自由、そして選んだ道
「ふぅ……」
湯船に身を沈めたエリスが、細く長い吐息を湯気に紛らせた。跳ねるのかと思えば、静かな顔のまま掌を湯の縁に置き、ぬくみを確かめるように瞼を伏せる。快活な彼女の輪郭が、湯の白さにほどけていくのを眺めていると、肩甲骨の内側にも、ゆっくり柔らかな重みが満ちていった。
「ミツルちゃん、あなたも早くおいでよ」
背中越しの声は、湯気に丸く包まれて響いた。
「うん。ちょっと待ってて……」
髪をまとめ上げる指先に水気が絡み、うなじを撫でる空気がひやりと抜ける。胸当ての留め具を外すと金属がかすかに鳴り、足もとへ置いた瞬間、肩から力がほどけた。汗に張り付いていたチュニックを脱ぐと、湯気が素肌を撫でて、ひと息に熱が広がる。
「ふふっ、なんだか緊張してるみたいね」
湯のふちへ足を浸す。皮膚に吸い付く温かさが膝を包み、強張っていた筋が解けていく。エリスはまぶたを閉じ、眠る前の子どもみたいに表情を緩めた。
「ありがとうね、ミツルちゃん。……まさか、本当にこんな荒れ地でお湯に浸かれるなんてね。こんな贅沢、ずっと夢見てたのよ」
湯灯りに濡れた横顔に、うるんだ光が宿る。湯の匂いに混じる金属の薄い匂いまで、頬の内側の熱に変わっていく。
「夢……?」
「毎日鎧で駆けずり回って砂まみれじゃない。焚き火で煙臭くなるし。カイルはあの通りで『贅沢言うなよ』って馬鹿にするけどさ。女の子の気持ちなんて全然わかってないんだから……」
カイルの名を口にした瞬間、湯の縁をなぞっていた指先が一拍だけ止まった。小さくため息。伏せた睫毛がわずかに震え、湯気の幕の向こうで瞳の底に灯が揺れる。
「だからさ、こんなわがままを叶えてくれて……本当に嬉しいの」
「……そんなふうに喜んでもらえるなんて……むしろ、わたしのほうこそ救われるかも」
言い終えた瞬間、肩の裏がふっと落ちる。頬が熱を帯び、湯の反射が布の内側に淡い波紋を描いた。その揺れが、鼓動の速さと重なっていく。
「ねえ、ミツルちゃんは、どうして魔獣狩りなんてしてるの?」
湯気の向こうの問いに、喉がひとつ鳴る。見つめる黒い瞳がまっすぐで、隠していた言葉が表面へと浮かんだ。
「……強さがほしかったの。誰のためでもなく、自分自身のために。一人でも生きていけるって……証明したくて」
「証明、か。――わたしも、同じだったかもしれないな」
エリスは掌ですくった湯を肩へ落とし、落ちる雫の行方を目で追いながら微笑む。
「わたしね、家を飛び出す前に父さんにこう言われたの。『女ごときに武芸はいらない』ってね。もう悔しくて仕方なくて……だからこそ戦場に出たかった。女だって強くなれるって、証明したかったの。自慢じゃないけど、弓なら誰にも負けないって自負はあったし」
「……エリスも、縛られていたんだ。わたしもそう……」
前世の自分が重なって見える。柚羽の家に生まれ、深淵の巫女という役柄に縛られた日々。
「ふふ、やっぱり似た者同士だね。あなたも――自由がほしかったんでしょう?」
湯の縁に頬を寄せる。熱に緩む皮膚の下で、言えなかった本音が呼吸と一緒に膨らんだ。
「……そんな格好のつくものじゃないよ。それに、わたしにはもう戻るべき家もないし、家族もいないから」
「……ミツルちゃん」
唇を開いたのに、湯面が揺れ、湯気ばかりが先に息を白くした。
「母さまは行方不明で、生きているかどうかさえわからない。父さまは魔獣に殺されてしまった。だから……一人でぼっちでも、生きるしかなかった。それだけ……」
舌がもつれるより先に、肩へ置かれた掌の温度が届く。指の腹が濡れた髪を押さえ、落ち着く拍を作ってくれる。
「偉いよ、ミツルちゃん。そんな小さな体でがんばって……でもね、もう一人じゃないんだよ」
低くまろい声が、湯面に輪を描いて胸へ沁みた。
「……わたし、ずっと一人ぼっちでもいいんだって思ってた。けど、今は違うような気がする。エリスや皆といると、変われる……そんな気がする」
「うん、その気持ちがあれば十分だよ。これからも一緒に楽しんでいこう。大変なことも、いっしょに笑いながらね」
湯から上がる瞬間、指先からしずくが踏み石に落ちて、ぴたりと小さく鳴った。音の消え際まで、喉の奥の狭さがほどけていく。
◇◇◇
湯から上がったわたしたちのあとに男性陣が入り、土壁の向こうから無邪気な笑い声がくぐもって届く。残った湯気が布の内側を薄く漂い、その明るさにつられて、口元が自然と緩んだ。
髪を軽く絞ったエリスの背に回り、梳き櫛を手に取る。
濡れた髪にそっと風を通し、残る湿りをほどいていく。掌を返して〈場裏・白〉を領域展開し、髪の上だけへやわらかな微風を流した。
熱は別の〈場裏・赤〉を薄く領域展開し、領域部分解放で点々と添える。乾きは急がせず、髪の芯だけを静かにほどいていった。
皮膚にやさしいぬくみの風が肩口を通り、細い歯が髪を滑るたび、金色の束がさらりと揺れた。湿りを含んだ甘い香りがふっと立ち、指先を抜ける絹糸のような手触りが、やけに心地よい。
「……エリスの金髪って、本当にきれい。それに、ちゃんと手入れされてて」
思わずこぼした一言に、彼女は小さく笑い、肩をすくめる。
「うん、これは母さん譲りなの。わたしも気に入ってる。本当は切っちゃったほうが楽なんだけど……これだけは譲れなくてさ」
櫛の動きに合わせて、髪の根元から湿りがほどけていく。頬にかかる毛先がくすぐったい。
「わかる……。わたしも髪は大切にしたい。母さまを思い出すから、なのかもしれないけど」
視線が自然と落ちる。言葉の後ろで、胸の奥があたたかくなったのが自分でもわかる。
「大切なものを受け継ぐって、見た目だけじゃなくて、心の奥に宿るものだからね。ミツルちゃんも……お母さんのこと、大好きだったんだね」
不意に息が詰まり、彼女の横顔を見返す。話していい、と背中を押されたようで、胸の奥に溜めていたものが少しずつ言葉になる。
「……うん。母さまのことを忘れたくないから、ずっとこの髪でいたいの」
「そうなんだ。素敵だね」
静かな沈黙が降り、乾いていく髪の微かな音が拍子のように続いた。最後の束を梳き終えると、エリスがふっと笑みを浮かべ、囁くように言った。
「ありがとう、ミツルちゃん。あなたのお陰で、すごく気持ちが落ち着いたよ」
「……わたしも。エリスと、こうして話せて……うれしかった」
言い終えた途端、指先の力が抜けて、櫛の木の温度が掌にやさしく馴染んだ。そっと〈場裏・白〉と〈場裏・赤〉を領域解除し、風も熱も、囲いの外の夜へ返していく。
目を合わせて微笑み合う。湯気の余韻と、髪に残るぬくみのやわらかさが、しばらく囲いの内側に漂っていた。




