門前の検め
朝のうちの光はまだやわらかく、乾ききらない草の匂いを、街道へ薄くのせていた。
鞍の前環へそっと手を置きながら、わたしは遠く霞む王都の城壁を見つめる。見慣れているはずの輪郭なのに、喉の奥だけが妙に狭い。戻ってきたのだと思うより先に、これから入っていく場所の重さが、指先へじわりと移ってくる。
ふと耳を澄ますと、横を進むスレイドの足取りが、さっきよりわずかに重くなっていた。
ヴィルが控えめに手綱を引けば、馬は鼻先から湿った息をこぼし、小さく喉を鳴らす。首筋へ置かれた彼の手つきは細やかで、低く落とした労わりの声だけが、朝の冷えた空気を少しやわらげていった。
街道の先には、小さな屋根が点々と浮かび始めている。
王都の外郭に寄り添う集落だ。荷車の車輪が石を噛む音。旅人たちの笑い声。干した布の匂いまでが風に混じって、人の気配が急に濃くなっていく。
こちらへ向く目も、増えていった。
前をゆくヴィルの黒馬と、腰の白い剣。深くフードを下ろしたわたし。背後で静かに手綱を捌くラウール。誰ひとり、この街道の景色へきれいには溶けないのだろう。
黒髪そのものは、布の内へ押し込めている。
それでも、視線はそこへ届く。隠している気配だけが、かえって人の目を引くのかもしれない。
布の縁へ指をかける。フードをさらに深く引き下ろすほど、首筋の息が詰まった。うつむけば余計に怪しく見えるとわかっていても、そうするほかなかった。
「……さすがにこの髪ではね」
押し殺したつもりの声は、自分でもわかるほどかすれていた。
前方へ視線を送ると、ヴィルは振り返りもせず、肩をわずかに動かす。
「気にすることはない」
そっけない返しなのに、その底にある気遣いが耳へ残る。
ひとつ深く息を入れても、まだ喉は少し固いままだった。
この国で黒は、凶兆の色として記憶されている。
黒髪の王女が生まれると厄災が訪れる。そんな古い伝承が、人の目の奥にいまも沈んでいる。母も、メービス王女も、髪を隠さずには外を歩けなかった。わたしも同じだ。
若緑のウィッグを被っていた頃とは、また別の息苦しさだった。
あのときは、見られることそのものを武器にしていた。けれど今日は、布の下にある色まで量ろうとする目が、皮膚の表面へじりじりと触れてくる。
背が知らぬ間に縮こまっていた。
道の両脇から投げられる視線が、フードの奥へ細い指を差し込んでくるみたいだった。気づいて小さく息を呑んだとき、背後からラウールの声がそっと落ちてくる。
「ミツル、うつむいていてはだめだ。背筋を伸ばしていればいい」
ごく平らかな言い方なのに、押しつけがましさがない。
その声に触れたところだけ、肩の力が少し抜けた。振り返りかけると、ラウールは穏やかな笑みを浮かべたまま、前を見ている。
「背筋を、伸ばす……?」
かすかな問い返しが、自分でも頼りなく聞こえた。
「うん。あまり引け目を感じると、逆に周囲から不審がられるから。必要以上に怯えなくていい。自信を持つ……とまではいかなくてもね」
怖がらせずに整えてくれる言い方だった。
くしゃりと縮んでいた背をゆっくり起こすと、朝の空気が首筋へひやりと触れる。それでも、視界がわずかに高くなるだけで、呼吸の入り方が少し変わった。
前をゆくヴィルが、短く言った。
「堂々としていろ」
ぶっきらぼうなのに、こちらの様子だけは見落としていないのがわかった。
申し訳なさは消えない。けれど、その言葉に少し救われてもいる。鞍の前環を握り直すと、金具の冷えが指の腹へ戻ってきた。
人のざわめきに体力を削られていくのを感じながら、背を保ち続ける。
遠くの城壁は朝日に白く縁取られ、近づくほど石の冷えた匂いが濃くなっていく。わたしたちを包む空気は、やはり冷たい。けれど、その中で姿勢だけでも崩すまいと、わたしは喉の奥で息を整えた。
そのとき、澄んだ朝の空気を裂くように、喇叭の音が高く響いた。
外門の開閉を告げる音なのだろう。石造りの城壁が青空を鋭く切り取り、日向の石気と、門前の油差しの金属臭が、風にうすく混じってくる。
「そろそろ、王都の外門ね……」
わかっていたはずなのに、実際に門が迫ってくると、耳の奥で脈がひとつ跳ねた。
近づくにつれ、往来はさらにせわしなくなる。
荷車を引く商人。駆け抜ける馬車。荷を抱えた女たち。その合間を縫って走っていく少年たち。人の流れは生きものみたいにうねっていて、その縁へ触れただけで、足元が頼りなくなった。
呼吸が知らぬ間に浅くなる。
門扉はすでに開いていて、規律正しく並ぶ兵士たちの列が見えた。その先頭に、ひときわ重い気配をまとった壮年の男が立っている。紋章入りのマントの縁が、朝風にかすかに鳴った。
わたしたちを認めた瞬間、その目が鋭く細まる。
――ローベルト将軍。
選定の儀へ乱入したわたしを呼び止め、白銀の塔で父と母の物語を聞かせてくれた人。
玉座の間でわたしを救うために用意された策には息を呑んだけれど、それも彼なりの責任の取り方だったのだろうと、今は思える。
けれど、門前に立つローベルトの面差しには、そのときの落ち着きよりも厳しさのほうが濃かった。
背後に控える数十名の兵士も、同じように張りつめている。帰ってきたはずなのに、迎えではなく、検めの場へ足を踏み入れた気がして、口の中が急に乾いた。
「……ミツル、無事でなによりだ。だが、君の軽はずみな行動で、どれだけ周囲に心労をかけたか、わかっているんだろうな?」
低く重い声が、石壁に反って返る。
ローベルトの目は、旅塵のついた裾と、庇い続けている足元と、手綱を握る指先まで、ひとつずつ拾っていった。そこでかすかに表情が揺れる。安堵と叱責が一瞬だけぶつかり合い、すぐにいつもの厳しさへ押し戻された。
「……はい、皆々様に多大なご心配をお掛けしてしまったこと、申し訳なく思っております」
声は、思ったより細く出た。
馬上から身を傾けて頭を下げると、喉の奥がきつく狭まる。並んだ兵たちの視線が、一斉に降ってくる。その重さに、くらりとしそうになった。
「何より、君の消息不明を聞いて、先王陛下がどれほどお心を痛めておられるか、わかるな?」
「はい……どんな叱責も、咎も、受ける覚悟です。すべてはわたしの責任です」
「理解しているのなら、それでよい」
ローベルトは、わたしから目を離さないまま、周囲へ短く視線を走らせた。
それだけで、さっきまでのざわつきが嘘みたいに収まり、兵士たちの背が一斉に伸びる。槍の穂先が朝日を鈍く返し、鎧の継ぎ目がこすれて、短い金属音がつづいた。
場の輪郭が、ひと息で締まっていく。
それから、彼の目がわたしの背後へ移った。
白馬の鞍上にいる長身の青年。赤紫の瞳をしたラウールへ視線が届いた途端、将軍の眉間の影がさらに深くなる。
わたしは思わず息を止めた。
「……それで、そちらの男は何者だ。説明してもらえるか?」
城壁の前で、大勢の兵士に囲まれたまま、ローベルトの厳しい問いが落ちる。
ヴィルは少し前で黒馬を抑えたまま、こちらと兵士たちのあいだへ、いつでも割って入れる位置だけは崩していなかった。
ここでためらえば、余計な疑いを呼ぶ。
そう思って息を整え、馬を下りようと身を動かす。鐙へ重心を移した瞬間、痛みが脛から膝へ走って、肩が小さく揺れた。
前方でスレイドが耳を立てる。ヴィルの手が手綱を引きかけて、すぐに止まった。見なくても、わたしの降り方まで気にしているのがわかる。
なんとか石畳へ足を下ろすと、背後ではラウールも静かに鞍を下りた。
すらりと伸びた背筋は崩れず、こちらを押しのけるでも、出しゃばるでもなく、ただ一歩だけ前へ出る。その所作の端々に、染みついた規律と育ちのよさが、隠しきれずに残っていた。
「こちらはラウールという方です。荷馬車の事故でわたしが投げ出され、意識を失っていたところを、通りかかった彼が助けてくださいました」
言い終えた自分の声が、頼りなく耳に返る。
それでも、ラウールはわたしの説明を奪わず、小さくうなずいてから、一度だけきちんと頭を下げた。手綱を持つ手も、立つ位置も無駄がない。鎧の擦れる音だけが、彼のまわりでやけに大きく聞こえた。
「事故だと? いったい何があったというのだ?」
ローベルトの目が鋭く細まる。
泥の残る裾。庇われた足。白馬へ同乗して戻ってきたわたしとラウール。そのすべてを、一瞬で組み立てなおしているのだとわかった。
背後の兵たちも呼応するみたいに気配を固くし、武具へ触れる手がわずかに動く。
それでも、ラウールは息を乱さなかった。
「リーディス王国軍の将軍、セバスティアン・ローベルト卿ですね。お初にお目にかかります」
「そなた、私を知っているのか?」
「はい。ご高名はかねがね。かつて銀翼騎士団左翼を率い、『閃光』のユベル・グロンダイルと双翼を成した英傑であると、うかがっております」
――うそ……父さまの名前を知っている。それだけじゃない。昔のことまで。
『閃光』――失われたはずのその二つ名まで、ラウールはさらりと口にした。
そこに媚びも誇示もない。ただ知っていることを静かに置いただけのようでいて、その力みのなさが、かえって底の見えなさを際立たせた。
「ずいぶんと物知りだな。ならば、話を聞かせてもらおう」
「ご懸念はもっともです。ですが、私は彼女を助けただけです。他意はありません」
落ち着いた声音だった。
真摯に聞こえる。けれど、それだけで無条件に信じてはいけないと、頭のどこかはまだ固く警戒していた。
ローベルトは容赦なく目を細め、ラウールを見据え続ける。
どんな些細な綻びも、見逃さないつもりなのだろう。何人もの兵士が剣や槍の柄へ手を添える。その気配が石畳から立ちのぼるみたいで、指先が冷えた。
「なるほど……詳しい経緯は、後ほど聞かせてもらおう。だが――」
将軍の長靴が、石畳を一歩踏んだ。
乾いた響きが、わたしの足裏の奥まで硬く返ってくる。
「ミツル、私に言わせれば、君は何者かに拉致され、王都から連れ去られた。違うか? そして、馬車の事故とやらも――君のことだ。隙を見て、自力で突破を図った。そうではないか?」
庇う足と、裂けた裾と、戻ってきた姿の不自然さ。
彼の眼差しが拾ったものを、数え上げるまでもなく、わたしは返す言葉をなくしていた。小さな秘密まで見透かされた気がして、指先の温度がすっと引いていく。
「はい……将軍のおっしゃる通りです」
絞り出した声は、掌の中で砕けるみたいに弱い。
ローベルトは短くうなずき、すぐにラウールへ向き直る。その横顔には、まだ疑いの影が濃く残っていた。
「だとすると、この男、信用ならん」
そのひとことで、空気の温度がさらに下がった。
白馬のそばに立つラウールは、変わらず一歩も退かない。まっすぐな背中へ兵たちの視線が集まっていくのを見ているだけで、手の先が冷たくなった。
「どうしてですか。彼はわたしを助けてくださったのですよ」
思ったより高い声が出た。
助けられた事実まで、ここで自分が曇らせたくなかった。けれど、言葉だけでは足りないことも、わかっている。
ローベルトはそんなわたしを冷徹に見やり、低く息を吐いた。
「よく考えてみたまえ。出来すぎた話だと思わんか。都合よく『偶然居合わせた』など、それ自体が疑わしい。裏で君の拉致に関与していたとしても不思議ではない」
「そんな……何の目的で?」
反論しかけた声は、自分でも情けないほど揺れていた。
ラウールの潔白を示したいのに、そのための確かな証は、いまのわたしには何ひとつない。それでも、彼がただ利用のためだけに近づいたようには思えなかった。
赤紫の瞳の静けさも、言葉を選ぶ間の取り方も、軽くはない。
ただ、それを真実だと証明できるわけではなかった。
「いいか、ミツル。君はすでに、わが国にとって重要な存在なのだ。その意味は、君にもわかっているはずだ。自分の立場を自覚したまえ」
玉座での一件が不問に付されたのも、離宮預かりの養女という曖昧な立場に置かれているのも、きっと同じ線の上にある。
そう考えたところで、石畳の冷えが足裏から上がってきた。
王宮が、わたしをみすみす手放したがるはずがない。黒髪のグロンダイルという名も、白い剣も、もうただの個人のものではない。わたしそのものを思うように囲えぬのなら、その代わりを差し出せ。そういう話が、あの玉座の間にはたしかにあった。
病を抱えるお祖父さまが、なぜ「魔術大学以外の仕事」で多忙であるのか。
きっと、その延長線上にあるのだろう。王宮からの露骨な横槍が、いまはまだ薄いのも同じだ。お祖父さまが何かを引き受けてくださっている。そのおかげで、いまの自由が辛うじて保たれている。
そこまで思い至って、喉の奥が苦くなった。
「君を手に入れようとする者も、利用しようとする者も、どこに潜んでいるか分からん。たとえ甘い言葉をかけられても、その裏に何らかの思惑があると疑え」
将軍の言葉は、正しすぎるほど正しい。
だからこそ、反論が喉で止まる。唇を噛んでうつむけば、石畳の隙間から上がる冷えが、頬の熱だけをゆっくり奪っていった。
「彼が、何か思惑あってわたしに近づいたと。将軍は、そうおっしゃるのですか?」
上ずりかける呼吸を整えて、将軍を見上げる。
ラウールはいつの間にか半歩だけ位置を変え、わたしをかばうでもなく、けれど視線だけは静かにこちらへ寄せていた。その距離の取り方が、余計に答えを急がせない。
ローベルトはわずかに眉間の皺を深くし、ため息をついた。
周囲の兵士たちが息を潜めるなか、彼はきっぱりと断じる。
「その疑いはある。いや、ありすぎるくらいだな」
石の蓋を落とされたみたいな言葉だった。
呼吸はたちまち浅くなり、目を伏せるしかなくなる。それでも、ラウールは一度も視線を逸らさなかった。
そのあいだで、わたしだけが息の置き場をなくしていた。




