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揺れる馬上、揺れる想い

 ラウールの申し出を受けて、わたしは一度だけうなずいた。


 立とうとして、足裏に草の湿りが戻る。冷えはすぐ膝まで上がり、力を入れたはずの脚が、頼りなく震えた。


 白いローブの上に羽織った濃紺の外套が、朝風にわずかに揺れている。ラウールはすぐには近づかず、わたしの足もとを一度だけ見て、それから静かに声を落とした。


「馬はすぐそこだ。立てそうかい」


 わたしはマウザーグレイルを抱き直し、もう一度、草の上へ足を下ろした。


 湿った冷たさが靴の底から上がってくる。膝の奥に力を入れる。けれど、身体は思ったよりも遠くにあった。頭の芯もまだ重い。目の奥に、夜の残りが薄くこびりついている。


「……少し足が痛いけれど……歩けなくはないと思います」


 言いながら、自分でも心許なくなる。


 声は掠れていた。最後のほうは、喉の奥で砂を噛むみたいにほどけてしまう。


 ラウールはすぐには動かなかった。


 わたしがもう一度足に力を入れるのを待ち、それでも身体がまっすぐ起ききらないのを見て、ようやく片腕を差し出す。


「つかまる? 無理なら、そう言って」


 拒める距離のまま差し出された腕に、かえって逃げ場がなくなる。


 わたしはためらいながら、その袖口にそっと指をかけた。布越しに伝わる体温は薄い。けれど、確かにそこにあった。


 立ち上がろうとした拍子に、視界がぐらりと傾ぐ。朝の草原が横へ流れ、遅れて肩の奥が鈍く軋んだ。膝から力が抜ける。


「あ……」


 咄嗟に、マウザーグレイルを抱き込んだ。


 ラウールの腕が、今度はためらわずにわたしの身体を支えた。けれど、それ以上は踏み込まない。一度だけ息を整えるように間を置き、こちらの反応を待つ。


「失礼。このままだと君がつらい。抱えて馬まで運んでもいいかな? 嫌ならやめるけど」


 頬の内側が、ふっと熱を帯びた。


 男の人に抱き上げられる、なんて。そんな場面、これまでの人生で一度でもあっただろうか。たぶん、ない。


「さすがに、その……恥ずかしい、です。けど……」


 言葉が続かない。


 断りたいわけではない。けれど、うまく頷けない。足は立ってくれないのに、恥ずかしさだけは律儀に身体へ戻ってくる。息が浅く乱れ、指先に余計な力が入った。


 ラウールは困らせるでも、急がせるでもなく、ただ静かに待った。


 その沈黙に押されるように、わたしは視線を落としたまま、小さくうなずく。


「……お、お願いします」


「わかった。痛いところがあったら、すぐ言って」


 次の瞬間、体がふわりと持ち上がった。


 足裏から地面がなくなる。思わず「あ……」と短い声が漏れた。マウザーグレイルを抱いた腕に、反射的に力が入る。けれど、ラウールの腕の置き方は驚くほど慎重だった。肩や膝の痛むところへ、余計な重さがかからないようにしている。


 乱暴さは、欠片もない。


 ありがたいと思うより先に、抱えられなければ馬まで行けない自分が、少し悔しかった。


 白いローブの袖口が頬のそばをかすめた。布に含まれた朝の冷えが近い。抱えられているのだと気づくたび、首筋まで熱が上がる。


「ごめんね。少しだけ我慢して」


「い、いえ……大丈夫、です……」


 自分でも何をどう返しているのかわからない。


 声が上ずらないようにするだけで精いっぱいだった。喉の奥に残った乾きが、言葉の端をひっかけていく。


 足もとで露が弾け、草が擦れる。少し先で、馬が短く鼻を鳴らした。


 ラウールの肩越しに見える草原は、まだ夜の名残を薄く抱いていた。その上へ、朝の光がゆっくり流れ込んでいる。光の下で、砕けた車輪の影はもう小さく見えた。けれど、わたしの身体にはまだ、荷馬車の闇が残っている。


 純白の馬はすぐ目の前にいた。


 ラウールが片手でたてがみを撫でると、馬はおとなしく首を低くする。大きな身体なのに、こちらを驚かせないよう、息まで静かにしているみたいだった。


「まず君を乗せるね。後ろから支える。そうしないと危ないから」


「……はい」


 鞍へ体を移された瞬間、やはり足がふらついた。


 腰がぐらりと流れかけ、ラウールの腕がすぐにそれを引き戻す。息を呑む間もなく、彼は後ろへ静かに跨がった。


 背後に気配と体温が増える。


 腰のあたりに回った腕が、鞍上の重心をぴたりと定めた。近い。そう思った瞬間、身体がこわばる。けれど、その腕は強く抱え込むためではなく、落ちないための支えとして、必要なところだけを押さえていた。


「苦しくない?」


「だ、大丈夫です……ありがとうございます」


 くすりと笑う気配が、背中越しに伝わった。


 蹄がひとつ、草を踏む。湿った草が低く潰れ、馬の体温が鞍の下からゆっくり上がってくる。規則正しい拍が、息の乱れを少しずつ均していった。


 しばらく黙ったまま揺れに身を任せているうちに、朝焼けは薄い桃からやさしい金へ変わりはじめていた。


 露を帯びた草原が遠くまできらめく。その景色の中へ、ふとヴィルの顔が差し込む。


――ヴィル。わたし、こんなところにいる。いろいろ、ほんとごめん。


 喉の奥が詰まった。


 指先が、ローブの端を無意識につまむ。布はなめらかで、わたしのものではない匂いがした。その違和感が、いま自分がどこにいて、誰に支えられているのかを、いやにはっきり教えてくる。


 背後で、ラウールが少し身を寄せた気配がする。


「まだ痛む? それとも、別のことで考え込んでる?」


 声は問いつめるのではなく、確かめるように落ちてくる。


 わたしはしばらく答えられなかった。馬の揺れに合わせて息を吐く。喉に残った硬さが、少しだけ薄くなった。それでも黙ったままだと、かえって言葉が重くなる気がした。


「……わたし、はやく王都に戻らなきゃいけないんです」


 口にすると、言葉は思ったより重かった。


「わたしが軽率だったせいで、きっとたくさんの人に迷惑を掛けました。だから……ちゃんと戻って、謝らなきゃいけないんです」


 語尾が細く揺れた。


 けれど、言ってしまったあとで、マウザーグレイルを抱く腕に少しだけ力が戻った。戻らなければならない場所がある。その事実だけが、ふらつく身体を鞍の上へ留めていた。


 ラウールはすぐには何も言わなかった。


 馬の歩みを乱さないまま、少しだけ腕の力を調整して、わたしの身体が揺れすぎないよう支える。


「そうか」


 短い声だった。けれど軽くはなかった。


「それなら、なおさら焦らないほうがいい。戻るにしても、今の君をひとりで帰すわけにはいかない。無理をすれば身体がもたない。ゆっくり帰ろう」


 その言い方が、ありがたかった。


 慰めるでも、否定するでもない。ただ、いま動ける形へ直してくれる。言葉が体温を持つのではなく、体温のある場所まで、言葉を下ろしてくれる人なのだと思った。


「はい……ありがとうございます」


 返事は小さくなった。


 馬の揺れが、身体の芯までゆっくり届く。背後にあるラウールの気配はやさしい。けれど、まだ読めない。その読めなさごと支えられていることに、少しだけ息の置き場がわからなくなる。


 しばらくして、わたしはもう一度、ためらいながら口を開いた。


「……もし、王都に着いてから、わたしひとりでは難しいことがあったら、その時は少しでいいです。力を貸していただけますか?」


 言ってしまってから、指先がこわばる。


 都合よく頼ろうとしているみたいで、顔を上げられなかった。ラウールの腕に支えられたまま、さらに力まで借りようとしている。その自分が、少し情けなかった。


 けれどラウールの答えは早かった。


「もちろん。僕にできることなら」


 即答だった。


「君がひとりで抱え込んで苦しそうにしているなら、見ないふりはできないよ。僕はそういう性分なんだ。迷惑でなければね」


 脈がひとつ上ずる。


 顔を伏せたまま、わたしは小さく首を振った。頬へかかった髪が唇に触れ、露の湿りみたいに冷たく残る。


「とんでもありません。迷惑だなんて、そんな……。少しも思いません……。むしろ、わたしのほうが」


 言葉をたたみ、そこで黙る。


 これ以上言えば、弱さの形まで見えてしまいそうだった。喉の奥で止めた言葉が、馬の揺れに合わせて小さく震えている。


「これも何かの縁だろう。そういう巡り合わせは、大切にしたいんだ。だから、気にしないで」


「はい……」


 少し前まで彼を疑っていた自分が、急にひどく心細く思えた。


 背後にある静かな気配は、やさしいのに、まだ読めない。だからこそ、簡単に寄りかかってはいけない気がした。それでも、いま寄りかからなければ落ちてしまう。そんな頼りなさが、鞍の揺れと一緒に身体の中を行き来していた。


 高台へさしかかると、視界がひらけた。


 朝露の光が遠くまで連なり、野の花が風に揺れている。空は淡い茜から薄い青へほどけはじめ、雲の縁だけが金を宿していた。


「……きれい……」


 零れた声は、景色だけに向けたものではなかった。


 けれど、すぐにその言葉が危ういことに気づく。美しさへ寄りかかってしまえば、いまの痛みも、戻らなければならない場所も、少しだけ遠く見えてしまうから。


 ラウールは視線で同じ先をなぞり、ほほえむ気配を見せる。


「朝の景色って、少しずつほどけていくんだね。同じ色は、二度と戻らないのかもしれない」


 その言葉が、景色より先に別の朝を連れてきた。


 ヴィルと見た光。王都で聞いた声。隣にあるはずだった足音。いま、それを不安にさせているのはわたしなのだと思うと、喉の奥がつまった。


「……いつだったか……わたし、こういう景色を……あの人と……」


 そこまで言って、言葉が途切れる。


 唇を強く結び、わたしは肩をわずかに丸めた。安らいでいた記憶と、いま不安にさせている現実とが、同じ場所で擦れ合う。鞍の揺れが急に硬く感じられた。


 ラウールは追及しなかった。


 ただ手綱を少し引き、馬の歩みをゆるめる。


「少し休もうか。君も疲れているだろうし、馬にも水を飲ませたい」


「……はい」


 馬が止まる。


 ラウールは先に降りると、こちらを見上げた。朝の光が瞳の色を少しだけ薄くしている。赤紫の奥に、こちらを急がせない静けさがあった。


「支えるよ。痛むところがあったら言って」


 頷くしかできなかった。


 彼の腕に抱き下ろされると、足裏に地面の湿りが戻ってくる。けれどまだ膝は頼りなく、体がわずかによろめいた。


「無理はしないで」


 近くで落ちた声に、はっと顔を上げる。


 赤紫の瞳には、曇りのないやさしさが揺れていた。正面からのまなざしに耐えきれず、頬がまた熱を持つ。けれど、それは胸が浮くような熱ではなく、情けなさを見られたときの熱だった。


「……ほんとうに、あなたがいなかったら、どうなっていたかわかりません。ありがとうございます」


「お礼なんていらないよ。困っている人を見たら手を貸す。それだけだ」


 すっと返る言葉に、喉の奥が少しだけゆるんだ。


 手を貸す。それだけ。


 その単純さが、いまはありがたかった。けれど、単純な言葉ほど、受け取る側の心をまっすぐ試してくる。わたしは一度、足もとの草を見た。露を含んだ葉が、靴の縁に触れて冷たい。


「……それでも、わたしは感謝しています」


 声を落としてそう付け加えると、ラウールは少し照れたように笑い、純白の馬を水場のほうへ連れていった。


 その背を見送りながら、わたしは自分の行動をもう一度ふり返る。


 ヴィルへの後悔。ラウールへの申し訳なさ。そして、ほんの少しだけ甘えてしまいたいような、情けない弱さ。


――でも、いまは立ち止まれない。王都へ戻って、ヴィルに謝って、それからだ。責任を果たすのは。


 空を仰ぐ。


 朝焼けはさらに薄くなり、やわらかな橙に青が差しはじめていた。さっきまで冷たかった風も、ほんのわずかに温度を含んでいる気がする。


 マウザーグレイルの柄を握る。硬さが掌へ返ってきた。そこに茉凜がいる。声は今は静かだけれど、つながっている。その重みだけで、足もとが少しだけ現実へ戻る。


――先へ進もう。立ち止まっているだけでは、何も始まらない。


 指先に、手綱の革の冷たさが戻る。


 わたしはそっと瞼を閉じた。決意と呼ぶには、まだ頼りない。けれど、逃げないための小さな形だけは、掌の中にあった。


 遠くの草原の先に、王都がある。


 そこにはヴィルがいる。怒っているかもしれない。呆れているかもしれない。それでも、戻らなければならない場所だった。


 やがてラウールが戻り、穏やかな声で合図をくれる。


「行こうか。ゆっくりでいい。進んでいけば、いずれ辿り着く」


「はい……」


 再び馬の背へ身を預ける。


 背後から支える腕が、今度はもう少し自然に感じられた。自然に感じてしまうことへ、まだ少しだけ戸惑う。それでも、体はもう逆らえなかった。鞍の揺れに合わせて、息をひとつずつ置いていく。


 草原を踏む蹄の音が規則正しく続く。


 その拍に自分の呼吸を重ねながら、わたしはそっと目を閉じた。


 広い空と緑の向こうに、戻る道がまだ残っていることを、信じたかった。

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