしたって考えすぎちゃうから」


 吐いた息が、自分でも頼りなかった。


「変なことが起きてからじゃ、遅いでしょう。だから、その……隠さないで」


 返事の前に、鞘の奥で気配がひとつやわらいだ。


 見えないのに、こちらへ手を伸ばされるみたいな沈黙だった。


《《……うん。それは約束する》》


 軽く言うでもなく、笑い飛ばすでもない声音に、胸の奥がじんわりと熱を持つ。


《《わたしだって、美鶴が泣くの見たくないもん。ほんとに危っかしいから、ちゃんと言う。だから、そのくらい信じて》》


「……うん」


 そこでようやく、張りつめていた糸が一本だけほどけた。


《《それよりさ、最近わたしがお酒ほしいほしいって言わないの、気づいてた?》》


 唐突に話が跳ねて、思わず目を瞬く。


「それ、思ってた……。前はあとちょっとだけ! って、かなりしつこかったよね」


《《そこはあんまり掘らないで。いま思い出すとちょっと恥ずかしいから》》


 暗がりの中で、声だけが少し照れている。


 その気配に、喉の奥で笑いがほどけた。


《《でもね。美鶴が変わろうとしてるの見てたら、わたしも少しは変わらなきゃって思ったの。転生したと思ったら剣の中だし、右も左もわからないし、不安だし。たぶん、わたし、あの頃はお酒に寄りかかってたんだよね》》


 それは軽く言われたのに、胸の内側へはまっすぐ落ちた。


 自分のことばかりでいっぱいだった夜の向こうに、彼女にも彼女の揺れがあったのだと、今さらみたいに思い知らされる。


「そっか……茉凛も、こわかったんだね」


《《そりゃあね。好きで剣に詰められてたわけじゃないし》》


 からりとした言い方なのに、そこで無理に明るくしているのがわかる。


《《まあ、嫌いになったってわけじゃないよ。たまに、おいしいお酒で、ほろ酔いになって、楽しくおしゃべりできたらそれで十分だし、たのしいし》》


「うん。わたしも、そういうの好き」


《《あとね。美鶴が国のこととか、自分のこととか、ちゃんと考え始めてるの見てると……わたしまで、いつまでもふざけてちゃだめかなって思うの》》


 剣の向こうで目を逸らしたみたいな気配があった。


 笑って済ませられる言葉にしているのに、その奥ではちゃんと背筋を伸ばしているのだとわかる。


「ふざけてばかりだなんて、ぜんぜん思ってないよ。むしろ、ずっと支えてもらってる。……ほんとに」


《《ありがと。でも、わたしもわたしなりに頑張ってるってこと、覚えててね》》


「もちろん」


 そこで一度、息が詰まる。


 喉の奥が小さく熱を持って、言葉がひとつだけ先にこぼれた。


「……大好きだよ、茉凛」


 言ってしまってから、耳のあたりがじわっと熱くなる。直しようのないまっすぐさだった。


 鞘の奥は、ほんの一瞬だけしんとした。


《《……っ、ああ、もう。そういうの、不意打ちで言うのずるい。照れるでしょ》》


 返ってきた声は、いつもより半拍遅い。


 その遅れに、可笑しいくらい救われる。


《《もうこの話はおしまい。ほら、美鶴は? まだ何かあるんじゃないの?》》


 不安はほどけたはずなのに、別の棘が胸の深いところで顔を出す。


 指先が鞘の縁をなぞったまま、少しだけ止まった。


「……実は、ね。前のわたし、あなたがいないと立っていられなかったでしょう?」


 言葉を継ぐ前に、胸の奥がきゅっと縮む。


 あれは過去の事実なのに、口にすると今でも少し苦い。


「たぶん、『恋』はあったんだと思う。……ううん、たしかにあった。けど、それだけじゃなくて……わたし、縋ってたの。生きるために。だから、いま自分で歩きたいって思うことが、なんだかあなたを置いていくみたいで……裏切るみたいで。……ときどき、すごくこわくなる」


 言い切ったあとで、シーツのひやりが急に強くなった。


 ずっと喉の奥に押し込めていた本音は、外へ出ると少しだけ幼かった。


 返事の前に、鞘の内側で気配がひとつ揺れた。


 ためらいではなく、こちらへ合わせて言葉を選び直すような、やわらかな間だった。


《《……ううん。ぜんぜん、裏切りじゃないよ》》


 短い言葉なのに、胸のいちばん固いところへまっすぐ届く。


《《……うん。あのときの美鶴が、わたしに縋るしかなかったの、わかるよ。だって、それしかなかったんだもん。でも、ずっとそのままでいたら……また同じところで、自分のこと後回しにするでしょ》》


 その言い方は、甘やかすだけでは終わらない。


 ちゃんと見ている人の声だった。


「そう、なのかな……」


《《そうだよ。美鶴が自分で立ちたいって思えるようになったの、わたし、すごくいいことだと思う。前のままだったら……また同じところで、ひとりで苦しくなるでしょ》》


 枕へ頬を半分埋めたまま、息を細く吐く。


 否定されないだけで、こんなに力が抜けるのかと思う。


「でもね。正直、自分でも戸惑うんだよ。前のわたしは……あなたに……」


 そこでいったん声が細くなる。


 薄れたと言い切るのも違う。変わっていないと言うのも違う。うまく言葉にならないまま、指先だけが鞘を探った。


「いまは、その気持ちを……同じ形では、もう抱いていない気がするの。薄くなったっていうより、えっと……変わっちゃった、みたいな」


 ひどく不器用な言い方だった。


 けれど、今のわたしに出せるのはこのくらいが限界だった。


《《でもさ。どんなにあなたが変わったって、わたしたち、そんな簡単にほどけないでしょ? だって、『ふたつでひとつのツバサ』なんだから》》


 答えは静かだった。


 慰めより、もっと深いところを撫でる声だった。


《《前の美鶴も、今のミツルも、どっちもあなただよ。わたし、好きの形だけ見てるんじゃないもん。あなたの心そのものが好きなの。だから、形が変わっても、なくなったことにはならない》》


「……それで、いいのかな」


《《いいんだよ。昔も言ったじゃない。わたしが好きになったのは、あなたの心だって》》


 その一言に、目頭がじんわり熱くなる。


 前の恋を否定しなくてもいい。今の願いを裏切りだと思わなくてもいい。そう言ってもらえた気がした。


「……そう言われると、すごく救われる」


 鼻の奥がつんと痛んで、枕へ顔を少し深く埋める。


 前のわたしも本当だった。今のわたしも本当だ。その両方を、どちらも切り捨てなくていいのだと、ようやく少しだけ思える。


 しばらく黙ってから、胸の奥に残っていたいちばんやわらかい願いが、やっと口のところまで上がってきた。


「……わたしね」


 そこで一度、言葉が止まる。


 あまりに幼くて、あまりにまっすぐで、自分でも気恥ずかしい。


「母さまみたいになりたいの。ちゃんとした……きれいな、大人の女のひとに」


 耳たぶのあたりが、じわっと熱くなる。


 けれどもう止められなかった。


「それで……好きなひとと同じ家に帰って、子どもがいて、朝になったら起こして、ごはん食べさせて……叱ったり、笑ったりして。そういう、普通のこと。そういうの……いいなって、思うの」


 言い終えたあと、しばらく自分の息の音だけが耳に残った。


 夢見る子どもみたいだと、自分でも思う。けれど、それはたしかに、今のわたしがほしいものだった。


《《……そっか》》


 茉凛の声が、いつもより少し低い。


《《うん。前のあなたからすると、すごい変化だね》》


「そうかな?」


《《そうだよ。だって前のあなた、そういうの欲しいって言う前に、自分でだめってしてたでしょ》》


 胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


 ああ、そうだったのだと、他人に指摘されて初めてわかることもある。


「……でも、茉凛は寂しくない? わたしがもし、誰かと結ばれたりしても」


 訊いた瞬間、毛布の縁を指先でつまんでいた。


 引き止めてほしいわけではない。けれど、まったく痛くないなんて言われたら、それも違う気がした。


 返事の前に、ごくかすかな沈黙が落ちた。


 笑って流せるはずなのに、そこだけは流さなかったのだとわかる。


《《……うん。そりゃまぁ、ちょっとは、ね》》


 返事のあと、気配がふっと黙る。


 笑って流せるはずなのに、そのまま続かなかった。


《《寂しいよ。わたし、欲張りだもん》》


 そこで一度だけ、声が細くほどけた。


《《でもね、置いていかれるのがいやだから止める、って言うほうが、もっといやなの》》


 その正直さが、胸へ静かに刺さる。


《《それでいいの。わたしには身体がないし、あなたと同じ時間を生きられるわけでもない。それなら、大好きな人にはちゃんと人生を味わってほしい。欲しいもの、ちゃんと欲しがってほしい》》


「……茉凛」


《《前のあなたができなかったことを、いまのミツルとして叶えてほしいんだ。わたし、そのためなら全力で応援するよ》》


 夜の底へ、小さな灯がひとつずつ置かれていくみたいだった。


 身体を持たない寂しさも、置いていかれる痛みも、たぶんゼロではない。それでも彼女は、わたしの前で祝福する側に立ってくれる。


「……うん。わかった。わたし、ちゃんと幸せになれるように頑張る。だから、どんなことになっても、ずっと見守っていて」


《《任せてちょうだい。だからこそ、まずは今夜ちゃんと寝ること。そこ、すごく大事》》


 結局そこへ戻すあたりが、やっぱり茉凛らしい。


 説教くさくないのに、最後はちゃんと生活へ着地させる。


「そうだね……少し、気が楽になったかも。ごめんね、夜中にこんな話」


《《いいよ。美鶴の寝息が落ち着いてくるの、聞いてるだけで嬉しいんだ》》


 鞘の奥で、微かな光彩が脈を打つ気配がある。


 身じろぎしてシーツへ沈みこむと、さっきまで刺さっていた夜気まで、どこかやわらかく感じられた。


「……じゃあ、頑張って寝てみる。あなたには、いつも助けてもらってばかりね」


《《こちらこそ。あなたが頑張ってるの見てると、わたしも力になりたくなるんだよ。ほら、もう寝た寝た。夜更かしはお肌の大敵だよ?》》


「もう……わかってるよ。それじゃあ、おやすみなさい、茉凛」


 窓の隙間風がひと筋入り、天蓋をかすかに鳴らした。


《《うん。おやすみ、美鶴。ゆっくり休んでね》》


 声がすっと遠のいていく。


 けれど消えるのではなく、毛布の内側へ残ってくれる種類の遠さだった。


 変わっていくことを、誰も咎めない。


 しがみついていた頃の気持ちまで否定せず、そのうえで先へ行けと背中を押してくれる。そういう確かさがあるだけで、夜の輪郭は少しずつやわらいでいく。


 鞘を枕もとへ戻し、瞼を閉じる。


 筋肉の奥でほどけていく疲労へ身を預けると、眠気は波のように寄せては返し、やがて静かなうねりになった。


「……ありがとう、茉凛。ほんとに、ありがとう……」


 沈みかけた意識の底で呟く。


 すると、薄い息みたいな返事が内側へふっと触れ、毛布の上へもう一枚、見えないやさしさが掛けられた気がした。


 夜は深い。


 けれど、芯に残った温度だけで、不安は少しずつ色を失っていく。


 わたしはそのまま、まどろみの向こうへ身を預けた。


 窓の外では、雲間の月がゆっくり溶けていく。遠くで時の鐘が一度だけ鳴り、ほどけた音の尾が、静かな夜へ淡く沈んだ。


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