手の届く場所に
スレイドの背がゆるく上下するたび、鞍の革がじんわりと温もりを返した。
ヴィルは馬の脇に付き、手綱を短く取ったまま無言で歩いている。靴底が石畳を打つ音と、鐙の金具が触れ合う細い音が、冬の空気のなかで規則正しく重なっていた。
《《美鶴……? 今、いいかな?》》
茉凜の声が、そっと差し込んでくる。
わたしは前を行くヴィルの背へ視線を落とし、唇をほとんど動かさないまま、吐息に紛れるほどの声で返した。
「ええ、たぶん。これくらいなら、あなたにも伝わるでしょう?」
《《うん。まさかさ、こんな出会いが待っているなんてね》》
「まったくよ……」
《《ラウールが王子さまだなんて、それだけでも驚きなのに、古代のバルファ文明まで知っているなんて、どう考えてもただ者じゃないって》》
「そうね。彼の持つ知識は、例のバルファ正教にとって危険視されるに値する。狙われている理由ははっきりしているし、とても敵とは思えないわ。そして、あの話から見えてくる核心……唯一神バルファの復活って……」
舌で上顎に触れる。
乾いた熱がすぐに引き、指先だけが冷えた。紙の上で何度も撫でてきた仮説のはずなのに、いまは文字ではなく、冷えた息と同じ温度でこちらへ迫ってくる。
《《ねえ、美鶴。唯一神とかいう存在について、もう何か手掛かりを掴んでるんじゃない?》》
「わたしの推測だけど……クロセスバーナの狙いとは、古代文明の再興だけじゃない。それを制御するのに必要な、システム・バルファの再生だと思う」
魔術大学で手繰ってきた断片や、お祖父さまから聞いた古い話が、頭の奥でばらばらに明滅する。
けれど、いま必要なのは細部ではなかった。ラウールの言葉によって、散っていたものがひとつの像へ寄りはじめた。その輪郭だけが、冷たい線になって見えている。
「でも、それはあくまで器にすぎない。本当に恐ろしいのは、その本体ともいえる中核意識集合体ラオロ・バルガス。その復活、もしくは召喚だったりしてね……」
そう言った途端、スレイドの歩みが半歩だけ緩んだ。
鞍の縁の冷たさが、指先へ澄んで届く。ヴィルがこちらを見たわけではない。それでも、馬の歩みがわずかに変わったことに、彼も気づいたのだろう。
少なくとも、もう切り離せない事実はいくつかあった。
マウザーグレイルがシステム・バルファの深部へ通じていること。
そして、魂と呼べる全情報が異なる世界を渡り、別の器に宿ったわたし自身の来歴。
そこまでは、妄想では片づけられない。
そこで思い出す。
ロスコーの記憶の中で、デルワーズが告げた言葉を。
『マウザーグレイルには、システム・バルファの最深部――コアユニットに直接アクセスするための『パスコード』が埋め込まれていた、とレナードさんは言っていました。それも、『門徒』系列の中でも、このわたしだけが扱える特異な形で……ですから――』
あの紋様が、ただの悪夢の名残ではないのだとしたら。
皮膚の下を這う熱のない疼きが、継承印という言葉を拒みきれずにいた。
デルワーズが選んだかもしれない決着。
コアユニットへ自らを接続し、世界の瓦解と戦乱の拡大、そのどちらも致命へ傾かぬよう、機能停止か改変を押し切った可能性。
そこへ至るまでに、どれほどの逡巡があっただろう。
指が無意識にローブの裾を探った。鞍の上で身じろぎすると、革が小さく鳴る。その音が、考えすぎた頭をほんの少しだけ今へ戻した。
「茉凜には、わかるよね。デルワーズが何を考えて、何をしようとしたかってこと」
《《うん……。たぶん、彼女はシステムを乗っ取って……世界の仕組みそのものを塗り替えようとしたんじゃないかな? だから肉体を捨てるしかなかったんだと思う……》》
茉凜の声に、微かな震えが混じった。
いつもの軽さを残そうとしている。けれど、語尾の奥だけが小さく冷えていた。難しい言葉を選んでいるのではない。怖いものに、怖いと言わず名前をつけようとしているのだとわかった。
わたしも息を細く吐き、足裏で鞍の芯を確かめた。考えを言葉にしているはずなのに、口にするたび、それがもっと深い場所の痛みに触れていく。
「……あの記憶は途中で切れていて、想像するしかないけれど、きっと彼女はすごく悩んだんだと思うよ……」
鞍革の匂いが、冬の空気にうすく混じっていた。
前を行くヴィルの足音は変わらない。その規則正しさだけが、いまのわたしを細い糸で現実へつないでいる。
「だってそうじゃない。彼女は『絶対に死なない』って、『必ず帰る』って、そう言ってたんだから。でも、どんなに願っても、世界を存続させるために、未来を切り拓くために、自分の身を捧げる以外の選択肢がなかったんだ……」
頬の裏側が、じんと熱を帯びる。
「あんなにもエリシアを愛していたのに、もう二度と会うことも、抱きしめてあげることすら許されなかったんだ……」
その名を呼ぶだけで、目のふちが熱くなる。
頬を伝うものが、冬の光のなかでひと瞬きだけ滲んだ。袖で拭えば、すぐ下を歩くヴィルに気づかれるかもしれない。そう思って、まばたきだけでどうにか堪えた。
《《それでも、今こうして世界が続いているのは、デルワーズの願いが叶った証なんだよ》》
「うん……」
《《それから、エリシアの血を継いだ人たちがリーディスを建国して、巫女の血脈を代々受け継いできたんだろうね……。だから今、ここにあなたがいる。悲しいことばかりじゃない。彼女は確かに希望を繋いだんだよ》》
「……そう、なんだよね」
笑おうとした口角に、まだ痛みが残っていた。
けれど、小さな灯りまでは消えない。理屈はずっと前から知っていたはずなのに、こうして茉凜の声で戻されると、それは慰めではなく、次の選択を促す明かりにも思えた。
《《美鶴、大丈夫?》》
「平気よ。それより話の続きだけれど……ラオロ・バルガスが、その後いったいどうなったのか。それが問題なの」
《《うーむ……》》
「もし完全に消去されたなら、復活を望む動きなんて起こりようがない。そして、その謎を解く鍵は、時代ごとに姿を変えて現れる厄災――今も頻発している虚無のゆりかごにあるのだと思う。だからこそ、クロセスバーナは虚無のゆりかごを重要視しているのよ」
鞍の前環へ置いた指が、じわりと白くなっている。
気づいて、そっと力をゆるめた。怖さに名前を与えているあいだだけは、まだ息の乱れを隠していられる。
《《やっぱり、虚無のゆりかごの向こう側……そこに何が潜んでるのかな? わたしの想像では、あれはマウザーグレイルと同じ古代の超文明技術を基盤にしていて、『物質ではない構成』を持つんだと思う。だからこそ物理的な制限を受けない。もし虚無のゆりかごが異界への門なのだとしたら、その先でラオロ・バルガスが虎視眈々と機会を狙っている。そんな気がしてならないんだよね……》》
茉凜はすぐには笑わなかった。
言い終えたあとに、短い沈黙が落ちる。その沈黙のせいで、今の言葉が説明ではなく、彼女自身の怖さから出てきたものだとわかった。軽く見せようとしても、彼女は彼女で、同じものを見てしまっている。
そこから先は、推理にすぎなかった。
けれど、そう考えるほうが、今まで見てきたものと噛み合いすぎていた。
魂と呼べる全情報が異なる世界へと渡り、別の器に宿った。その証左として、わたし自身がここにいる。ならば、虚無のゆりかごの向こう側にいるものもまた、肉体ではない別のかたち――情報体に近い何かとして留まりつづけていても、おかしくないのかもしれない。
「今のこの世界は、魔獣由来の魔石に依存した魔術文明が最盛期を迎えている。けれど、その陰でバルファ正教は、魔獣を生み出すとされる虚無のゆりかごをちらつかせながら、システム・バルファの復活を狙って暗躍している。誰もそんな構図に気づいていないなんて、呑気なものよね」
言葉が滑らかに出てくるほど、足裏が鞍から浮いているような気がした。
考えることで恐怖を押さえ込もうとしている。自分でも、それはわかっていた。わかっているのに、考えるのをやめれば、その下から別の声がせり上がってきそうで怖かった。
《《ほんとね……。わたしたちは前世からデルワーズと関わりがあったから、なんとなくわかるけどさ》》
「そりゃそうね。こんな夢物語みたいなこと、誰が信じてくれるのかしら、って話よ」
乾いた笑いにしようとして、声の端だけがかすかに掠れた。
頬をなでた風が冷たく、肩の奥が薄く強張る。ヴィルの足音がまたひとつ、石畳を打った。その音を聞いて、わたしはようやく息を吸い直した。
「それから、あの紋様は、単純にラオロ・バルガスを崇拝したり賛美したりするためのものじゃないと思う」
《《どうして?》》
「あの声よ。あれは、まるでわたしに対する恨み節としか思えない」
《《身に覚えのない、言いがかりみたいなやつ?》》
「まったくよ。あれはデルワーズがシステムに介入した結果、鍵であると同時に、怨念が込められた烙印としての意味合いを持つようになったんじゃないかしら?」
《《うーん……》》
「でなければ、わたしにあの紋様と同じ痣が浮かび上がるはずがないし、何度も悪夢に襲われる理由だって見当たらない。つまり、烙印はデルワーズの子孫のうち、もっとも近しい資質を持つ者――いわば写し身としての力を帯びたわたしを追い詰めるための目印なんじゃない?」
《《それ、考えすぎ……とは言い切れないよね。わたしたち、夢には何度も意味を突きつけられてきたし……》》
「もしそれが真実なら、あの幻視こそラオロ・バルガスの怨念なのかもしれない。虚無のゆりかごの向こう――つまり、こことは異なる世界から突きつけられる挑戦状だと考えると、何もかもが繋がっていく気がして……正直怖ろしいわ」
時代を越えて寄せては返した異界の波。
それに向き合ってきたのは、いつも巫女と最優の騎士だった。二本の聖剣は貸し与えられ、伝承を縫うように受け継がれてきた。
今も世界の裏側で、その争いは息をひそめたまま続いているのかもしれない。
そこまで辿ったところで、鞍の揺れが急に遠くなった。
理屈のかたちを借りきれないものが、胸の奥からゆっくり浮かび上がってくる。考察では済まない問いが、ようやく自分自身の声になってこぼれた。
「だとしたら、この終わりのない戦いの連鎖を止める方法は、結局デルワーズが辿った運命を……わたしが繰り返すしかないってことなのかな?」
つぶやいた瞬間、冬の空気が肌理を逆なでするように揺れた。
茉凜の声が、鋭く、しかし優しく飛び込んでくる。
《《こら、美鶴。へんなこと考えちゃだめだってば!》》
唇を噛む。
けれど、言葉は止められなかった。止めてしまえば、今度こそ本心ごと呑み込んでしまいそうだった。
「……前世のわたしは、深淵の血族の上帳に両親を奪われた。弓鶴を呪いから救いたくて……愚かにも解呪に挑んで命を落とした。でもね、その時のわたしはなんとも思わなかったの」
《《美鶴……》》
「目的のためなら、死ぬことすら恐くないって。弟を救えるなら、両親の願いを叶えられるなら、どうなったって構わないって。それが正しいんだって、本気で思ってたのよ……」
指の震えが鞍革へ移り、白い息がほどけていく。
すぐ下では、ヴィルの足音が変わらず一定の速さで続いていた。その規則正しさがかえって、いまの自分の揺れを際立たせる。
《《もうやめて。これ以上、馬鹿なこと言わないで!》》
怒りよりも必死さのほうが強い声だった。
わたしは首を小さく振る。
「何度も絶望を味わった。理不尽な運命を乗り越えてきた。そんな柚羽美鶴としてなら、世界を救って、精霊子の海へ還ることも……受け容れられるかもしれないなって。でもね――」
言葉が喉の奥でほどけ、肩が細かく震える。
いちばん深いところで、幼い自分が泣いていた。
「――どうしても、駄目みたい」
袖でそっと涙を拭う。
湿り気が肌へひやりと貼りつく。すぐ下を歩くヴィルに気づかれたくない一心で、呼吸だけを静かに整えた。
「どんなに理屈で抑えようとしたって、
十二歳の小さなミツルが、怖いって叫ぶの。『生きたい』って、どうしようもなく思ってしまうのよ……」
吐いた息が、冬の空気の中で白くほどける。
掌に汗が滲み、喉に乾いた痛みが走った。言ってしまった途端、みっともなさより先に、やっと触れられたような痛みが奥底で震えた。
《《それって、どっちも同じことじゃないの?》》
鼓動がひとつ高く鳴る。
わたしは小さくうなずいた。
「あなたにわかるわけない……」
《《わかるよ。わたしは誰よりも近くで、ずっとあなたを見てきたんだから。弓鶴くんだった頃も、強がって『俺は平気だ』なんて言って、本当は怯えてたよね》》
「嫌なこと言うわね……。たしかに、否定はできないけど。でも、今のわたしを主導しているのは大人であるわたしなんだから、そんなことくらいで……」
軽口にしようとして、声は重く沈んだ。
喉に砂粒が残ったみたいに引っかかる。強がりのかたちだけは前と変わらないのに、中身はもう、そのまま押し通せるほど固くなかった。
《《わたしはそうは思わないな。大人のあなたと、小さなミツル。そのふたつが少しずつ自然に溶け合って、ひとつになろうとしている感じがするの》》
革が鳴る。
遠くで小鳥が二度ほど鳴き、風向きがわずかに変わった。世界は何も知らない顔で、同じ速度のまま流れていく。
「いずれそうなるだろう、って思ってはいるけどさ……」
視線を落とす。
鞍の前環の革が素肌に粗い。過去を引きずる重さと、諦めきれない熱が、腹の内で擦れ合っていた。
《《なら、無理しなくたっていい。感じたことに素直でいれば、それで十分。……それに、ずっと前に誓ったんじゃなかった?》》
「……わたしはわたしを、不幸せにしない」
その言葉が、舌の裏で小さく灯る。
風は冷たいのに、掌だけがじんわり温かかった。
茉凜はすぐには続けなかった。
ひと呼吸ぶんの間が、スレイドの揺れに重なる。その短い沈黙のあとで、彼女の声は少しだけ近くなった。
《《だったら、その誓いをどこまでだって貫こうよ。小さなミツルの願いにも、ゆっくりと寄り添ってあげればいい。あとね、ラウールも言ってたじゃない。あなたひとりで背負わなくていいって。だからさ、もっと近くの大切なものを守ろうよ。グレイさんを、おじいちゃんを救けたいんでしょ? いまできることをしよう。そのほうがずっと美鶴らしいと思う》》
「うん……」
ひとつ息を吐く。
絡まっていた糸が、ゆっくりほどけていく。遠くへ逃がすためではなく、自分の手のひらへ収め直すみたいに、少しずつ。
ラウールの言葉は、まだ耳の奥に残っていた。
ひとりで背負わなくていい。
その意味が、スレイドの揺れに少し遅れて、ようやく息の底へ落ちていく。
あの中枢意識がいまどう息づいているのか、わたしにはまだ見えない。
けれど、いまは遠すぎるものに呑まれなくていいのかもしれない。
救けたい人がいる。
守りたいものが、ちゃんとこの手の届く場所にある。
スレイドの背の揺れと、前を行くヴィルの背を見失わずにいるあいだは、立ち止まらずにいられる気がした。




