精霊魔術は、救うために
「いや、むしろ私こそ愚かであった。君の叡智と慧眼を前に病を隠し通せるなどと、実に思い上がった考えだ。最初から正直に打ち明けるべきだった……すまない」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
橙の明かりが石壁を揺らす。お祖父さまの声は静かだったのに、その底には悔いが深く沈んでいた。
「いえ、お祖父さまのお気持ちは、よくわかっております。病をおしてまで、魔術大学以外のお仕事に向かわれていたのも、わたしの自由のための『取引』が背景にあったのだと……推察しております」
以前、夕食を共にした夜のことを思い出す。
近づいたとき、ふっと鼻先をかすめた匂い。微かな金属と薬液。魔術炉の熱をまとい、研究室に長くいた人の匂い。
けれどそれは、魔術大学の書架や羊皮紙に染みついた気配とは、どこか違っていた。もっと密やかで、もっと重い、別の場所の匂いだった。
病を抱えるお祖父さまが、なぜ魔術大学以外の仕事で多忙であったのか。
現王ロイドフェリク二世と、何らかの取引をしていたに違いない。だからわたしは自由でいられる。そうでなければ、とっくにもっと強引な手が伸びてきていたはずだった。
お祖父さまは、まるで観念したかのようにため息をついた。
火の揺れが、その睫の影をわずかに濃くする。
「そこまで見通していたとは、さすがは我が孫だ。弁解のしようもないが……」
「とんでもございません。お祖父さまのお心遣い、感謝しております」
「この件は国家機密ゆえ、仔細は明かせぬがな。すまぬ……」
お祖父さまの声が途切れたあと、薪がぱちりと小さく弾けた。
その音を境に、部屋の空気がわずかに質を変える。
国家機密。
その一語が、わたしとお祖父さまのあいだへ、見えない仕切りを下ろした。
踏み込めない領域があることは理解していた。けれど、踏み込めないからこそ、わたしにはわたしの手の届く場所で進むしかないのだと、腹の底がすっと据わった。
「お祖父さま?」
「なんだね」
「わたしが今日ここへ参ったのは、叱られるためだけではございません。お願いがあるのです」
膝の上で組んだ指に、そっと力を入れる。
炉の熱が頬をなぞる。言葉のかたちを確かめるように、ひと呼吸おいた。
「お祖父さまのご病状について、侍医司が保管しているカルテを閲覧させていただきたいのです。……そして、精霊魔術で何ができるか、わたし自身の手で確かめてみたいのです」
沈黙が落ちた。
ヴィルの革靴が石床をかすかに擦る音だけが、遠くでひとつ鳴る。
お祖父さまは、しばらくわたしを見つめていた。
その視線には驚きよりも、むしろ、待っていたものがようやく差し出されたとでも言いたげな、静かな光があった。
「……ほう。つまり君は、この老いぼれの病に、精霊魔術で挑もうというのかね?」
「はい。まだ確信があるわけではありません。けれど、可能性を探ることすら放棄してしまったら……わたしがここにいる意味がありません」
声が震えそうになるのを、指先の力で抑える。
お祖父さまは瞳を細めた。炉の火を映したまま、ゆっくりと口を開く。
「要は、カルテの情報を元に精霊魔術の持つ可能性を試してみたい。そういうことだね?」
呼吸を合わせる。
喉の渇きが一度だけ鳴り、指先は膝の上で静かにほどけていった。
「はい。わたしは、精霊魔術とは精霊子と呼ばれる高度な情報の塊を扱う術ではないかと考えています。情報の保存や伝達、さらには事象への干渉にまで応用が利く。禁書庫の遺物や、聖剣同士の共鳴も、その理で説明できるはずです」
お祖父さまは、ごく小さく頷いた。
暖炉の赤が、その眼差しの奥に静かに映り込む。
「なるほど」
「その理を突き詰めれば、いつかは生命を形づくる設計図そのものに手が届くかもしれない――わたしはそう考えています」
言ってしまってから、膝の上の指が少し強く重なった。
これは仮説だ。けれど、仮説の形をしているだけで、ほんとうは願いだった。どうか、まだ間に合ってほしい。そんな身勝手な祈りが、言葉の奥で静かに震えている。
お祖父さまは、それを急かさなかった。
炉の音だけが、しばらくふたりのあいだを満たしていた。
「生命の設計図とな。ふむ……具体には、どのようなものか、もう少し聞かせてくれないか?」
「はい。生き物にはそれぞれ、身の内に設計図を抱えていて、生まれ、育ち、日々身体を繕い直すための仕組みが刻まれています。ただ、設計図を守り、写し、繕い続ける営みには限りがある。やがて綻びが積もれば老いが進み、ついには活動を畳む――わたしは、それが寿命であると捉えています」
「ほう……斬新な視点だ。続けてくれたまえ」
暖炉の揺らめきが、お祖父さまの横顔を浮かび上がらせる。
王としての知と、祖父としての温度が同居するその横顔に、わたしは唇をひとつ噛み、さらに言葉を重ねた。
「通常、脳や血管、内臓など生命維持の要が病に侵されれば、それだけで致命的な機能不全が生じます。まして、設計図の読みが狂い、書き誤りが積み重なれば、組織は異様な勢いで増え、その異常が正常な働きを圧迫し、奪い、やがて死に至らしめます」
お祖父さまは眉間の皺をさらに寄せた。
けれど、その表情に悲観の影は落ちない。
「うむ。では後段――増えすぎて身を害するものは、いわゆる腫れ物のたぐいかね? 『切っても癒え難く、やせ細らせる』という、あの厄介な」
「はい。中でも、医家が最も恐れる悪しき腫れと呼ばれるものです。硬く育ち、潰してもなお芽を出し、身を蝕んでいく――古き記録では『兇腫』とも記されたものです」
「……なるほど、悪しき腫れか。承知している。首席侍医は近ごろの医家の語で『悪性腫瘍』と説いていたな。――して、ミツル、君は精霊魔術の理より、これを鎮め得る術を探っているのだな?」
「はい……まだ思案の域に過ぎませんが、設計図に触れうるなら、身の営みが正しく巡っているか、どこで理が乱れているかを見分けられるはずです。書き誤りを読み解けるなら、その増え方の歪みをたしなめ、病の巣を鎮める道が見つかるかもしれません。もっとも、正しき部分まで傷つける虞の大きい賭けになります」
ここで、ヴィルが小さく息をついた。
革が擦れ、低い吐息がわたしの耳にやわらかく届く。
「……難しすぎて、俺にはさっぱりわからん。だが要するに、お前は精霊魔術が、ただ戦うためのものじゃないって証明したいんだろう?」
「……ええ。だからこそ、誰かを救えるなら、使わずにいるほうが怖いの」
言い切ると、彼は目尻にやわらかな光を浮かべた。
その表情が、どんな言葉より強い。
「ならば、覚悟を持ってやれ。お前の決めた道なら、俺が全力で守ってやる」
喉の奥がきゅっと狭まり、返事がすぐには形にならない。
視界の端で、暖炉の橙がふわりと滲んだ。膝の上の指先がかすかに震える。つかえていたものではなく、もっと静かなものが、ようやく深いところへ落ちていく。
「う、うん……」
たったそれだけしか言えなかった。
けれど、短い音のなかに、ほどけかけた不安と、やっと掴めた安堵がいっしょに沈んでいく。
ヴィルは照れたように鼻を鳴らし、すぐにいつもの実務的な顔へ戻った。
「まぁ、さすがに以前みたいにおおっぴらに王都を出歩くのは無理だが、ここから近い魔術大学や侍医司くらいなら、警備も厚い。そう簡単には手を出させん」
そっけない口調のまま、彼の視線が一瞬、車輪へ落ちた。
もしもの時は支える。そう言葉にするまでもない意思が、そこにあった。わたしは膝の上で震えを抑え、お祖父さまを見る。
お祖父さまは背もたれに身を預け、静かに頷いた。
「ミツルよ、思いに根ざした探究心は強いものだ。精霊魔術には、まだ未知の領域がいくらでもあるはずだ。その可能性を追うというのなら、私も喜んで力を貸そう」
「ありがとうございます」
「ただ……私自身が研究対象となるというのは、少々複雑な気分ではあるのだが。可愛い孫のためだ。喜んでこの身を委ねようではないか」
「お祖父さま……!」
喉の奥が熱くなり、息が詰まった。
わたしは車輪をわずかに押し出し、揺れる光の中で、その瞳をまっすぐ受け止める。
「……わたし、全身全霊で挑みます。ただ、もしお身体が辛いときは、どうかご無理なさらずお休みになってくださいね。わたしだけでなく、皆でお支えしますから」
「もちろんだとも、ミツル。だが君も、足が癒えるまでは焦らぬことだ。クロセスバーナは侮れぬ相手だが、その件は国の舵取りを担う者たちに任せればいい。まずは君が歩める基盤を固めるのが肝心だ。身体は一つ。自分に何ができるかを見極め、手の届く範囲から着実に進めなさい」
「はい……!」
声に自然な張りが戻る。
背後で、ヴィルの短い吐息が小さく笑った。
「お前の決意は受け取った。だが今はまだ動く時じゃない。何より先に、怪我を治し切れ」
「そうね、足を引きずっているようじゃ何も進まないもの。言いつけどおり、治るまで大人しくするわ」
わたしが笑うと、ヴィルはそっぽを向いた。
頬の奥に、針先ほどの何かが覗いた気がした。
お祖父さまが一同を見回し、肘掛けに両手を置く。
遠火は穏やかに揺れ、その横顔をやわらかく染めていた。
「では、首席侍医アルベルト・カベスタニー殿に正式な通達を出しておこう。遠慮なく調べるといい」
「ありがとうございます、お祖父さま。お手数をおかけします」
「彼も、きっと君の探究に興味を抱くことだろう。必要は遠慮なく告げ、力を借りなさい。……だが、無茶は禁物だよ。あと、夜更かしもほどほどにな」
「はい、お祖父さま。焦ることなく一歩ずつ進めていきます。絶対に無理はいたしません」
「うむ。それでこそ私の孫だ」
微笑が連鎖し、不安が少しずつほどけていく。
炉の温度、墨の匂い、革紐の手触り。小さな現実が、ばらばらだった未来を少しだけ手の届く場所へ寄せてくれる。
「では、ミツルお嬢様。お部屋へお戻りになりましょう」
背後のリディアの声に我へ返る。
お祖父さまを疲れさせたくない思いもあって、素直に頷いた。
ヴィルが短く促し、素っ気ない顔のまま一瞥を寄越す。その慣れた空気に、わたしは小さく笑う。
静かな書斎を辞し、石の廊下へ出る。
扉が閉まる音が耳の奥で細く反響した。未だ疼く足首を抱えたまま、車椅子に身を預ける。車輪の軋みが、淡い音で床をなぞった。
やるべきことは見えている。
まだ手は震える。けれど、その震えを隠さなくてもいい場所が、いまはある。
車輪の淡い軋みを聞きながら、わたしは扉の向こうへ続く道を、もう一度だけ信じてみようと思った。




