届かなかった手と、届いた言葉
わたしは椅子にもたれるお祖父さまの前で、唇をきゅっと結び、起こったことを順に語った。
暖炉の薪が、遠くで小さくはぜる。橙の光が石壁に揺れて、室内の影を呼吸させていた。喉の奥は乾き、言葉の角に細かな砂がかぶさる。それでも、止まるわけにはいかなかった。
離宮を抜け、首席侍医の屋敷を目指した矢先に拉致されたこと。
マウザーグレイルを奪われ、王都の外へ連れ出されたこと。
精霊魔術で脱出を試みた際、負の感情に呑まれ、暴走しかけたこと。
どうにか事態を収め、生還したこと。
語るたび、車椅子の肘掛けの木目が掌へ冷たく戻ってくる。羊皮紙の擦れる音が室内でかすかに鳴り、墨の匂いが静かに立ちのぼった。
助けてくれた青年ラウールが、クロセスバーナに滅ぼされた国の元王子であること。
彼の証言から、拉致を指示したのがクロセスバーナの密偵であると推測されること。
実行犯たちが、限られた者しか知り得ないはずの、わたしとマウザーグレイルの関係に触れていたこと。
クロセスバーナにとって、リーディスの巫女や黒髪のグロンダイルは、必要であるか、もしくは邪魔であるらしいこと。
言い訳に逃げるつもりはなかった。
どんな叱責も受ける覚悟で、事実だけを並べる。言葉をひとつ置くたび、炉の熱が膝の上の毛布へやわらかく沁みた。布目の起伏が指先に触れ、その細かな感触だけが、かろうじて声を保たせてくれる。
お祖父さまは深く頷き、やがて天井へ視線を止めて、短く息を吐いた。
張り詰めた空気が、暖炉の音をさらに遠くへ押しやる。
「そうか……どうやら、私の見通しが甘かったようだ。まさか、そこまで事態が進んでいようとは。この事実、王がどう受け止めるかだが……」
お祖父さまの指先が、肘掛けの布をひとつだけ強く掴んだ。
「つらい思いをさせてしまったね、ミツル……」
伏せた睫の影が濃い。眉間には、悔恨の深い刻みが寄っていた。
その皺を見た瞬間、胸の奥で何かがきゅっと縮んだ。けれど、ここで慰められてはいけない。わたしは背筋を伸ばし、肘掛けに添えた指へそっと力を集めた。
「いいえ、お祖父さま。それは違います。何よりもまず、わたしは連絡と相談を怠りました。勝手に焦り、ヴィルを呼び戻すべきところ、独断で行動してしまいました。わたしを狙わんとしていた勢力は、それを好機とした。つまり……落ち度はすべてわたしにあります」
謝罪の言葉を継ごうとした、その刹那。
「……それは違うぞ」
低い声が、仕切りの向こうから滑り込んだ。
鼓動が一拍だけ跳ねる。衣擦れが近づき、靴底が石を打って乾いた音をひとつ弾いた。わたしは息を呑む。
現れたのは、ヴィル・ブルフォードだった。
「ヴィル……っ!? どうして、あなたがここに?」
名を呼ぶわたしに返事もせず、彼はお祖父さまの隣へすうっと歩んだ。
お祖父さまが、半ば呆れたように苦笑する。
「ブルフォード、私が許可するまでは我慢しろと言ったはずだがね」
ヴィルは意に介さなかった。
ちらりとこちらへ視線を寄越す。そのまっすぐさに、みぞおちの奥がひやりと縮んだ。
「ミツル、お前は底なしの馬鹿だ」
「なっ!? ば、馬鹿ですって……!?」
――第一声がそれ? なんでこんな時に。
理不尽に喉がひゅっと鳴る。
指先から熱が引き、肘掛けの冷えが掌に増した。さっきまで整えていたはずの覚悟が、彼の一言で少しだけ形を崩す。
ヴィルは一度だけ天井へ視線を逃がし、眉間を指でぐっと押さえた。
「ああ……もうこうなったら我慢できん。いいか、はっきり言わせてもらうぞ。何もかも自分が悪いと思い込んで、抱え込むのはいい加減やめろ」
抑えた声音は鋭い。
けれど、胸元の革紐がわずかに震えていた。声が耳殻をかすめた瞬間、肋の内側に硬い痛みが走る。叱られているのに、そこに怒りだけがあるわけではないと分かってしまうのが、苦しかった。
「……あなたの言いたいことはわかるけど、今回の件に限っていえば、どう考えたってわたしのせいでしょう? 護衛なんか要らないって言い張って、難民の方々から情報を集めるように頼んだのは、わたし自身なんだから。論理的に考えて、全ての責任はわたしにある!」
反論しながらも、視線は彼の喉仏のあたりで止まった。
低い呼気が革へ触れ、微かな湿りを残している。顎の筋がひとつ硬くなり、靴先が床を一度だけ鳴らした。
「ああ、そうだな。そうだろうとも。しかしな、だからといって、カテリーナの屋敷を調査の拠点にする必要があったか?」
「そんなの当たり前じゃない。彼女が持っている王都の情報網を活用しなくてどうするのよ?」
「その結果がこれだ。遠すぎたせいで初動が遅れ、結局……俺は間に合わなかった」
低く切り込む声に、腹の底がざわついた。
間に合わなかった。
その言葉だけが、炉の熱の中でも冷たく響いた。彼の言葉は理詰めの叱責に過ぎないはずなのに、心のどこかで、まさか、ラウールに苛立っているのでは、と瞬間的に思ってしまう。
その考えが浮かんだ自分に驚き、舌の奥が熱を帯びた。
「……あなた、まさかラウールのこと、まだむかついているの?」
思わず洩れた問いに、彼は間髪入れず言い切った。
「は? お前は何を言っている。そういうことじゃない。護衛役としての義務が果たせなかったという意味だ」
即答だった。
甘い色を差し挟む余地はどこにもない。肩線だけがわずかに強張っている。そこにあったのは、誰かへの嫉妬ではなく、ただ己の役目を果たせなかった悔恨だった。
「……それは、わかるけど」
「まったく、危険が潜んでいる可能性を考えもせず、のこのこと従っていた俺も馬鹿だ。どうせお前のことだろう? わざわざ俺を煩わせたくないとか、変に気を遣ってたんじゃないのか?」
言葉が掠めるたび、肘掛けに添えた指が強ばった。
「……っ」
目の奥に熱が寄り、耳朶がじんわり灼ける。
図星だった。喉が詰まり、唇が固く結ばれる。何か言い返そうとしたのに、胸の内側で組み上げた理屈が、彼の一言でばらばらに解けていく。
「それと、もう一つ――」
炉のはぜる音だけが、一拍だけ室内を満たした。
「な、なに……?」
彼は息を潜め、告げた。
「お前があれこれ思い悩んだ末に、こんな状況になったのはだな、元を辿れば俺が陛下の病気について、軽々しく漏らしてしまったせいだ。そのせいで、お前を余計に煩わせた……。だから俺にも責任がある」
俯いた横顔。
耳たぶだけが、気まずげに赤い。強い人が、強がりきれずに自分の落ち度を差し出している。その不器用な形に、胸が痛んだ。
わたしは背もたれから身を起こし、息を深く満たす。
「……それは違うでしょ! あなたが勇気を出して教えてくれたから、わたし、大切にしなければならないものが何なのか、気づけたの」
声が止まった一瞬、膝の上の毛布の繊維が指腹にざらりと触れた。
「やっと、やっとよ……ずっと掴めなかった、わたしの進むべき道が見えてきたの。だから、あなたは何も悪くない!」
言い切った瞬間、指の震えがすっと止んだ。
自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。肺の奥が熱い。ヴィルは目を見開き、わずかに戸惑いを見せる。
それから、咳払いひとつで強がりを整え、視線をほんの少しだけ逸らした。
「ふふふ……」
お祖父さまが小さく肩を震わせ、温かな笑いを漏らした。
石壁に跳ねる火の影がやわらぎ、張り詰めていた空気がすっと緩む。
「いや、すまないね、ふたりとも。こうして見ているとまるで仲の良い親子が言い争っているようでもあり、恋人同士の痴話げんかのようでもあり……」
親子、という言葉はまだ受け取れた。
けれど次の言葉だけが、火の粉みたいに耳の奥で弾ける。意味を拾うより先に、頬へ熱が上がった。ヴィルのほうを見る勇気は、すぐには出ない。
「お、お祖父さま……からかわないでください……」
「だが、どんな理由であれ、互いを大切に想っているのが伝わってくるから、微笑ましくて仕方なかったのだ」
耳の縁が熱い。
言葉そのものには触れられず、炉の熱が手の甲へ戻るのを確かめることしかできなかった。ヴィルはひどく渋い顔をしていたけれど、否定の言葉だけは出さなかった。
「……まったく、こんなに手間のかかるやつは初めてだ。おちおち酒も飲めやしない」
ヴィルはわざとらしく嘆息し、困ったように眉を寄せる。
それでも、視線の奥には柔らかな光が宿っていた。怒りの熱とは違う。もっと近く、けれどまだ名をつけてはいけないものだった。
「ヴィル……勝手なことして、本当にごめんなさい。でも、あなたが教えてくれたことには、すごく感謝しているわ。あのまま知らないでいたら、きっともっと取り返しのつかないことになっていたと思う」
彼は気恥ずかしそうに視線を落とした。
その仕草に、肩の強張りがほどけていく。ときに噛み合わず、ときに同じ歩幅で並ぶ。そのことに、まだ名前はなかった。ただ、革の匂いと炉の温度が同じ部屋にあることだけが、いま確かだった。
「いいや……俺もお前の気持ちをわかってるつもりで、まるで汲み取れてなかったんだから、情けない話だ……。だが覚えておけ。これからは俺に限らず、もっと周りを頼れ」
刺々しい言い回しの奥に、不器用な優しさが確かに滲んでいる。
わたしは肘掛けに添えた指先をそっと押し、彼の眼差しを受け止めて頷いた。
「……うん、そうする。今回のことで思い知らされた。わたしひとりで抱え込んでいたら、周りを心配させるだけだし、いくら時間があっても足りないってことも。その、あなたを頼っても……いいんでしょう?」
言ってしまってから、喉の奥が小さく震えた。
頼っていいかと尋ねることが、こんなに怖いとは思わなかった。断られるはずがないと、頭ではわかっている。それでも、聞かなければ受け取れないものがある。
ヴィルはわざとらしくため息をついた。
それから一歩寄って膝を折り、視線の高さを合わせる。革の匂いが近づき、安堵の灯が胸の奥に小さくともる。
「もちろんだ。それと、また一人で無茶をしそうになったら遠慮なく叱るぞ。師匠と弟子でもなければ、騎士とお嬢様というわけでもない――それこそ、信頼を寄せ合う対等な仲間としてな。だから容赦はしない。いいな?」
言い切るまでのあいだ、彼は一度だけ視線を落とした。
こういう言葉を選ぶことに慣れていない人の、少し不格好な間だった。それでも、言葉は逃げなかった。わたしの目の高さまで降りてきて、そこでちゃんと止まった。
「ふふ、わかったわ。やっぱりヴィルは、そうでなきゃね」
わたしが笑うと、室内の空気がやわらいだ。
布の擦れる軽い音が石壁にやさしく跳ね、炉の熱が膝の上へ静かに戻ってくる。
「ふたりとも、どうやらわだかまりは解けたようだな。よろしい」
お祖父さまが腰を上げる気配がした。
椅子脚が床をかすめ、近づこうとしたリディアの足音を、ひと振りの手でそっと制す。
「お恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません、お祖父さま」
お祖父さまは首を横に振り、目に柔らかな光を宿した。
火の明滅が瞳の底で細い線となって揺れる。
叱責ではなく、許しでもない。
それでも、ここにいる三人のあいだで、責任の重さが少しだけ分け合われたのだと、膝の上の毛布の温度でようやくわかった。




