冬暮れの離宮に響く足音
スレイドの蹄が石畳を刻むたび、茉凛との会話の底から、意識がゆっくり浮上していった。
前で、ヴィルが手綱をわずかに絞る。
息は白く、革の継ぎ目がきゅっと鳴った。空は茜から藍へ溶け、何も言わない背中の傾きだけが、言葉より正確に今の気持ちを告げているようだった。
離宮の正門が近づく。
油の匂いを含んだ風の中、鉄扉が低く唸りながら開いた。塔の影は長く細り、夕闇へ縫い込まれていく。警備兵の視線が一瞬こちらを撫でるが、誰も声は発さない。重さそのものが、今宵の挨拶のようだった。
厩係にスレイドを預けると、ヴィルは無言でわたしの手をとった。
節の硬い指の熱が、脈を一拍だけ早める。促すように伏せられた睫毛の影に、言えない言葉が揺れている。
廊下を進むあいだ、侍女たちは控えめに会釈を返すだけだった。
わたしの軽率な外出は、もう伝わっているのだろう。沈んだ空気と、遠巻きの好奇心の気配に、肩が小さくすくむ。
それでも、手は離されない。
彼は怒っている。けれど、その手はわたしを置いていかない。そう知っているはずなのに、信じきるには、喉の奥がまだ少し冷たかった。
自室の扉の前で、ヴィルが立ち止まる。
鍵の音がかすかに鳴って、冷えた空気が頬を撫でた。
緋のカーテンはぴたりと閉じられ、折り目に薄い埃が沈んでいる。石床の冷たさは靴底を通って脛のほうへじわじわとせり上がり、壁の古い地図は小さな灯に揺れて、影だけを深くした。
「……中へ入れ」
低い声の余韻が、広い寝室の静けさに吸い込まれていく。
彼の影は敷居の手前で止まり、灯りの輪からはずれた頬に、ためらいのような陰が落ちていた。怒りの温度ではない。叱責を呑み込んだまま、体調の気配だけを探るような、息づかい。
わたしは一歩入って、振り返る。
扉際で革手袋がこすれ、金具が細く鳴った。石の部屋が溜め込んだ冬の気配が、奥のほうを静かに重くしている。
「ヴィル……」
呼んだ名は、宙で揺れて行き場を失った。
言うべき言葉は見つからない。魔道ランプの炎だけが小さく瞬いて、机の角に細い影を刻んでいた。
「今、俺から言えることはただ一つ――しばらくここで大人しくしていろ。それだけだ。それと、先刻交わした話の内容については誰にも話すな。わかったな」
淡々と落ちる声。
石床に散った影がわずかに動いて、扉の金具が軽く軋む。
叱られて当然だ、と分かっている。それなのに、腹の底の冷たさは別の形をとって居座った。
――ひとりに、しないで……。
「……ええ、わかってるわ」
届かなかった言葉の代わりに、唇が乾いて、舌先に金属の味が滲んだ。
彼の視線が一瞬だけ揺れた。こちらを確かめるように触れたのち、扉がそっと引き寄せられる。
ぱたん。
音の薄膜が部屋に降りた。
天蓋の布は重く、椅子の肘掛は磨き減って冷たい。壁掛け時計の針が、やけに大きな拍で耳の奥を叩いていた。
◇◇◇
魔道ランプに小さな火を足す。
わたしに魔石由来の魔術は使えないけれど、極低出力の一般魔道具程度なら、なんとか動いてくれる。炎は頼りなく揺れ、壁にかけられた布飾りの影を細く震わせた。そのたびに銀盆の縁が冷ややかに光を返し、広い室内はかえって暗さを濃くする。
緋のカーテンは外気を拒むはずなのに、布の折り目から染み出す湿り気が、肩口に重く絡みついてくる。
石床の冷たさは足首からふくらはぎへと這い上がり、腹の底に溜まった陰鬱さと、ひそやかに繋がっていった。
控えめなノック。
「どなた……?」
「……ミツルお嬢様。リディアです。ご気分はいかがでしょうか?」
扉の向こうの声は、閉ざされた空気にひとすじの切れ目を入れた。
開けると、木椅子の脚が床を擦る音がして、部屋のこわばりが一度だけ揺れる。リディアは包帯を手に、戸口で浅く頭を下げていた。
「お顔がひどく青ざめていらしたので、心配になりまして……」
「ごめんなさい。ご心配をおかけしてしまって……」
頭を下げると、彼女は小さく首を振る。
手にした包帯の布がさらりと鳴った。その控えめな音が、壁の影を少しだけ薄める。
「とんでもございません。お嬢様がご無事でいてくだされば、それだけで安堵いたします。……まもなく侍医が参りますので、念のため診ていただきましょう」
「はい。お願いいたします」
「足をかばっておられたように見えましたが、ほかに痛みはございませんか?」
視線を落とす。
足首の鈍い疼き。肩と腰の、触れれば青痣になりそうな重さ。転げ落ちた瞬間の記憶は霜に曇って、ところどころ途切れている。
「ええ……ちょっと転んだだけです。肩と腰に打ち身があるくらいで、大したことはありません」
そう答えながら、彼女の目元に残る影に気づく。
身体だけではない心配の色だった。リディアは両手を重ね、戸口のそばで、ほんのわずか指先を震わせている。
「お嬢様、差し出がましいようではございますが……このままでは、おつらさが募ってしまうのではと、私、案じております」
わたしは深く息を吸い、石の冷たさを肺の奥から追い出すみたいに、ゆっくり吐いた。
「今回のことは、すべてわたしの落ち度です。誰にも相談せず、ひとりで飛び出してしまったのですから……わたしが悪いのです」
言葉にしてしまうと、部屋の冷たさと沈黙が、また一段濃くなる。
けれど、リディアは首を横に振り、卓上のランプの位置を少しだけ寄せてくれた。
灯りの輪が動いて、壁の地図の影が遠のく。
「ですが……お嬢様が陛下のご病状に心を痛めておられたのを承知していながら、何ひとつお支えできず……本当に心苦しゅう存じます」
「リディアさん、そこに椅子を運んでくださらない? ずっと立ち話では、あなたも落ち着かないでしょう?」
「あ……はい。かしこまりました。では、お言葉に甘えまして……失礼いたします」
椅子の脚が石床を擦る柔らかな音。
彼女が腰を下ろすと、沈黙は先ほどより少し軽くなった。ランプの火が揺れ、わたしの呼吸も、それに合わせてようやくほどける。
わたしは一度だけ深く息を吸って、ゆっくりと顔を上げた。
「これから話すことをよく聞いて下さい、リディアさん……」
「はい……」
「もし離宮に何かあったら、どうか決して無理はしないで。危険を感じたら、わたしのことは考えずにすぐ逃げてください」
「お嬢様、何をおっしゃるのですか。そのようなことは、できません」
「いいえ、何よりも命が大切です。わたしのせいで……あなたたちを危険に巻き込むなんて、そんなことは絶対にあってはならないのです」
「ですが、お嬢様……」
「心配しないで。わたしにはヴィルがいます。彼と一緒なら、何が襲ってきても大丈夫。いままでどんなことがあっても、ふたりで乗り切ってきましたから」
指先でそっと、リディアの袖を取る。
誰かを守る言葉を口にするとき、部屋の冷えもまた、ほんの少しだけ後ずさる。
「……承知いたしました。ですが、どうか御身を大切になさってください。先王陛下も、そしてヴィル様も……皆がお嬢様を大切に思っております。お嬢様は、あのメイレア様の御息女であらせられるのですから……」
その一言は、静かに部屋へ広がった。
緋のカーテンの向こうは夜のままでも、ここに座る彼女の声だけが、確かな温度を連れてくる。
母の名。
リディアの声に乗ったその響きが、指先にじんわりと沁みた。
わたしは袖を握る手に、そっと力を込める。
◇◇◇
静かな足音とともに、侍医司の白衣を纏った侍医が姿を現した。
灰色がかった銀の髪をゆるりとまとめ、思案の光を湛えたまなざしが、室内をそっと測る。
小さく会釈して入ってくると、リディアがすぐ椅子を引き寄せた。
「失礼いたします。まずは御御足の具合を拝見いたしましょう」
柔らかな声とともに、小ぶりの箱の留め金がかちりと鳴る。
薬瓶の硝子が灯りをはね返し、包帯の布が清潔な匂いを立てた。
ひやりとした薬液が足首に触れた瞬間、沈んでいた痛みが水面へ浮かぶ泡のように立ち上がる。顔をしかめそうになるのを堪えると、リディアの覗き込む目が、思いのほか支えになった。
「急なお呼び立てになってしまって……侍医さまにも、お手数をおかけします」
「いえ、これも私ども侍医司の務めにございます。お嬢様が一日も早くお楽になられることこそ、何よりの喜びに存じます」
穏やかな声の奥に、隠しきれない気遣いの影があった。
先王陛下の病状が芳しくない折に、わたしまで手間をかけている。その事実が、侍医の丁寧な所作のあいだを、うっすらと冷たい糸のように走っていた。
包帯が足首にやわらかい輪を重ねていくあいだ、リディアは沈黙のまま見守っていた。
仕上げの結び目が小さく締まる。
「これで一通りの手当は終わりました。骨に異常はございませんが、どうか足首の捻挫を軽く見られませぬよう、しばらくは安静になさってくださいませ。熱や痛みが増すようでしたら、すぐにお呼びください」
会釈一つで侍医は退き、戸口の影が静かに閉じる。
リディアが椅子を寄せると、張りつめていた空気が少しほどけた。
「ミツルお嬢様……どうかご無理だけはなさらないでくださいませ」
眉をわずかに寄せる声に、わたしは小さく笑みを返すしかない。
「リディアさん……お祖父さまは、いまいかがお過ごしでしょう?」
ぽろりと落ちた問いに、彼女は申し訳なさそうに睫毛を伏せる。
「……今朝早く、お戻りになりましたが、急にご気分を悪くされまして……」
「なんですって……」
「……首席侍医殿が陛下のお部屋へお見えになりました。詳しいことは私も存じませんが、最近は……いろいろとご疲労が重なっていらっしゃるようです。侍女たちもたいそう心配しておりました」
「そう……」
掌にこもる微かな熱を確かめる。
お祖父さまの命は、いまも小さく揺れている。寄り添うべきだった穏やかな時間を、わたしの至らなさが余計にかき乱してしまった。その思いが、腹の内で鈍く重なる。
沈黙の淵から、リディアの声がそっと手を伸ばした。
「きっと陛下も、お嬢様とお話しになりたいとお思いですわ。明朝にでも、お顔をお見せに行かれてはいかがでしょう? 私もご一緒いたしますので」
逃げない。
後悔を増やすより、言葉を渡しに行く。
「ありがとうございます、リディアさん。ほんとうに心強いです」
震えそうな声に、彼女は「はい」と静かに頷いた。
ランプの火が横顔を一度だけなぞる。その短い揺らぎに、喉の奥がひとつ強く詰まった。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。今夜はどうか、ごゆっくりお休みになってくださいませ」
扉がぱたん、と軽く鳴り、去りゆく温もりがゆるやかに遠ざかる。
残された静けさは、まだ少し喉元を締めた。けれど、さっきほど冷たくはない。
ベッドの縁に腰を下ろし、天蓋の布の向こうに沈む天井を仰ぐ。疲労が潮のように押し寄せ、瞼にぬるい熱が集まった。
《《ほら美鶴、いまは悩んでても答えは出ないよ。まずは朝までぐっすり休んで、頭をすっきりさせて。そこからまた始めよう?》》
茉凛の声が、思考の縁へやわらかく触れた。
固く結ばれていた心の節が、少しずつ解けていく。
「ええ……お祖父さまには隠しごとはしない。わたしが考えていること、これからやりたいことを全部、ちゃんと伝えたい」
《《うん、それがいい。グレイさんもきっと、それを待ってると思うよ。素直がいちばん》》
「そうね。わたしも、茉凛みたいに素直にならなくちゃ」
灯りを少し落とすと、部屋の輪郭がやわらかく遠のいた。
わずかに疼く足首と、まだ頼りない決心を抱えたまま、わたしはそっと瞳を閉じる。
夜の静寂が布のように降り、意識はその下へ、ゆっくり沈んでいった。
◇◇◇
翌朝、木製の車椅子に腰を下ろし、リディアに導かれてお祖父さまの書斎へ向かう。
歩きたい気持ちはあったが、彼女は首を振った。
「リディアさん……このような情けない姿をお見せしては、かえってお祖父さまにご心配をおかけしてしまいます……」
漏れた弱音に、背後から子をあやすみたいな声が落ちる。
「いいえ、お嬢様のお怪我の件は、すでに侍医が陛下へ直接ご報告申し上げておりますので、どうぞご安心くださいませ。むしろ、これは陛下ご自身からのご指示でございます」
「そ、そうだったんですか……」
腹の底に、ふわりと温度が灯る。
案じてくれている。その事実が、悔いの棘をやわらげた。
早朝の回廊は石の冷気を抱き、窓からの冬陽が細かな塵を浮かべている。車輪が石床をこつこつと転がるたび、小さな反響が往き、リディアの足音と重なって消えた。
背に伝わる彼女の穏やかな呼吸に耳を澄ませ、覚悟の熱をゆっくり均す。
《《大丈夫、焦らなくていいよ。伝えたいことを一つひとつ言葉にすれば、きっと届くから》》
膝に置いたマウザーグレイルの鞘を、指先で撫でる。
自分の足で立てない悔しさは残っている。それでも、お祖父さまが気遣ってくださる手が、確かな安心を連れてきた。
突き当たりに、金の意匠を施された重い扉が見える。
両脇の衛士が静かに迎え、一人が恭しく頭を垂れ、もう一人が扉を押した。木が小さく軋み、室内の空気がふわりと溢れる。薬草の香り。遠い暖炉の、ぱちぱちという音。
「ミツルお嬢様、ご準備はよろしいでしょうか」
脇へ回ったリディアの問いに、わたしは深呼吸をひとつして頷く。
「はい……大丈夫です。行きましょう」
車椅子が敷居を越え、書斎の空気が頬に触れる。
未だ見えないお祖父さまの面差しを思い描きながら、車輪の振動がいつもより重く感じられた。
「お祖父さま……失礼いたします」
灯の揺らぎを背に、お祖父さまが顔を上げる。
穏やかさと哀しみの影が同居したまなざしが、こちらの言葉を待っている気がした。
逃げない、と心に言い聞かせ、背筋をすっと伸ばす。
「お祖父さま……このたびはご心配をおかけしました。お身体を気遣うべきわたしが怪我などいたしまして、面目次第もございません。本来なら拝謁もはばかられますが、どうしても今お伝えしたいことがございます。これからわたしが成すべきこと、そしてわたしの望みを――どうかお聞き届けください」
茉凛の気配が、そっと灯る。
いまからが真っ向勝負だった。お祖父さまの優しさと緊張の影をまっすぐ受け止め、わたしはさらに言葉を重ねていった。




