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記憶の中の家族、夕暮れの塔に寄せる影

 灰色の大地を薄く覆う朝もやのなか、第二部隊は隊列を揃え、慎重に前へ進んでいた。


 頬をかすめる風は、まだ冬の名残を引きずっている。砂粒が細く舞い上がり、靴音に革と金具の軋みが重なって、乾いた響きが途切れなく続く。冷えた振動が足裏から上がり、骨の奥へゆるく沈んでいった。霞む視界のせいで、夢と現実の境目がほどけ、瞼の裏に白い名残だけが残る。


 わたしは、ヴィルの背にそっと身を寄せ、彼の愛馬スレイドの鞍に身を任せていた。


 スレイドが地を深く踏むたび、馬蹄の低い音が規則正しく身体へ響く。冷えきった指先に、ほのかなぬくみが戻ってくるようだった。ヴィルの広い背が荒野の冷たさを遮っていて、わたしはそこへ額を寄せる場所を探してしまう。


 遠い地平線へ視線を送ると、まぶたの裏で淡い光が揺れた。わたしはそっと目を閉じ、魔素の気配を探ろうと意識を沈ませる。


 魔獣が動き出すときだけ、空気は薄く黒紫の影を帯びていく。呼吸を静めるほど、背筋にひやりとした張りが走る。けれど今は、世界は穏やかに凪いでいた。


 ふう、と細い吐息をこぼす。指先の力がほどけ、わたしの意識はそのまま、過去へ滑っていった。


◇◇◇

 

 どこか遠い森の奥。苔の匂いが染みた木立の陰に、古い家がひっそり息をしていた。


 屋根からこぼれ落ちる朝の光は、傾いた壁を蜂蜜色に温め、窓辺では色とりどりの作物が、静かに実を結んでいた。小さなメヨーヨが草を食む音さえ、穏やかな間隔で耳に落ちる。乳を搾るときの指先の冷たさ、手のひらに沈むチーズの頼りない柔らかさまで、今も指の腹が覚えている。


 そこだけ時間がほどけて、世界から切り離された箱庭みたいにも思えた。


 父が狩りに出ると、家の中は母の魔法で満たされた。鍋から立ちのぼる白い湯気はスープの香りを孕み、部屋の隅々まで行き渡って、呼吸の奥をやわらかくしていく。


 光の粒が踊る窓辺で、母は細い銀の針を操り、わたしたちの時間を縫い合わせていた。針が布を通り抜けるたび、吐息ほどの音がして、刺繍の花々が室内の静けさにふっと揺れる。その傍らで、小さな手で布の端を押さえようとすると、母は花がほころぶように微笑んで、


「もう少し大きくなったら、一緒にやりましょうね」


 と、未来の約束を口にした。


 母の作り出す服は、ただの布ではなかった。薄い青のワンピースに散らされた花柄は、母の記憶を糸の一本一本にまで織り込んでいるようで、それを見るたび、胸の奥が甘く締めつけられる。頬の内側に熱が灯り、わたしは眩しさに視線の置き場を失った。


 父が街から新しい布や食材を持ち帰ると、母は、


「これで新しい服が作れるわ!」


 と、少女のような声を弾ませた。その無邪気な歓声を聞くと、わたしの指先までが嬉しさで震え出しそうになる。


 台所で野菜を刻む背中、畑で新芽に触れる指先。そのすべてが、世界の呼吸と一つに溶け合っていた。わたしは息をするのも忘れ、その景色を見つめていた。


 陽光を吸い込んだ長い黒髪は、風が吹くたび夜の湖面を思わせるきらめきを帯び、澄んだ薄緑の瞳は、言葉より先に心を落ち着かせてくれた。


 ふいに視線が絡むと、


「あなたはわたしの小さな鏡ね」


 と微笑まれ、わたしは耳の先まで赤くして身じろぎする。恥ずかしさと、くすぐったい誇らしさが混ざり合い、その言葉を反芻した。母の手の動き、緩む頬の曲線、そのすべてがわたしの憧れであり、決して届かない理想だった。


 けれど、幼い自分の体を見下ろすと、まだ十二歳の器はあまりに小さく、母の背中は遠い。指先に冷たい不安が降りてきて、わたしは思わず手の甲をぎゅっとつねった。


 ヴィルの手綱が、静かに馬の歩みを緩める。鞍越しに伝わるスレイドの体温が、冷えた腿の裏をじんわり押し上げた。その微かな振動が、夢の終わりを告げる鐘となって現実へわたしを引き戻した。彼の背中の向こうには、色のない荒野がどこまでも続いている。


 朝もやのなか、母への憧憬と、硝子細工めいた願いが、わたしの内側で震えながら芽吹いていく。


 母はどこかで生きている。記憶の中では、今もあの微笑みのまま。


 きっとまた会える。その想いだけが、凍てつく荒野に立つわたしの足元をかろうじて支えていた。


◇◇◇


 それから数刻。灰色の朝もやは薄れ、光はいつのまにか傾いていった。


 ヴィルの背の温度が、現実の硬さで戻ってきた。


 空は橙に染まりはじめる。遠くには崩れかけたレンガの塔が、夕陽に輪郭を滲ませていた。風が冷たく大地を這い、淡い砂埃が舞う。鼻腔に砂の匂いが差し込み、口の中が乾いてくる。わたしは無意識に唇を閉じた。


 ヴィルが前方を見据える。背中の線が硬くなる。


「どうやら、隊商は予定通り合流地点に到着しているようだな」


 わたしは思わず問い返す。


「こんなに遠くからで、わかるの?」


 彼は目を細めて頷いた。


「まあな。かすかにだが、塔の辺りで煙が上がっている。空気の揺らぎの違いがわからんか?」


 わたしには、まだ景色の霞みしか見えない。けれどヴィルの視線に誘われるように、遠くを見つめた。


「あっ!?」


 みぞおちがひやりと沈み、背中の汗が一気に冷える。


 空気に異様な気配が宿る。視界の端で紫の霧がひそやかに立ち込め、胸のあたりを押し返すような重さが息を奪っていく。その中に、黒い渦がうごめいていた。耳の奥がすっと詰まり、鼓動だけが強く跳ねる。


「魔獣が、いる!」


 塔の周りの砂煙が濃くなり、大地が唸りを上げて震えだす。


 わたしは声を張った。


「各自、戦闘準備!」


 カイルが手で合図し、隊列の気配がひと息に締まる。


 続けざまに、ヴィルの声が重なる。


「いよいよおいでなすったか。みんな、いいか?」


 カイルの包みが鳴り、刃が夕日を跳ね返す。エリスの弓弦が短く震える。フィルのオーブが淡く光り、レルゲンの瓶が触れ合い、マティウスの箱が背で鳴った。ボッツーリは斧の柄を握り直し、皆の視線が塔へ揃っていく。


 ヴィルが、短く指示を落とす。


「敵魔獣を視認でき次第、各自、降車して展開。持ち場での指示は俺が出す。それから、ミツル?」


 背中越しの呼びかけに、わたしは鞍の縁をつかみ直した。


「俺たち二人は、先行して隊商の馬車群に取り付く。そこでお前には降りてもらう」


 命令の響きに、わたしの声が先に熱を帯びる。


「ちょっと待って、わたしに戦うなっていうの?」


「いいや、違う。お前の担当は最終防衛線での守りだ」


 喉が細くなり、言葉が引っかかった。


「理由を教えて?」


「万が一、別の方角から攻められた場合の事を考えろ。魔獣には強い魔素に引かれる習性がある。一方に対処している間に、別の方角から魔獣が押し寄せてくるかもしれん。いいか、これはお前なら一人でも対処できると判断してのことだ」


 理屈は分かる。それでも、置いていかれる痛みが手のひらへ滲んでくる。


「でも」


「お前にとってあの荷物は、ずっと待ち焦がれていた、とても大切なものなんだろう?」


「うん、だけど」


 返事が揺れた瞬間、ヴィルがふいに軽口を投げる。


「あー、それと俺が飲む分の酒も頼んだぞ? なんといっても酒は俺にとって死活問題だからな」


「こんな時に、なによそれ」


 笑いが零れてしまい、肩の力が抜けた。


「なぁに、皆の力を信じるさ。いざとなれば、俺が出張ってなんとかする」


「あなたが?」


 ヴィルはちらりと振り返り、笑みを浮かべて答える。


「少しは歯ごたえのある相手がいるんじゃないかって、予感がするんだ。お前も薄々勘づいているんじゃないのか?」


 わたしの内側で、凪いでいた水面が静かにざわつく。


「ええ。たぶんだけど、この先にいる魔獣は、とても強い。これまで相手にしてきたのとは、まるで比較にならない濃厚な魔素を感じる」


「だろうな。まあ、任せておけ」


 ためらいの声が、舌先でほどける。


「でも」


 ヴィルは、わたしの背に手を添えたまま、静かに告げた。


「ミツル、俺を誰だと思っているんだ? お前が敬愛する父、ユベル・グロンダイルと並び立つ、ただ一人の男だぞ」


 説得力はある。けれど、その確かさの影に、消えない怖さが沈んでいた。


「よし、行くぞ!」


 手綱が引かれ、スレイドが地を蹴る。わたしは彼の背中にしがみつき、残された問いを喉の奥へ押し戻した。


 胃の底が冷えたまま戻らず、手のひらが汗ばんでいく。それでも、祈るしかなかった。この冷えが、ただの思い過ごしであるように、と。

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