この力は仲間のために
食事を終え、焚き火の柔らかな明かりが辺りを包む頃、エリスがふと息を吐いた。
「お腹も満たされたし……あとは、湯浴みができたらなー……」
薪がぱちりと弾け、誰も拾わないまま火花が闇に消えた。カイルの噛む音が止まり、隣のフィルが弾かれたように立ち上がる。焚き火から二、三歩、慌てて距離を取った。
その気配に、わたしはフィルへと顔を向けた。
「どうしたの、フィル?」
「な、なんでもないよ。はは……」
フィルは視線を逸らし、口ごもる。
「僕、魔道具の点検をしてくるね」
けれども、その背中は微かに震えていた。わたしは彼の背を見据え、少し声を低くした。
「別に、ここでできるでしょう? 焚き火のそばなら明るいし」
彼は何かを恐れるように、要領を得ない返事を返す。
「いや、その……少し、今まずい状況で……」
「何がまずいの?」
眉間に、自然と皺が寄る。
わたしたちのやり取りをよそに、エリスが独り言のように呟き始めた。焚き火の爆ぜる音に混じって、妙に切実だ。
「ああ……湯浴みがしたい……たっぷりお湯を張った湯船で……」
虚ろな瞳が、焚き火の向こうの闇を見つめている。唇から漏れる声だけが、熱を持っていた。
フィルたちの不可解な態度に、首を傾げる。エリスの肩にそっと手を置くと、彼女の瞳の焦点が、ゆっくりとわたしに合った。
「こんな埃っぽい荒野なんて堪えられない。髪も肌も、もうガサガサよ……」
カイルはこめかみを押さえ、深いため息をついた。
「やはり、また始まったか」
「カイル、どういうことなの? 何か問題でも?」
「それが大ありなのさ。実はエリスは無類のきれい好きでな。毎晩のように湯浴みしないと、こうやって駄々をこね出すんだ」
フィルも小さく頷き、気まずげに肩をすくめる。
「こうなると、もう誰にも手が付けられない。僕たちのパーティーが野営ありの遠征をしにくいのは、これが理由なんだ」
「むーっ……これだけは譲れないんだから」
エリスは不満げに唇を尖らせ、腕を組む。虚ろだった瞳の奥で、焚き火の炎が揺らめいていた。
わたしはフィルに視線を戻した。
「なんとかしてあげられないかしら。これじゃ、エリスがかわいそうよ……」
彼女の気持ちはわかる。宿ではいつも小さな桶に湯を沸かし、髪や肌を拭っている。思い出すだけで、指先が少し落ち着く。
フィルは顎に手を当て、しばし沈黙。夜気の冷たさに白い息が揺れ、やがて顔を上げる。
「そうだね。せめて、少しでもお湯を用意できればいいんだけど……」
その言葉に、エリスがはっと顔を上げた。
「それっ! それでいいの! お願い、少しでいいから温かいお湯を! せめて、手桶に一杯だけでもあれば……顔を拭いて、髪を流すくらいできるから」
彼女の束の間の希望を、カイルの苦い声が遮った。
「エリス、無理を言うな。持ってきた水は貴重なんだ。余分に使うわけにはいかないんだぞ」
エリスの表情がさっと曇り、唇をきゅっと結ぶ。隣でフィルが小声で抗議した。
「カイル。分かっていたなら、どうしてもっと水を積まなかったんだい? 端から不足するのは目に見えていただろう?」
カイルは渋い顔で視線を逸らす。
「そりゃ、分かってはいたさ。けど、荒野の砂地だ。馬への負担を考えれば、荷物はギリギリまで削るしかないだろうが」
それを聞いたエリスが、頬を少し膨らませた。
「……少しくらい、融通してくれたっていいじゃない。水場のある経路を選ぶとかさ……」
「我儘言うな。今回は普段の狩り仕事とは違うんだ。少しくらい我慢しろ」
カイルの言い訳めいた声に、フィルは困ったように肩をすくめた。
「でも、エリスがこのまま不機嫌だと、みんなも困るんだ。協力してあげてもいいんじゃないか?」
気まずげに口ごもるカイルと、期待を捨てきれずに見つめるエリス。二人の間で、焚き火の炎だけが揺れていた。
わたしの分の水を差し出す手もある。けれど、いま夜気の中にある“湿り”の方が、まだ手が届く。
「なら、わたしが水を集めてみるよ」
言葉は、自分でも驚くほど自然に口をついていた。
エリスが小さく息を呑み、俯いていた顔を上げる。焚き火の光を受けた瞳が大きく見開かれ、潤んでいるようにさえ見えた。
「それから、みんなが温まれるように……お風呂も作ってみたい。うまくできるどうかはわからないけど、やってみる」
その一言に、エリスの肩がぴくりと震え、頬が赤く染まっていくのが焚き火の明かり越しにも伝わった。
「お風呂って? まじで? ……えーっ!?」
フィルが何か言いかけて呑み込むのを感じながら、わたしは静かに頷いた。
「もしかして君は……火と風以外に、水属性の魔術も扱えるの?」
「うん、そうだよ」
驚くフィルに答えるが、彼の目にはまだ疑念が残っていた。
「だけど、そんなに大量の水を集めるなんて無理だろ。基本的に水魔術は、周囲にまとまった水源がないと使えないはずだよ」
それが、この世界の常識なのだろう。
焚き火の赤が揺れて、舌裏の乾きがひとつ強くなる。
「わたしなら、空気中の湿りを集められる。あと、地中の湿りからでもいい。『水』という限定された属性の振る舞いや在り方、すなわち事象について干渉する〈場裏・青〉の領域の中では、水分はわたしの思うがままにできるの」
言い切った途端、理屈だけが先に走った気がして、指先が自分の掌を探す。
「な、なんだって……!?」
フィルの瞳が一度だけ泳いで、焚き火の火花を見失う。
「あっ、でも誤解しないでね。決して無から有を生み出すわけではないのよ……」
息が喉で薄く引っかかり、視線が焚き火へ逃げた。
「さすがの僕でも理解が追いつかないや。君には驚かされたばかりだ」
案の定、フィルは喉を鳴らし、数歩あとずさった。乾いた夜気に焚き火の赤が揺れ、その顔の蒼ざめを照らす。
細部までほどいてやろうとすれば、いくらでも言葉は出る。けれど今ほしいのは、正しさじゃない。埃っぽさに耐えきれなくなったエリスの目から、ひとつだけ剥がれてくれる熱だ。
「本当に……こんなところでお風呂に入れるの?」
エリスの声が祈るように震えた。
「もちろんよ」
頷いた瞬間、焚き火の熱が頬を撫でて、夜風がそのあとをさらっていく。唇の内側が乾き、舌先がわずかに痺れた。
前世から引き継いだ異能――深淵の黒鶴。この世界における魔術の理から逸脱しながらも、四大属性に関してだけは符号する矛盾。
どこで、誰が、その噛み合わせだけを残したのだろう。
考えても仕方がない。いまは、使い方だけだ。
——みんなのために……。
「じゃあ、ちょっと待ってて。まずは周囲の安全を確かめる。皆は少し離れて」
言い終えて立ち上がると、膝裏に冷えがまとわりついた。わたしは焚き火の輪から一歩、二歩と距離を取る。足元の砂礫が小さく鳴り、草の匂いが夜気に混ざって鼻をかすめた。
背後で誰かが息を呑む気配がする。振り返らない。肩の力だけを落として、指先の震えを止める。
ここで欲しいのは、驚嘆じゃない。湯気だ。頬に当たる、ひとの顔色を戻す熱だ。わたしは平坦な場所まで歩み、外套の裾を整えるみたいに一度だけ手を滑らせた。掌の内側が冷たいままなのを確かめてから、瞼を閉じた。
「茉凜、懸念されるような負荷はないと思うけど、一応サポートをお願いするわ」
《《了解だよ。エリスったら、ほんと仕方ない人だね……でも、わたしも久しぶりにお風呂に入りたいし》》
「うん……わたしも手足を延ばしてのんびり浸かりたい……」
小さな笑みがこぼれる。瞼を閉じ、内なる力へ静かに呼びかけた。
「集え、精霊子よ……」
《《次は、湿りを集めよう。乾きが強いから、急がないでね》》
茉凜の声に、わたしは一度だけ頷いた。焚き火の匂いが遠のき、夜気の冷たさが頬をなぞる。
次に〈場裏・青〉を展開する。けれど、野営地の直下から水気を抜くのは避けたい。地面が痩せれば、足元の安全まで揺らぐ。わたしは闇の向こうを見た。人の気配が届かない荒れ地の窪み。四百メートルほどなら、いまのわたしでも手が届く。
〈場裏・青〉を小さく複数、遠隔地中へ飛ばす。砂の下へ潜らせ、眠っていた湿りを探らせる。掘り返さない。奪いすぎない。必要な分だけ、静かに借りる。
同時に、こちらから〈場裏・青〉を細く引き延ばした。湯船の縁から、闇の窪みへ。水を運ぶための導線だ。細い管を一本通すみたいに、接続だけを確かめる。
湯船側の出口を、底へ向けて整えた。指先がかすかに痺れて、息が浅くなる。それでも手を止めない。集めたぶんだけ、わたしが受け取る。
〈場裏・青〉を領域部分解放する。
最初の音が落ちた。ぽたり、ぽたり。霧が一瞬だけ生まれて、すぐに重さを持つ。やがて音が太くなり、水面が揺れ始めた。見えない管の向こうで、遠い湿りがほどけ、こちらへ寄ってきている。
水面が増えるのに合わせて、遠隔地側の〈場裏・青〉を少しずつ領域解除する。深追いしないための切り上げだ。外側を手放し、近いところへ焦点を寄せるたび、喉の渇きがひとつぶんだけ楽になる。
まだ足りない。
もう一回。遠い地中へ青を走らせ、集めたら戻す。湯船側は領域部分解放の口を保ち、落ちる水の筋を乱さない。湯船の水位はゆっくり上がっていく。土と石の匂いが水に溶け、指を浸せば冷えが皮膚の奥に残った。
欲張らない代わりに、諦めない。遠くの地面を痛めない代わりに、手順を丁寧に重ねる。
十分に溜まったところで、導線の〈場裏・青〉を領域解除する。出口の落ちる音が止まり、指先がふっと軽くなった。乾いた息が一度だけ深く入る。
わたしは〈場裏・赤〉をそっと展開しつつ、部分解放で熱を湯の中へ必要なぶんだけ渡していく。指先から伝わる温度が、冷えた骨の奥でほどけていった。
熱を上げすぎないよう、息の細さを数えて、ひと息ごとに止める。水面がかすかに白み、草の匂いが湯気に混じったところで領域解除した。
「みんな、お待たせ。お風呂ができあがったよ」
強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのが見えた。驚嘆の息遣いが収まると、野営地には焚き火の爆ぜる音と、湯気に混じる土と草の匂いだけが静かに満ちていた。




