紙の戦場
先王の正式な通達が侍医司へ届いてから、一週間後――。
侍医司の礼装に身を包んだ首席侍医ほか数名の侍医官が、離宮の渡り廊下を静かに横切っていく。
糊の香りを含んだ白布の擦れ。分厚い書簡の角が木手摺を打つ乾いた音。朝のひやりとした空気のなか、靴底が石を撫でる低い摩擦音が続き、肩口に重たい気配が淡くまとわりついていた。
わたしは窓辺へ寄せた椅子から、その列を目で追った。掌の中でマウザーグレイルの鞘が、かすかに震える。刃金の冷たさが指腹に移り、呼吸がひとつ深く沈む。
「おいでなすったわね」
ひやりとした鞘の感触とは別に、茉凛の声が頭の内側へ小さく弾けた。
《《だね。ここがわたしたちの正念場だ。気合を入れていこう》》
「ええ。頼むわよ、茉凛。あなたとマウザーグレイルの力が頼りなんだから」
《《もちろんだよ。ちゃんと見るし、ちゃんと支える。だから美鶴は前を向いて》》
鞘を撫でて、ひと呼吸。
窓辺から身を引き、机の前へ戻した椅子に腰を落ち着けると、壁に背を預けていたヴィルが音もなく近づいてくる。刈り上げた金髪、清潔に剃られた顎。革の匂いと金具の微かなきしみが、騎士の輪郭を確かにした。
「いよいよ、お前の待ち望んだ戦だな」
「うん……」
「俺には何もしてやれんが、その戦いぶり、しかと見届けよう。お前とマリンなら、きっとできるはずだ」
その一言が、背筋の強張りをやさしく支える。
――それにしても、戦だ剣だって、そんな喩えしかないのかしら? ま、そこがヴィルなんだけど。
わたしは彼の鎧の縁へ視線を落とし、小さくうなずく。弦を合わせる前の静けさが、空気の温度を半度だけ上げた。
彼は目だけで先を促し、わたしも黙って見返した。
言葉にした途端に脆くなるものを、沈黙のまま机の端へそっと置く。
――あなたは、わたしの、わたしだけの騎士なんだよね。
胸の奥に浮かんだ言葉の甘さに、自分で少し怯える。
所有したいわけではない。そんなふうに呼んでいい場所にも、まだ立っていない。ただ、託すという形でしか触れられないものが、そこにある。
伝説に記された形とは違う。
けれど、マウザーグレイルと対をなすもう一本の聖剣を託せるのは、あなただけ。わたしが……望んだ。
――だから、だいじょうぶ。わたしを……見ていて。
やがて、扉の前で軽いノック。
「ミツルお嬢様、侍医司の方々がいらっしゃいました」
リディアの声にうなずく。
蝶番が低く軋み、侍医官たちの白い裾が静かに揺れた。空気が一段引き締まり、香炉の残り香が薄れ、墨と紙の匂いが前へ出る。
「ミツル様、本日はお時間を頂戴し恐れ入ります。侍医司の首席侍医を務めております、アルベルト・カベスタニーと申します」
長身の男が、冷ややかな笑みを唇に載せたまま深く頭を垂れる。言葉は礼を尽くしながら、視線は厄介者を測る硬さを隠さない。
「ご案内いたします、こちらへ」
リディアが一歩引き、わたしと侍医官たちのあいだに淀みのない通路をつくる。
わたしは肘掛けにそっと手を添えて立ち上がり、微笑を返した。足へわずかに重みが戻る。痛い、というほどではない。ただ、今日の身体がどこまで保つのかを、皮膚の奥で量られているようだった。
「本日はご多忙のところ、よくお越しくださいました。首席侍医殿」
媚びず、怯まず。
この部屋を選んだのは、お祖父さまの威を借りないため。彼が同席すれば、面子で鎧われた言葉しか出てこない。ここで退くわけには、いかない。
「かねてからのご依頼の通り、先王陛下の病状に関する、これまでの治療記録を持参いたしました。お手数をお掛けしますが、どうかお目通しください」
丁寧な物腰の底に、距離を置く圧がある。
喉元まで出かかった皮肉を飲み込み、わたしは抑えた笑みでうなずいた。
「ありがとうございます。それでは順に拝見いたします。……リディア、お茶を。侍医殿方にもお出しして」
「はい、かしこまりました」
挨拶を返してから、わたしは机の前の椅子へそっと腰を戻した。
分厚いカルテが次々と机へ積まれ、紙の重みが木天板に鈍い音を落とす。墨の匂い、獣膠の湿り、古い紙の粉。束ね紐の角が指先へ食い込み、乾いた木目の感触が意識をいまここへ引き戻した。
――予想した通り。量で臆させるつもりね。
怒りより先に、苦い可笑しみが喉を掠める。
若輩を試すなら、こうして紙の山を積むのがいちばん早い。お祖父さまから話が通っていようと、それで素直に道が開くほど甘くはない。
ただし、量だけではない。
紙束の端に挟まれた古い標識紙。あえて揃えられていない筆跡の年代。細い欠落を隠すように、別の記録だけが厚く重ねられている箇所。これは、読む力だけではなく、どこに疑いを置くかまで見るための山だ。
「すべて、こちらで拝見しても?」
アルベルトが軽く顎を引く。
背後の若い侍医たちの視線が、針の先ほど細く張りつめた。
「もちろんでございます」
わたしはためらわず一冊を開き、視線を走らせた。
剣の冷たさへ意識を預ける。
視界の奥で、声ではない処理列がひらいた。
――視覚情報――共有、高速画像認識――開始、深部記憶領域展開――接続、検索、照合、解析、推論……。
それは茉凛の声というより、マウザーグレイルの深部で眠っていた層が、ひとつずつ目を開ける感触に近かった。冷たい水が硝子管を満たしていくように、紙面の線がほどけ、意味へ変わっていく。
王族のカルテは、ふつうの医家文書とは勝手が違う。
用語はすり替えられ、略号は幾重にも重ねられ、ところどころの崩し字まで、わざと読み筋を外すように置かれている。侍医司の者たちが、こちらの手もとを黙って見つめているのは、その厄介さを骨身に知っているからだろう。
その絡まった糸を、茉凛の補助がするすると解いていく。
《《いまのわたしなら、あっという間に百年分くらいの計算だってできる。すごいでしょ?》》
得意げな声に、苦笑をひとつ飲み込む。
あの頃は勉強の話になるとすぐ頬をふくらませていた彼女が、いまは探究そのものみたいにまぶしく見えた。その光の縁へ、ふいに影が寄る。
――なんだか、わたしの知らない茉凛に、なってしまいそうで……。
それでも、ためらっている暇はない。
わたしは紙面へ視線を戻し、ほどけていく意味の先を追った。
前世で拾い集めた医学の断片。この世界で積み重ねてきた膨大な学び。茉凛とマウザーグレイルの演算補助。そのすべてを束ね、絡み合った記述をひとつずつ繙いていく。
視界の奥には、解読、照合、推論の結果が、透明な薄膜のように幾重にも重なっていた。
二冊目を閉じ、三冊目を開く。
速度は落ちない。
けれど、目の奥に細い熱が差しはじめていた。こめかみの内側が、脈に合わせてわずかに鳴る。指先の感覚が半拍だけ遅れ、束ね紐のざらつきが遠くなる。
大丈夫。まだ保てる。
そう言い聞かせて、わたしは次の頁へ指をかけた。
アルベルトの指先が、卓上のカルテの角へそっと触れた。
取り上げるためではない。わたしがどこまで読めているのか、頁の進みだけで測っている。そのわずかな動きに、首席侍医の観察眼が透けて見えた。
治療経過の合間に、ぽっかりと空いた空白がある。
曖昧な言い回しばかりを連ねた頁。紙のささくれが指に引っかかり、乾いた繊維の感触だけが妙に鮮明だった。
――意図の匂い。試すために落とされた欠落まで、混じっている。
《《美鶴、見て。この部分、肝の大きな核なんて記されてる。硬くて表面がぼこぼこしてるって書いてあるよね。普通の病変ならこんな表現はしないよ》》
「……確かに。この大きな核――異形の結び目と表現されている箇所が肝要ね」
別の記録へ目を移す。
精気の流れが滞り、血脈を介して胸の奥へまで異変が及んでいる。濃くなった筆圧が紙裏へにじみ、書き手のためらいまでそこへ残していた。
《《それって胸の部分――つまり肺に流れる生命の力が阻害されてるってことだよね? これ、単なる局所の問題じゃないかも》》
「ええ。おそらく結び目が血脈を通じて、肺へも悪影響を及ぼしているわ」
喉が少し乾いていた。
病を読むことと、治せることは違う。その線を、いまは踏み越えてはいけない。紙に残された病の影を、病の形へ戻すだけ。まずは、それだけだ。
《《それから、ここ。生命をつかさどる力が、周囲を侵して広がりつつあるって……これ、もしかして浸潤して、さらには転移してるってこと?》》
「その可能性が高いわね」
最後のカルテを閉じた。
ちょうどそのとき、リディアが湯気の立つ茶器をそっと置いた。陶器越しの熱が卓へじんわり移り、張りつめていた空気に小さな逃げ道ができる。
わたしは一度だけ、茶器の縁へ目を落とした。
湯気が揺れる。墨と紙の匂いの中で、その白い揺らぎだけが生き物の息のように見えた。
「カルテはすべて……拝見いたしました。病の輪郭は見えております」
治せる、と言ったわけではない。
まだ、見えたものを言葉にする段階だ。それでも、この部屋にいる誰もが、その一線の意味を知っている。
アルベルトの喉仏が、ひとつだけ動いた。
若い侍医のひとりが隣の同僚と視線を交わす。首席侍医は微動もせず、ただ瞳の奥の光だけが、先ほどとは質を変えていた。
間が落ちる。
それからアルベルトが、低く、しかし明瞭に言った。
「お見事です、ミツル様。あなたのお力については、先王陛下からかねて伺っておりました」
言葉には称賛と警戒が、同じ重さで載っている。
「侍医司の記録は国家機密に準じ、独自の規則で記されております。医家の者でも、慣れぬうちは一頁に半刻を費やすもの。それを、この短時間で読み解くとは」
言い切ったあと、彼は茶器に手を伸ばさなかった。
伸ばせば、指先の揺れまで露わになる――それを避けたようにも見えた。けれど、驚きだけではない。首席侍医の眼差しはまだこちらに座ったまま、次の問いを握っている。
認めたのではない。
認めざるを得ない位置へ、ひとつ椅子をずらしただけだ。
「お褒めに預かり、光栄に存じます」
わたしはカルテを丁寧に揃え、姿勢を正した。
肺の底に溜めた空気を、ひとつ吐く。目の奥の熱はまだ残っている。けれど、指先はもう震えていなかった。
「では、先王陛下の病状について、わたしなりの見解をお伝えします」




