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心の隙間を埋める瞬間

 夜気が冷えはじめ、火の煙が甘く鼻に残っている。炎が揺れるたび、赤い光が幕を引き、静けさの輪郭を淡く染めていった。


 仲間の寝息は、近いものと遠いものが混ざり合って、同じ闇の中で、途切れ方だけがゆっくり変わっていく。わたしだけが起きていて、膝の上に置いた剣の鞘を撫でながら、茉凜と同じ夜を分け合っている。


《《うーむ……》》


 熾火がぱちりと弾け、赤い粒が闇へほどけた。


「茉凜。さっきから『うんうん』言って、何を考えてるの?」


《《あのエリスって人、やっぱり美鶴のこと、狙ってるんじゃないかな?》》


 やわらかい声なのに、語尾だけが少し硬い。鞘の革が指に吸いつき、離れるときだけ小さく鳴る。棘というより、火を消さないための声だった。


「まさか。狙うとか、そういうのじゃないって。……少なくとも、わたしはそう感じた」


《《どうしてそういい切れるの?》》


 頬に火のぬくみが触れて、わたしは視線を暗がりへ逃がした。湯気の中で見たものが、まだまぶたの裏に残っている。


「あなたは気づかない? 五感を共有してるくせに。彼女の目の動きとか、肩の揺れとか、指先とか……あるじゃない」


 カイルの名が出た瞬間、湯の縁をなぞっていた指が一拍だけ止まった。愚痴の続きより先に、沈黙だけが彼のほうへ傾いてしまう。それだけで、わかってしまう。


《《ああ、カイルのことね。いくらわたしがガサツでも、それくらいわかるわよ。でも、油断はできない。だいたい、美鶴ったら何? 髪を梳かしてあげたりとかしてさ、なんだかいい感じだったし》》


 笑い混じりの言い方のはずなのに、途中で息が詰まる。わたしの指の腹が、革の縁を無意識になぞってしまう。


「ばかなこと言わないの。エリスはね、わたしのことをかわいい妹みたいな目で見ているのよ。そんな優しさを感じて、なんだか心が暖かくなったの。それに、わたしは恋愛なんて、本当のところよくわかってないんだし……」


 言い終える前に、息が浅くなってしまう。火の揺れに言葉が吸われ、吐きかけた息が唇の前に残った。あの湯の中の手触りは、甘さより先に、鎧の隙間をふさいでくれる安心に近かったのに。


《《あ、そういうこと言うんだ。じゃあ、わたしたちはどうなるの?》》


 胸のあたりがきゅっと縮み、わたしは笑う形を探して唇の裏を噛んだ。冗談みたいな口調の下で、置いていかれたくない色がひと筋だけ覗く。


「茉凜はね、そういう次元とは違うの。なにより一番。『とくべつの中のとくべつな』なんだから」


 口にした音が、自分の内側で跳ね返って、遅れて耳の裏がかっとなる。言葉の形にした途端、隠していた気持ちの輪郭だけが、火の色みたいに浮いてしまう。


「特別って……好きとは違うってこと?」


 火が小さく鳴って、わたしは一拍だけ黙り、視線を落として首を振った。鞘の冷えが指先に返り、余計な言い訳だけを引き締めてしまう。


「そうじゃないって。そもそもレベルが違うってこと。唯一無二の、言葉なんかでは収まらないくらいなの。だって……あなたと出会えたことは、わたしにとって……ほんとうに『奇跡そのもの』だったんだから」


 肩が遅れて落ち、指先の力が少し抜けた。


《《ふふっ。まったく美鶴って、ほっんとずるいよね》》


 からかいの甘さに、唇の端が先にほどけた。


「どうしてずるいの?」


《《だって、わたしが言いたいことを先に言われちゃうから……。わたしもね、あなたの“とくべつ”になりたかったの。弓鶴くんの中にいたときから、ほんとうのあなたの輝きを感じていたから……。わたしにとっても、あなたは奇跡だったんだ》》


 声が落ちるたび、喉の奥がじんわりほどけていく。影の濃いところで、夜が少しやわらかくなる。エリスの手のぬくみとは別の、わたしの内側を直接ほどく熱だった。


「……ありがとう。あなたと出会えたから、お日様みたいなあなたの温かさがあったから前を向けたし、今だってがんばれている。……わたしは幸せだよ」


 わたしはわざと呼吸を近づけ、刀身の冷たさを唇に一瞬だけ触れさせた。ひやりとした感触が、つながったままの感覚を伝っていく。


《《ひゃっ!?》》


 短い声が息に混じり、夜へ沈んだ。


《《まただ。またそうやって不意打ちする! ほんとずるい……》》


 語尾がふわりと丸くなって、わたしは笑いを唇の裏に隠した。


「ふふ、あなたは『欲望に忠実』ですぐに出るタイプだけど、わたしは『欲深い』のよ」


 言った瞬間、鞘を握る手に汗が滲んで、指の節が熱くなる。革が指に吸いつき、離れるときだけ小さく鳴る。爪の際が、かすかに熱を持っていた。


 茉凜に触れたい。いつか、彼女のほうからも温もりを返してほしい。指先がかすかに触れ合い、その温度がこの手に届く日が来れば――。


 叶わないと知っているのに、喉の奥だけが、まだ諦め方を覚えていない。


《《わたし、いつかあなたに触れたいな……》》


 その声が夜気に溶け、わたしの呼吸の内側にだけ残った。火が爆ぜる音が一拍遅れて、ふたりの沈黙をそっと支える。


◇◇◇


 足元の砂利が、控えめに鳴った。火の余熱が届かないところで、外気の冷たさが少し強くなる。


「ミツル、そろそろ交代しよう」


 顔を上げると、ヴィルの影が橙の明かりに縁取られていた。歩幅は乱れていない。肩の線も、夜の中で静かに落ち着いている。


「あら、もうそんな時間かしら?」


 わたしは瞬きを挟み、息を整えてから、笑みの形を先に作った。


「そんなの適当でいいさ。お前は今日よく働いたからな。あとは俺に任せて、ゆっくり休んでくれ」


 淡々とした口調のまま、声の底にやわらかいものが沈んでいる。わたしは目を細め、熾火の赤を一度見つめた。


「でも、レルゲンとずいぶん盛り上がっていたじゃない? まだ酔っ払ってるんじゃないの?」


 火の粉が跳ね、からかいの言葉が少し軽くなる。


「馬鹿にするな。俺は酒は好きだが、溺れるほど飲んだことはない。そんな体たらくでは、今頃ここにはいないだろうさ」


 その声を聞いた途端、肩がすとんと落ちて、息がほどけた。


「それってつまり、あなたを恨みに思っている人……たとえばだけど、どこかにそういう女の人がいるから、とか?」


 舌先が勝手にその形を選ぶ。言い終えたあと、肋の内側がひやりとした。


 火の明るさが一瞬だけ強まり、ヴィルの瞳がこちらへ滑ってくる。額から口元へ、確かめるみたいに落ちて、すぐ戻った。


「子供のくせに、そういう妙なことは考えなくていい。俺はそっちの方面は真面目なんだ。禍根を残すような愚かな真似はしないさ」


 叱るようでいて、刺すほど強くない。わたしは小さく息を吐き、唇の端を持ち上げた。


「まぁ、ヴィルだしね」


 ヴィルは一瞬眉を動かし、ゆるやかに苦笑する。風がひと筋抜け、煙の匂いが薄く伸びた。


「まったく、からかいやがって……」


 その言い方が、息の奥をそっと撫でた。


「しかし、お前はどこか不思議なところがあるな」


 その言葉が、針の先ほど細く、静かに刺さる。


「不思議? どこが?」


「節度を持って酒を嗜み、常に自分を律し、大人顔負けの冷静な物言いをする。かと思えば、急に子供っぽく感情を露わにしたりもする。なんというか掴み所がない」


 橙の灯が彼の瞳に揺れて、逃げ場所のない明るさになる。


「そ、そうかしら……」


 視線を逸らすと、唇が乾いているのがわかった。指先が膝の布をつまみ、ほどいて、またつまむ。


「……父さまと旅に出る前は、深い森の奥で暮らしていたし、家族以外の他人と関わることもなかったからね。エレダンに辿り着いてからは、周りは知らない人ばかりで、どうしたらいいか不安で、いろいろ無理をしていたのかもしれない……」


 言葉にした途端、みぞおちのあたりが少し軽くなる。次の瞬間、わたしは布の端をもう一度つまんだ。


 ヴィルは大きな手で頬をかき、ゆっくり頷いた。急がせない。否定もしない。火の音が間を埋める。


「たった一人で誰も頼れる者などいない状況で、お前はよくやってきた。その強い意志は誇りに思っていい」


 その言葉が、掌の中心へ落ちてくる。握っていた布が、少しだけゆるんだ。


「そうかな……」


「そうだとも。だがな、もう無理をする必要はない。俺はユベルの代わりとして、お前を支えると誓ったんだ。それに、こうして仲間もできたじゃないか」


 仲間、という音が、熱より静かに沁みる。


「仲間だなんて、そんな……」


 喉が細くなり、わたしは火のほうへ目を落とした。


「お前は、皆の期待に答えようと精一杯働いていたじゃないか。冗談を言い合って笑い合えるなら、それを仲間と言わずに何と言うんだ?」


 反論の言葉が喉で止まり、わたしは膝の布をもう一度つまんだ。


「前々からずっと気になっていた。他のハンター連中ともなかなか打ち解けようとしないし、いつも思い悩んでいる様子だったし。まるで警戒心の強い猫みたいだったからな」


 猫、と言われて、反射でむっとしたふりをしたくなる。


「わ、悪かったわね……」


 ヴィルは肩をすくめ、笑いを含ませた息を落とす。


「だが、お前はもう一人ぼっちじゃない」


 その一言で、肋の内側がゆるみ、握っていた布の皺がもう一度伸びた。


「う、うん……」


「いいか? 戦場では感情を制御することも大切だが、普段は自分に素直でいろ。この俺みたいにな。ははは」


 橙の明るさの中で、彼が笑い飛ばす。わたしもつられて、声にならない笑いをひとつ零した。

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