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名のつかないざわめき

 石の廊下を車輪が転がる音が、やがて自室の扉の前で止まった。ヴィルが鍵を回し、リディアが車椅子をそっと押して敷居を越える。炉にはすでに火が入れられていて、石壁が赤みを帯びた影を落としていた。


 ヴィルは扉の枠に肩を預け、わたしが寝台の近くまで運ばれるのを見届けると、ひとつだけ顎を引いた。叱るでもなく、労うでもない。ただ、もう大丈夫だな、とでも確かめるような間だった。


 靴底が石を二つ三つ打ち、角を曲がった先で音が消える。


「ミツルお嬢様、今日はもう無理なさらず……お足もお痛みでしょう。どうぞゆっくりお休みくださいませ」


 リディアが静かに促す。


 わたしはこくりと頷き、言葉の代わりに微笑を返した。安堵が彼女の頬にやわらかく差し、腹の内で小さな罪悪感がきゅっと縮む。無理をすれば、その重みは彼女の肩にも落ちるのだと、改めて思い知らされる。


「はい。そうさせてもらいます、リディアさん」


「……何かございましたら、どうぞすぐにお呼びくださいませ」


 遠慮がちな一礼とともに扉が閉まる。


 しん、と静けさが満ち、暖炉の赤橙がタペストリーに波の陰影を投げる。布目がかすかに温む。羊毛の匂いと、炭の甘い残り香が混じり合い、空気がぬるく息づいていた。


 わたしはマウザーグレイルを引き寄せ、車椅子からベッドの縁へ滑るように移る。


 足元に鈍い痛みが走った。思わず息を止める。羽毛が体温を受け止めて沈み、白銀の刃の冷ややかさが掌へ移る。その冷たさを確かめているうちに、乱れていた呼吸が、ようやく少しずつ戻ってきた。


「茉凛……聞こえる? いま、とってもあなたの顔が見たい気分なの」


 両手を重ね、白銀の刃へそっと呼びかける。


 瞼の裏を淡い粒子が流れ、ミルクティーブラウンの髪の少女の輪郭が光に縁どられていく。距離が縮むほど、色がほどけるみたいにあたたかくなった。


《《おかえり、美鶴。……その様子だと、いろいろうまく進んでいるみたいだね》》


 澄んだ声が奥のほうに触れる。


 張りつめていた背中から、力がひとつ抜けた。暗がりの中で、誰かが小さな灯を伏せてくれたようだった。


「……ただいま。ねぇ、わたしがいない間、あなたは何をしてたの?」


《《ちょっとね……お部屋に籠もって色々調べたかったの。共振による解析や、それを情報として整理して、あなたの視覚に重ねる方法とか。グレイさんの体を診るのに使えそうだから、うまく応用できる方法を、いろいろ試行錯誤してたんだ》》


「そうか……ずいぶん手間をかけさせちゃってるみたいで……ごめん」


《《なんのなんの、気にするでない。儂と貴殿の仲ではないか》》


 いつもの時代がかった調子に、つい頬が緩む。


「おかげで、ようやくいろんなことが動き出しそうよ」


 お祖父さまとの対話も、ヴィルとのぎこちない衝突も、まだ熱を残したまま胸の奥にある。


 それでも、さっきまでのように一人で抱え込んでいる感じはしなかった。マウザーグレイルの重みが膝の上にあり、その向こうで茉凛が聞いてくれている。ただそれだけで、言葉は前より少しだけ、喉を通りやすくなる。


《《ふふ、それならよかった。あなたってどうしたって無理しがちだから、もっとまわりを頼ってね。わたしも、あなたの力になりたいと思ってる》》


「ありがとう。茉凛がいてくれれば、怖いもの無しって思える。百人力どころか万人力くらいにね」


 刃の冷たさが掌になじみ、その向こうに茉凛の体温がかすかに透ける。


「……お祖父さまのカルテが手に入り次第、精霊魔術をどう応用できるか探ってみる。もし治療につながる一手が見つかったなら、ぜひとも実現させたい」


 ふと脳裏に甦る、低く不器用な叱責。


 ――一人で背負うのはやめろ。


 あのときはうるさいと跳ねつけた言葉が、いまはまだ耳の奥に残っている。正しいから残っているのではなく、たぶん、彼が本気で怒っていたからだ。


 わたしはマウザーグレイルを抱きしめ、刃の重みと輪郭を掌で確かめた。冷えはまだある。けれど、さっきより刺さらなかった。


《《……あなたが頑張るのなら、わたしも全力で支えるのみだよ。いっしょに頑張ろう》》


「うん。精霊魔術の可能性を、わたしたちで一緒に切り拓いていこう。足が治ったら、侍医司の側の知識も借りて、もっと大きな力に育てていきたい」


 言葉にすると、足の痛みの奥で別の熱が小さく灯る。


 それは勇ましいものではなかった。まだ頼りなくて、指で覆えば消えてしまいそうな熱。それでも、消したくはないと思った。


《《いいね。それはとってもいいことだと思う》》


「茉凛にそう言ってもらえると、ほんと嬉しい」


 暖炉の火が一度だけ大きく揺れ、タペストリーの波模様がふわりと伸びた。その一瞬の明るさに、瞼の裏の茉凛の輪郭がいっそう近く見えた。


《《思えばこっちの世界でいきなり目覚めさせられてさ……あなたはミツル、わたしは剣の中で、右も左もわからないままで、辛いこともたくさんあったけど、『呪いでしかない』って嘆いていたあなたの力が、今は希望につながる光になりかけてる。こんな素晴らしいことって、ほかにある?》》


「そうだね……茉凛がいてくれたから、わたしも折れずにここまで来られたんだよ。感謝してる」


 目を開けば、自室の色が戻る。


 麻布のシーツの手触り。暖炉の照り返し。夜気の冷たさ。そのすべての上に、彼女の笑顔の温もりだけが薄く残っていた。


 寝台に背を預け、深く息を吸う。


 わたしが求めるのは、戦いに勝つことだけではない。


 精霊魔術の地図を広げること。兵器の因子を抱えたこの身体で、兵器ではない道を探すこと。その矛盾を、まだ上手く言葉にはできない。


 ただ、刃の冷たさを抱いたままでも、別の方角を向くことはできるのかもしれなかった。


 けれど、腹の底に小さな棘が残っていた。


 わたしは剣を抱いたまま、薄闇の天井を仰いだ。


「ねぇ、茉凛……ヴィルのことなんだけど……」


 ためらい混じりの問いに、すぐ落ち着いた気配が返る。


《《どうしたの? 彼とはもう和解できたんじゃないの?》》


「それはそうなんだけど……離宮に戻るまで、ずっと不機嫌だった理由がはっきりしないままでさ。もちろん、わたしの自分勝手のせいだってことはわかる。それについてはお互い納得できた。でも……それだけじゃない部分もある感じで」


《《ほうほう》》


「やっぱりなにか別の理由があって、それでいらいらしてるみたいだったから」


 ぱち、ぱち、と火が弾ける音だけが、沈黙の間を埋める。


 呼吸を一つ待って、深いため息が剣越しに落ちた。


《《はぁーっ……》》


「なによ? わたし、何か変なことでも言った?」


 暗がりの向こうを探る。


 茉凛が小さく首を振る気配がした。


《《美鶴、あなたって本当にこういう方面は疎いというか、鈍感というか……》》


「どこが?」


《《簡単な話だってば。ヴィルが不機嫌だったのは、ラウールにやきもち焼いてただけよ》》


――やきもち?


 鼓動が不意に速くなり、頬の内側が熱を帯びる。


「はぁ? 意味わかんない。どうしてそうなるのよ?」


《《わからないかなぁ……やれやれ、まったく罪な女よのぅ》》


 わたしは布団の端をぎゅっと摘み、視線を落とす。暖炉の小さな火影が、足元を淡く染めた。


「……もう、変なこと言わないでよ。ヴィルってああいう性格でしょ。悔しいっていっても、それは護衛としての役目を果たせなかったからに決まってるじゃない」


 脳裏に浮かぶ横顔。


 あの苛立ちは、たしかに叱責だけでできているようには見えなかった。けれど、そこから先へ踏み込もうとすると、足元の羽毛が急に深く沈むような心地がした。


《《けど、美鶴がラウールを見つめてるときの様子、わたしにはモロにわかったよ》》


「なにがよ?」


《《あの神秘的な瞳に囚われたみたいに、ぼーっとしてた》》


「そ、それは……珍しいし、とてもきれいだったから……それだけよ」


《《そうはいってもねー、そんな姿を見せられたら、面白くないのは当然じゃない? 特に、ヴィルみたいにあなたをずっと近くで見てきた人なら、自分が入り込めなくなるんじゃないかって焦るのよ。あの人って不器用だから、そういうとこ余計にね》》


「……そうかな? でもね、考えてみてよ。わたしと彼って、親子くらい歳が違うんだよ? 普通、そんなふうに意識したりする? ありえない」


 暖炉の火が揺らぎ、頬にぬるい光が触れる。


 言葉を追うほど、指先の温度が上がっていく。摘んでいた布団の端に、小さな皺が寄った。


《《いやいや、それってなにも恋愛感情だけとは限らないよ? ヴィルはあなたを守るって誓いを立てたんでしょ。ところが肝心のあなたのピンチに傍にいられなかった。ただでさえ腹が立つのに、駆けつけてみれば、そこにいたのはラウール。そりゃあ居場所を横取りされたみたいに思うんじゃない?》》


「物語風にいうと『お姫様の危機に馳せ参じた騎士であったが、ふらりと現れた王子さまに横取りされてしまった』……ってわけ?」


《《そうそう、マジそういう感じ》》


 冗談めいているのに、彼の顔を思い出すと否定しきれない。


 困ったような怒り方。押し殺した声。こちらを責めながら、どこか自分にも腹を立てているような目。


「でも、そういうのって、わたしにはよくわからないんだよね……。彼は父さまの親友で、導いてくれる師匠みたいな存在で、それにとても頼りになる大人で、いつか対等になりたいって目標なだけで……」


 言いかけて、思わず苦笑が漏れる。


 子どもじみた整理のつけ方だとわかっていても、わたしのなかの彼は長くそういう輪郭をしていた。そう呼んでおけば、何も壊れずに済むような気がしていたのかもしれない。


《《美鶴、もうちょっと女の子らしく悩みなさいな。ほら、こういう話って普通は友達同士であーだこーだ言いながら、盛り上がるものじゃない?》》


「……なんか無責任ね。恋バナって、こんな感じなの? わたしには縁遠い世界だわ」


 そう笑いかけてみせながら、けれど奥のほうに、ひとつ沈んでいく声があった。


「……たとえば彼が、ほんの少しでもわたしを特別だと思っていたとしても、そういうの、とても想像できない。だって――わたしは彼にとって、親友の娘なんだよ? そんなの、重すぎて冗談にもならない。どう考えたって、おかしいでしょう?」


 言ってしまったあと、羽毛の沈みが急に深くなった。


 暖炉の火が小さく鳴る。胸の奥まで入ってきた言葉を、慌ててそこから遠ざけるように、わたしは視線を逸らした。


「まあ、恋バナっていうのは、真面目すぎない空気でやるものなんだろうけど……」


《《そうそう。たとえば「ねぇ、ヴィルってわたしのこと本当はどう思ってるのかな?」とか、「ラウールにだって落ち度はないのに、どうしてそんなに嫉妬しちゃうわけ?」とか。自由気ままにしゃべって、最後は「まあ、結局よくわかんないよね」って笑い飛ばすのが、恋バナってものじゃない?》》


「だから、それが無責任なのよ。ちゃんとした答えに辿り着かなそうだし、余計もやもやするだけじゃない……」


《《いいの、いいの。あれこれ話しているうちに、自分の気持ちも自然と整理されるんだから。答えなんて後からついてくるもんだよ。……そういう意味では、美鶴は抱え込みすぎだと思うなぁ》》


「悪かったわね」


《《ヴィルがどんな理由で嫉妬しているのかなんて、本人以外、ううん、本人ですらわからないんだから。とりあえず『わたしのためにそんなに怒ってくれたんだ。ありがとう』くらいは言ってあげればいいんじゃない?》》


「……そんなもの、でいいのかな……」


 布団を摘んでいた指が、少しだけ緩む。


 恥ずかしい。けれど、その恥ずかしさの中に、息ができる隙間もあった。答えを決めなくていいのなら、この胸のざわめきも、まだ追い出さなくていいのかもしれない。


 視線を落とすと、刃の硬い光沢が暖炉の火をはじいた。


 わたしは剣を抱き寄せ、小さく笑う。


「そういえば、ラウールのこと……たしかに気になってはいるんだよね。見た目ももちろんだけど、会話の端々からにじむ優しさの奥に……底知れない何かを抱えているようで。それはね、辛いとか悲しいとか、そういう単純なものじゃない。背負っているものだって、大きすぎて……」


 そこで言葉が、ふっと細る。


――かつての、わたし――柚羽美鶴みたいに……。


「まあ、よくわからない人だよね」


 気になる、と口にしてみて、わたしはその言葉の広さに少し戸惑った。


 刃の冷たさが、掌へ戻ってくる。あの赤紫の瞳を思い出すと、胸が跳ねるより先に、どこかが静かに身構えた。近づきたいのか、距離を置きたいのか、それさえまだ決められない。


《《へぇー、やっぱりラウールのこと意識してるんじゃない? そりゃ、あの超絶美形に赤紫の瞳だもんね。ちょっとドキッとしたんでしょ?》》


「それは、まあ……そうなるわよね。とにかく綺麗すぎるんだもの。……でも、わたしの事情を分かったうえで、詮索せずにそのまま受け止めてくれた人でもあったから……」


《《あはは、ほらほら、そういうのが恋バナなの! ヴィルは真面目なくせに、いい歳して不器用。ラウールはクールな顔して、ああいうところで妙にやさしいんだもん。……さあ、美鶴はどっちを選ぶ?》》


「ちょ、ちょっと待って、選ぶってなに! そんなつもりないって」


 頬が一気に熱を持ち、羽毛布団を握りしめる。


 刃の中で茉凛の気配がころころと転がっている。わざとだ。本気で選ばせようとしているのではなく、わたしが慌てるのを楽しんでいる。


《《はいはい、選べなんて言わないって。あなたが少しでも楽しめてるなら、それで十分》》


「楽しんでるのはあなたじゃないの? からかわないでよ」


《《からかってないよ。ひとりで悶々としてても、どうせ答えなんて出ないんだから》》


「わ……わかったわよ。とりあえず、ヴィルがいじけてたのはやきもち……かもしれない、くらいには思っとく。次に会ったら、お礼も兼ねて少し話してみる」


《《うんうん、それでいいの。ただ、あんまり意識しないようにね》》


「なんで? 何を意識するっていうの?」


 身を起こしかけた途端、足元に鈍い痛みが戻った。わたしは小さく息を呑み、すぐに寝具へ身体を戻す。


 茉凛は《《さあねー》》と、煙に巻くみたいな歌声でかわした。


 答えを持っているのか、それとも持っていないふりをしているのか。どちらにしても、これ以上は引き出せそうにない。焦らされる苛立ちと、軽くなる心。夜の静けさが、からりとした余白を残していく。


 わたしはマウザーグレイルを抱きしめる。


「ま、いいわ。そんなことはもう。とにかく、明日からのいろんなこと、もう少しだけ前向きに考えられそうな気がする。それだけでも収穫よ」


 暖炉の火が、刃の縁を細く照らす。


 どこへ向かうのかはまだわからない。けれど、いま胸の中にあるものを、すぐに名前で縛らなくてもいいのだと思えた。


《《ならよかった。……でも、だからって無理しちゃダメだからね。足をちゃんと休ませて、しっかり寝ること》》


「うん。わかったよ。おやすみ、茉凛……」


《《おやすみ、美鶴……》》


 布団のやわらかな重みに身を預け、瞼を閉じる。


 マウザーグレイルの冷たさは、腕の内側で少しずつぬるんでいった。火が一度、小さく爆ぜる。


 その音を聞いたところまでは、覚えている。


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