門前の疑念
手綱が、きゅっと短く鳴った。
ヴィルの拳に白い骨ばりが立つ。顎の筋がひとつ硬くなり、黒馬の首もわずかに沈んだ。その声は大きくなかったのに、門前の静けさをまっすぐ断ち、わたしの喉の奥へ鋭く刺さった。
「ヴィル……」
乾いた喉に言葉がひっかかる。
視線が、ヴィルとラウールのあいだで所在なく揺れた。助けられた事実と、疑わなければならない理屈。その二つが、石畳の上で別々の影を落としている。
「あなたまで……」
唇を噛みしめると、血の味より先に、乾いた痛みが舌へ残った。
――なぜヴィルまで、わたしを追い詰めるようなことを言うのだろう。
彼の目にあったのは、責めるための熱ではなかった。
けれど、いまのわたしには、その違いを受け取る余裕がなかった。いつもなら見慣れているはずの、警戒と実務に折りたたまれた気遣い。その輪郭さえ、石壁の冷えの中で硬く見えた。
ローベルト将軍は黙っている。
兵士たちの手が、槍の柄へ近づいていた。鎧の継ぎ目がかすかに鳴り、油の匂いと鉄の匂いが、門前の空気へ薄く混じる。
その重さの中で、ラウールだけが一歩、前へ出た。
兵士たちの気配が固くなる。けれど彼は、怯えも急ぎも見せなかった。銀の髪が朝風に揺れる。その静けさは美しさより先に、場の温度を下げていくようだった。
「ローベルト将軍。あなたは思慮深く、堅実な方だ。リーディスという国のあり方を、そのまま背負っているように見える。だからこそ、それが仇となることもある」
「それは皮肉のつもりか?」
「そうは言いません。しかし、最悪の事態というものは、往々にして思いも寄らない形で、しかも緩やかに進むものです。気付いたときには、もう手遅れになっている」
その言葉を受け、ローベルト将軍はゆるやかに目を細めた。
将軍の長靴が、石畳へわずかに重みを移す。乾いた響きが一拍だけ遅れて耳に届き、わたしの足裏まで硬く返ってきた。
「貴様……何が言いたい?」
低く響く声に、門前の空気がさらに張る。
ラウールはひとつ瞬きをしてから、こちらへ短く視線を送った。穏やかに見えるまなざしだった。けれど、その落ち着きは、この場に馴染まない。肩の内側が、すうっと冷えていく。
「ミツルを狙った者たちについてですが、僕なりに見当はついています。ただし、断定はまだできません」
「なんだと?」
ヴィルの声が硬く跳ねる。
ラウールは揺れなかった。赤紫の瞳は、ローベルト将軍から逸れない。まるで、こちらがまだ知らない線を、彼だけが石畳の下に見ているようだった。
「彼らについては――既存の常識が一切通用しない相手だと考えたほうがいいでしょう。その思想は、狂信的な教義とでも呼ぶべき代物ですから」
淡々とした声だった。
語尾が揺れない。そのせいで、兵士たちの鎧が擦れる音が、かえって大きく聞こえた。誰かが息を呑む。乾いた喉の音まで、石壁に拾われた気がした。
ヴィルの瞳は、今しがた放った厳しい言葉とは裏腹に、わたしのほうへ一瞬だけ揺れた。
一方、ローベルト将軍の眼差しは、ラウールを射抜いたままだった。怒りではない。怒りに似ているけれど、その奥で、情報を拾おうとする冷えた理性がぎりぎり踏みとどまっている。
――わたしは、どうしたらいい。
聞きたくなかった真相と、いずれ覚悟しなければならない現実とが、いまここで交差してしまった。
しかも、それを運んできているのは、倒れていたわたしを拾い、水をくれ、落ちないよう支えてくれた人だった。助け舟の形をした言葉が、どこへ向かうものなのか、まだわからない。
ラウールは、わたしの揺れを感じ取ったのか、わずかに振り返る。
口もとには薄い微笑があった。作りものだとは思えない。けれど、そのやわらかさが本物であるほど、何かを伏せられている感覚だけが、喉の裏へ薄く貼りついていく。
金具が擦れる短い音がした。
ヴィルの肩幅が、わたしとラウールのあいだへ、薄い壁のように入ってくる。本人は気づいていないのかもしれない。ただ、身体が先にそうしていた。
――どうして彼は、こんなにも苛立っているのだろう。
わたしを守るという固い誓いを立てたヴィルの気持ちもわかる。
けれど、そこにはそれだけではない、届かなかったことへの痛みのようなものまで滲んでいる気がしてならなかった。自分が追いつく前に、別の人間がわたしを拾った。その事実が、彼の中で別の形に焼けているのかもしれない。
ラウールは、わたしたちの警戒を見透かしているかのように、話を続けた。
「あなた方もご存知のはずです。クロセスバーナという名に、まったく心当たりがないわけではないのでしょう?」
旗布が、ぱさりと鳴った。
空気の縁だけが動く。その名が落ちた瞬間、ローベルト将軍の目つきが変わった。
「なっ、貴様。どうしてそれを?」
苛立ちを含んだ低い声が、張りつめた門前へ響く。
――クロセスバーナ。
その名を耳にした途端、胃の底が重く沈んでいった。
嫌悪ともつかない不安が腹の内側に広がる。深く息を吸い込もうとしても、肺がきしんで、途中で止まる。石畳の冷えが、靴底からゆっくり上がってきた。
「彼らは僕を執拗に付け回していました。よほど、僕にリーディスへ向かってほしくなかったんでしょう。ただ、事故現場に居合わせたのは本当に偶然だったんですけどね。ミツル……」
わたしの名を呼んで、ラウールは一度言葉を切った。
限りなく優しい声だった。やさしい声で呼ばれているのに、そこから逃げたくなるような怖さが、喉の裏に薄くへばりつく。
「ラウール……」
か細い声で彼を呼びながら、指先は無意識にローブの裾を掴んでいた。
彼の次に告げる言葉を、聞きたくない。けれど、聞かなければならない。その狭間で、呼吸だけが細くなっていく。
「すまないが、君には酷だと思って、伏せていたことがある」
「え……?」
声が震えそうになるのを、唇を噛んでどうにか押しとどめた。
ラウールは小さく息をつく。謝罪のための息なのか、これから置く事実の重さを測るための息なのか、わたしにはわからなかった。
「君が馬車から放り出された現場には、三人の男と御者、それに分厚いローブを被った二人がいた。すぐにわかったよ。――彼らが僕を付け狙っていた連中だとね。だから僕は魔術で彼らを追い払った。少々手荒な形にはなったけど、全員泡を食ったように逃げていったよ」
――そんな。彼が魔術師だったなんて……。
今まで見た様子からして、魔導兵装を所持しているとは思えない。
いったいどうやって。
けれど、それより先に、別の事実が喉へ引っかかった。
ラウールは、あの場に誰がいたのかを知っていた。
知っていて、いままで言わなかった。
指先から力が抜ける。ローブの布が、掌の中で頼りなくずれた。彼がわたしを気遣って伏せたのだとしても、そのやさしさは、知らないあいだに目隠しをされていた感覚と隣り合っている。
「リーディスにとって因縁の深いその名が、西方大陸で復活したことは聞いています。彼らが、わたしを狙っていたと……?」
口に出してみても、恐ろしさは増すばかりだった。
クロセスバーナに通じる者たちが、わたしを。どうして。何の目的で。問いは形にならず、舌の奥で散っていく。理解できないことが、いちばん怖かった。
「少なくとも、まったく無関係だとは思えない。ただし、別の可能性も捨てきれない。君を狙う他国の思惑が混じっていても、おかしくはない」
ラウールは、そこで初めてわずかに言葉を選ぶ間を見せた。
その短い間のせいで、門前のざわめきが一段遠くなる。兵士の息。馬の鼻先が鳴る音。石壁を撫でる風。全部が、次の言葉を待つためだけに残されたようだった。
「彼らにとって君は、是が非でも手に入れたい存在に見えたんだろう。フードの下に覗いた黒髪。純白で、どこにも継ぎ目のない不可思議な剣。……伝承を知る者なら、君をただの女の子だと思わなくても不思議ではない。まして、君は『黒髪のグロンダイル』と呼ばれている。違うかな?」
その言葉のひとつひとつが、耳の奥で氷の粒に変わっていく。
フードの内側で、黒髪が頬へ触れた気がした。隠していたはずの色。守ってきたはずの名。自分で名乗ってきたものなのに、他人の口で並べられると、まるで身体の外へ取り出され、検められているみたいだった。
「どうしてそこまで知っているの……ですか?」
不安を拭えないまま問いかける。
ラウールは、フードの影へ視線を落とした。どこまでも優しく見える表情だった。けれどその優しさは、答えをくれる前に、こちらの逃げ道の数まで数えているようにも見えた。
「それこそが、僕が王都を目指す理由の一つでもあったからね。どうしてもその人物に会って話がしたかった。でも実際に会ってみたら――驚いたよ」
風がひと筋だけ抜けていく。
銀の髪先が頬にかかり、すぐ離れた。その静かな動きに、呼吸が浅くなる。美しいからではない。あまりに穏やかに、わたしの知らないわたしの話を続けるからだった。
「君自身の言葉を、自分の耳で聞かなければならないと思った。少なくとも、それだけは偽りじゃない」
言葉は、助け舟の形をしていた。
けれど、その舟に乗れば、行き先まで彼の知っている場所へ運ばれてしまうような気がした。そう思うこと自体が、怖かった。
嘘か真か、判断ができない。
けれど、反射的に拒絶することもできなかった。拒めないことそのものが怖い。こわばった指先を、自分でもう一度握りしめる。
クロセスバーナの脅威が迫っている。
わたしの存在そのものに何らかの理由がある。
それなのに、この男――ラウールが発する言葉は、危険を告げているはずなのに、どこか手順を整えた道のようにも見える。やさしさのように見えるものの底に、まだ見えていない何かが沈んでいる気がしてならなかった。
――もし、このまま何かを決められてしまったら。
石畳の上に立っているのに、足もとだけがひどく遠かった。
わたしの未来は、わたしの意志など置き去りにして進んでしまうのではないか。
そんな不安が腹の底で渦を巻くなか、ラウールは静かにわたしから視線を外し、将軍のほうを向いた。
「ふざけるなよ。ミツルにはこれ以上近づけさせん!」
ヴィルが動いた。
ラウールの肩を掴んだ瞬間、ヴィルの鎧の留め金が鋭く鳴る。半歩、わたしの前へ出て、風の線を塞いだ。その位置取りに、彼自身は気づいていないらしい。
「ヴィル!」
思わず声をあげたわたしは、自分の声の甲高さに驚いてしまう。
ヴィルの強引な態度は、わたしを心配してくれているからこそだとわかっている。けれど、わかっていることと、受け入れられることは同じではなかった。
――それなのに、わたしは一方的に断じられるのを止めたくなっている。
その噛み合わなさが、舌の裏に苦い味を残した。
「まずはお前の正体と目的をはっきりさせろ。でなければ、このまま牢に放り込む」
鞘口に触れた指が、撫でるのではなく置かれる。
力はこもらないのに、離れない。それは正式な命令というより、怒りが先に形を取った言葉だった。いま、この男を近づけてはならない。その一点だけが、ヴィルの身体を前へ押し出している。
けれど、ラウールは怯まなかった。
肩を掴まれたまま、周囲の槍も、将軍の視線も、ヴィルの怒りも、ひとつずつ受け流すように見ている。逃げようとも、言い返そうともしていない。その動かない重心が、かえって場を重くした。
そんな二人の間へ割って入るように、ローベルト将軍の声が落ちた。
「ヴィルの言うとおりだ。ミツルを救ってくれたことには礼を言おう。だが、返答次第では相応の処置を取る」
低く、重い声だった。
礼と警戒が、同じ刃の両面みたいに並んでいる。ローベルト将軍の目は、ラウールの肩を掴むヴィルの手にも、わたしのこわばった指にも、等しく届いていた。
ラウールは深いため息をつき、視線を落とした。
あからさまに呆れたような仕草に、ローベルト将軍の眉がわずかに動く。ヴィルは、まだ手を離さない。
「疑われても仕方がないでしょう。話をするに足る相手かどうか、試したかったのも事実です。侮辱されたと感じたのであれば、謝罪します。申し訳ない」
ラウールはローベルト将軍に向き直り、丁寧に頭を下げた。
声に怒りはなかった。高ぶりもない。ただ、その静けさが、謝罪だけで収まりきらないものをまだ残している。兵士たちの鎧が擦れる音が、彼のまわりで短く鳴った。
「ふん、回りくどいことをしやがって――」
ヴィルが何かを言いかけたところで、わたしは思わず口を挟んだ。
「ヴィル、少し黙っていて」
制した声に、自分で驚くほど強い感情が混じっていた。
これ以上、二人がぶつかりあってほしくない。けれど、それだけではない。わたしを挟んで、わたしの行き先を決めるように話が進んでいくことが、どうしても嫌だった。
ラウールは、そんなわたしに、むしろ申し訳なさそうにわずかに首を振ってみせた。
「いや、ミツル。僕が悪い。君にも隠し事をしていたわけだからね」
その一言に、息がひとつ止まる。
隠し事。
さっきの言葉が、もう一度喉の奥へ戻ってきた。知っていて、言わなかった。助けてくれていたのに、伏せていた。
その二つが、同じ人の中にある。
ラウールはわたしを見て、安心させるように軽く笑みを見せた。それから、シャツの胸元へ手を差し入れる。
兵士たちの気配が一斉に張った。
ヴィルの指も、鞘口から離れない。けれどラウールの動きは急がなかった。胸元から取り出されたのは、金色の細工が細やかに施された、円形のペンダントだった。
硬質な輝きが、朝の光を小さく返す。
わたしは、つい目を奪われてしまった。
魔導兵装には見えない。けれど、ただの装身具とも思えない。金色の縁に刻まれた細工が、ほんのわずか、呼吸をするみたいに光を含んでいる。
それが、ラウールの伏せていたものの輪郭なのだと、まだ言葉にできないまま思った。




