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緋朧天石(ひろうてんせき)と亡国の王子

 ラウールの指先で揺れる金色のペンダントには、細かな紋様が幾重にも刻まれていた。


 朝の光がその溝へ落ちるたび、金の縁が硬く瞬く。装身具というには重く、勲章というにはひどく私的なものに見えた。場に並ぶ兵士たちの視線まで、その小さな円へ吸い寄せられていく。


「こ、これは……」


 不吉な予感と興味が綯い交ぜになり、みぞおちがきゅっと縮んだ。


 誰もすぐには言葉を継げなかった。鎧の継ぎ目がこすれる音だけが、門前の空気に薄く残る。


 ローベルトすら、その輝きを警戒するように眉をひそめている。ヴィルはラウールの肩を掴んだまま、指に込めた力だけをわずかに強めた。


 ラウールは、ペンダントを胸の高さへ保ったまま、静かに言葉を継いだ。


「これは僕の身分を証明する、いや、ただ一つの寄る辺でもある。すべてを語るにはまだ早いのかもしれない。けれど――これ以上、ミツルに隠したままにはできないからね」


 低く落ち着いた声だった。


 けれど、落ち着いているからこそ、かえって喉の奥が狭くなる。唇がかすかに震えた。これから見せられるものが、もうわたしの知っている範囲では収まらないのだと、身体のほうが先に知っているみたいだった。


 ラウールが、ペンダントの小さな蓋を開く。


 かちり、と金具の噛み合う音がした。


 内側に嵌め込まれていた石が、朝の光を受けて浮かび上がる。


 見たこともない石だった。


 赤紫の濃淡。薄墨に似た深灰色。静かな水面を思わせる天色。三つの色が、互いを侵し合うでも濁るでもなく、一つの石の内側で均衡している。生きものの息遣いのように、色の境目がごく薄く揺れていた。


「……それが何だっていうんだ?」


 ヴィルは訝しげに顔を寄せ、問い詰めるような視線をラウールへ向ける。だがラウールは彼を見ようともせず、わたしをまっすぐ見据えて口を開いた。


「これは緋朧天石(ひろうてんせき)といってね。火、風、水――三つの属性を同時に宿す特別な魔石だ」


 その言葉を耳にした途端、視界がふわりと霞んだ。


 二属性ですら希少とされるこの世界で、三つの属性を一つの石に抱え込むなど、聞いたことがない。普通の魔石とは、理屈からして違っていた。


「これは僕の身分を証明できる、ただ一つの品でもある。そして、僕に残されたものは、もうこれしかない……」


 金の縁が、ラウールの指先でかすかに揺れた。


 その揺れだけが門前の張りつめた空気の中で妙にはっきり見えて、わたしは息を詰めた。


「僕の名は、ラウール・パブロ・デ・バルベルデ――かつてソミンと呼ばれた国の王子だった男さ」


 静かな声でそう告げられた瞬間、場の空気がひと息ぶん止まった。


 ローベルトは言葉を失い、ヴィルの頬にはわずかな痙攣が走っている。背後の兵士たちも動かなかった。誰かの喉が小さく鳴った音だけが、やけに近く聞こえた。


 ――ソミン王家ですって……。


 軍事クーデターで滅ぼされたとされる、共和制下の象徴王家。


 その唯一の生き残りが、なぜ今ここにいるのか。


 指先がひやりと冷えた。足裏に触れる石畳の硬さだけが、妙にはっきりする。喉の奥が浅くすぼまり、息を吸うたび、肺の入り口で空気が細く擦れた。


 驚きと戸惑いがばらばらにせり上がり、思考の継ぎ目がうまく噛み合わない。


 それでもラウールは、緋朧天石を静かに蓋で覆った。


 金具の閉じる小さな音が、門前の空気へ落ちる。その丁寧さだけが、かえって彼の手元を遠いものに見せた。


「……これが真実なんだ。ごめんね、ミツル。隠していて」


 その眼差しからは、嘘の綻びひとつ拾えなかった。


 けれど、嘘が見えないことと、すべてを信じられることは違う。そう思った瞬間、喉の奥が少し冷えた。


 だとしても、ローベルトもヴィルも、そう簡単に納得するはずがない。


 それなのに、わたしはラウールを責めきれなかった。危険を顧みず、わたしを救ってくれたのは事実だ。いまこうして、自分の側の危うさごと差し出そうとしていることもまた、否定しきれなかった。


 それが宿命によるものなのか、それとも別の意図を含んでいるのかはわからない。


 わからないまま拒みきれないことだけが、喉の奥へ細い棘みたいに残った。


「……あのソミン王家の唯一の生き残り、か。ふん……」


 ヴィルは低く唸るように吐き捨てると、わたしから目を背けた。


 けれど、足は動かない。剣へ触れた指も、柄を握り込むところまではいかなかった。ラウールを見る目だけが、背中越しに鋭く残っている。


 ローベルトの横顔にも強い動揺が刻まれていた。けれどそれはすぐ、将軍の顔へ押し戻されていく。周囲には、ぴりりと張りつめた空気が漂っていた。


 少しでも均衡が崩れれば、取り返しのつかないほど壊れてしまいそうだった。


 足裏へ、石畳の冷えがじわりと上がってくる。


 そのとき、ラウールは首から下げていたペンダントを慎重にシャツの奥へしまい込んだ。


 金の円が布の奥へ消える。消えたあとも、あの三つの色だけが、目の裏にうっすら残っていた。


「正体を隠していたことは事実だ。だが、あの場で素性を明かせば、君が警戒するのは目に見えていた。少なくとも、君を助けたいと思ったことだけは嘘じゃない」


 その声は穏やかなのに、どこか逃げ場を塞がれるような響きがあった。


 彼の真意は、どこまでも深くて見通せない。なのに、その言葉をすぐには退けられないことが、喉の奥へ細い棘みたいに残った。


「さて、ここからが本題だ。僕がこの王都に来たのは、リーディス王国に情報を渡すためだ。クロセスバーナと特別な因縁を持つこの国にとって、無視できる話ではないはずだよ」


 ラウールは、一歩も動かなかった。


 声も荒げない。ただ、置くべきものを石畳の上へひとつずつ置いていくように話している。その動かなさに、ローベルトの目がさらに細くなる。


 ローベルトは無意識のうちに、外套の端を握りしめていた。ヴィルもまた、飛びかかるのを堪えるかのように肩を強張らせている。


 そして、わたしは――。


 ソミン。軍事クーデター。クロセスバーナ。バルファ正教。


 重大すぎる言葉ばかりが頭の中で回り、奥のほうがじんじんと痛んだ。さっきまでは普通に息をしていたはずなのに、急に呼吸が浅くなって、肺の底まで届かない。


 ――こんなとき、せめて心を落ち着ける術があれば。


 そう小さく呟くように思いながら、どうにか言葉を紡ぐ。


「ラウール……あなたの持つ情報は、国家レベルの極秘事項に相当するのではありませんか? であれば、ここだけで判断できる話ではありません。然るべき方々と協議を重ねる必要があるのではないでしょうか」


 自分でもわかるほど声が弱々しく震えていた。


 ラウールは気づかうように目もとの力をゆるめた。けれど、差し出される言葉の重さは、少しも軽くならない。


「クロセスバーナがこのリーディス王国に対して何を企んでいるのか。そのおおよその輪郭。彼らが外部の目をどうやって誤魔化し、国内へどう入り込んでいるのか――そして、もう一つ」


 一瞬の間を置いて、ラウールはわたしをまっすぐ見つめて続けた。口もとにはかすかな笑みが浮かんでいたが、その奥で、鋭い光がたしかにきらめいている。


「ミツル。君が狙われる理由について、僕なりに推測している。それが公になれば、クロセスバーナも黙ってはいられないだろうね」


 息を詰めた。


 底の知れない暗がりを覗き込むような不安と、自分の真実を暴かれてしまうかもしれない恐怖。そして、わたし以上にわたしのことを知っているかもしれないという事実が、背筋をうすく冷やしていく。


 そんなわたしたちの様子を見かねるように、ローベルトが低くひそめた声で言った。


「貴様……何を企んでいる? 目的は何だ?」


 険しく刻まれた眉間の皺が、ローベルトの警戒心をそのまま物語っていた。


 リーディス軍を担う彼にとって、そう容易く外部へ漏らせるような情報ではないのだろう。周囲の兵士たちも、手元を動かさないまま耳だけをこちらへ向けている。


 ラウールはかすかに息をついた。


 その吐息は、哀しみというより、長く抱えてきたものを一度だけ置き直すための間に見えた。


「僕の望みはただひとつ、クロセスバーナの野望を阻むことです。それ以外にない。――ソミン共和国、僕の故郷は、バルファ正教を後ろ盾にした軍事クーデターによって滅ぼされました。クロセスバーナは遅かれ早かれ、西方大陸の覇権を握るでしょう。中央大陸も、決して例外ではない。そして最終的には……ここ、リーディスにも手を伸ばすはずだ」


 ラウールは、一語一語をはっきり置いた。


 声は低い。震えてはいない。けれど、言葉が落ちるたび、門前に並ぶ兵士たちの鎧の音が、かえって近くなる。ソミンという名が、もう遠い国のものではなくなっていく。


 ヴィルが小さく息を呑んだのがわかった。


 わたしの背筋にも、冷たいものが走る。


「だからこそ、こそこそせずにここへ来たんだ。そうするのが、いちばん確実だと思った」


「……そういうこと、だったのですか」


 理屈としては、わかる。


 リーディスにとって重要な存在になりうるわたしを伴っていれば、軍が待ち受けるのも当然だ。彼はその状況を、最初から見越していたのかもしれない。


 そう考えると、足裏の冷えがまた深くなる。


「最善と思える相手と対話するには、そのほうが筋が通る。何より今は、この国が飲み込まれるのを止めること。それが僕のすべきことなんだ」


 その瞳には濁りが見えなかった。


 けれど、嘘が見えないことは、安心ではなかった。疑う足場ごと、丁寧に外されていくようで、かえって怖い。


「……ただの王家の亡霊ってわけじゃなさそうだな」


 長らく黙り込んでいたヴィルが、険しい表情でラウールを値踏みするかのような視線を投げかける。


 ラウールはその視線を真っ向から受け止めながらも、表情を崩さず、ゆるく首を振った。


「ええ……憎悪や復讐心だけで、あの巨大な力に立ち向かうことはできない。未来を変えたいのなら、過去にばかりすがっていても仕方がない」


 赤紫の視線が、わたしへ静かに落ちた。


 穏やかなのに、その底だけが見えない。


「――それに、ミツルをこれ以上危険な目に遭わせたくはない。彼女が背負っている重荷を、これ以上増やしたくない。それが、今の僕の本心でもあります」


 ラウールがまっすぐにこちらを見据えている。


 その言葉は、わたしを守る形をしていた。けれど、その形のまま受け取ってしまえば、いつのまにか行き先まで彼の知っている場所へ運ばれてしまうような気がした。


 そんなとき、ヴィルの手がわずかに動いた。


 わたしをかばおうとしたのだろう。けれど、その手は途中で止まってしまう。届く前に、別の言葉が場を塞いでいる。そのもどかしさが、彼の肩の線に残っていた。


 喉がきゅっと詰まる。


「よかろう。――ラウール殿、といったな」


 先ほどまで深く黙していたローベルトが、低く重々しい声を上げる。


 その瞳にはまだ疑いと警戒の色が濃く宿っていた。けれどラウールの言葉と態度を、全面的に退けるつもりはないようだった。


「君の情報が確かであるなら、我が国にとって極めて大きな利となるだろう。ただし――我々を欺くような真似をすれば、どうなるかは言うまでもない。とりわけ、ミツルを傷つけるようなことがあれば、それこそ……」


 ローベルトは唇をきつく結んだ。


 言い切らなかった先まで、場にいる全員が理解していた。兵士たちの槍が、朝日に鈍く光る。


 けれどラウールは、ひるむ様子もなく、彼の重い視線を受けとめたまま静かに頭を下げた。


 その短いやり取りを見つめているうちに、足裏の冷えが、石畳からじわじわ上がってくる。


 ここで終わる話ではないのだと、遅れてようやく息の奥へ落ちてきた。


「承知しています。――ミツルの居場所を損なうようなことは、決していたしません」


 ラウールのその言葉に、指先のこわばりがほんのわずかにほどけた。


 けれどそれは安堵ではない。まっすぐな言葉ほど拒みにくいのだと知ってしまう種類の、静かな動揺だった。


 それでも、クロセスバーナの名は脳裏を離れない。


 もし本当に彼らの手がこちらへ伸びているのなら、どこまで入り込み、わたしの存在をどれほど掴んでいるのか――考え出すと、不安はとめどなく膨らんでいく。


「……では、明日にでも王宮へ取り次ごう。その前に、貴殿の身柄は軍で預かることになる。仔細も聞かせてもらうが、かまわんな?」


「ええ、それでかまいません」


 ローベルトがきっぱりと言い切ると、ラウールはわずかに口もとを緩めただけで、その申し出を受け入れた。


 彼がうなずくのを見届けても、場の空気はすぐにはほどけなかった。


 張りつめたものが、ただ次の場所へ持ち越されるように、門前の冷えた空気のなかを薄く漂っている。


 ソミン王家。緋朧天石。クロセスバーナ。


 名を与えられたものが増えるたび、見えていたはずの日常が、音もなく遠のいていく。重なる謎の先に何があるのか、まだ何ひとつ見えなかった。


 そう思った途端、指先がかすかに震えた。


 けれど、その手を握りしめるより先に、ヴィルがわたしの肩へそっと手を置いてくれた。


 長い指の重みが、肩口からゆっくりと沁みてくる。ばらばらになりかけていた息を、どうにか今ここへ繋ぎとめてくれる重さだった。


 わたしは唇の裏で小さく息を整えた。


 明日には、これが王宮へ持ち込まれる。


 その事実だけが、夜の冷えのように、静かに足もとから這い上がってきた。

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