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巫女と騎士と深紅の瞳

 先頭を行くスレイドは、風上へ半馬身ずれたまま、一定の速さで街道を踏んでいた。


 黒い尾が朝の湿りを払い、その向こうでヴィルの背は一度も振り返らない。怒っているのだと思う。怒っているのに、それでも風だけはきちんとこちらから外してくれている。


 その不器用さに、前鞍の環を握る指だけが少し強くなった。


 わたしは白馬の揺れに合わせ、細く息を整えた。


 背後では、ラウールの腕が必要なぶんだけ重心を支えている。前にはヴィルの背中がある。どちらにも助けられているのに、どちらにもまっすぐ顔を向けられない。


 フードの内側で乱れた黒髪が頬へ触れるたび、指先でそっと押し込む。王都が近づくほど、この髪は、隠しきれない秘密みたいに重くなっていった。


 白馬の歩みは静かだった。蹄の音は、露を踏むたびやわらかく沈む。


 黒馬の乾いた蹄音と、白馬の抑えた足取り。そのあいだに挟まれたみたいに、わたしの息だけが細く浮いている。


 ラウールは何も問わず、ただ支えている。


 ヴィルもまた、何も言わずに前を行く。


 違う温度の沈黙が、行く手からも背中からも、少しずつ降り積もってきた。露を含む冷えた空気が肺へ落ち、その冷たさで、かえって息をする場所がわからなくなる。


 ――ラウールの瞳の奥には、いったいどんな秘密が潜んでいるのだろう。


 考えるほど、鞍の揺れが身体の内側で大きくなる。


 問いただす勇気は、すぐには湧いてこなかった。下手に尋ねれば、この危うい静寂が軋んで音を立ててしまうような気がしたから。


 それでも、黙ったままではいられなかった。


 鞍の前環に指先を添え、爪の先で金具の冷たさを確かめる。声は、その冷たさに背を押されるように、ようやく出た。


「あの、ラウール……?」


「なにかな?」


「……王都へ向かわれる理由を、伺ってもいいですか」


 声はかすれ、風に薄く攫われた。


 ヴィルが馬上からこちらを振り返り、ほんの少し眉間を寄せる。ラウールは歩みをゆるめない。背後の気配は穏やかなままだったが、その沈黙だけが、先ほどより少し深くなった。


「目的……か」


 ラウールは遠くへ視線を投げた。


 その声には、懐かしむような翳りがほんの少し混じっていた。けれど、まばたきの間だけは妙に静かで、そこから先を読ませない。


「今はまだ、僕の口から話す時ではないのかもしれない。でも……そう遠くないうちに、君にもわかるはずだよ」


 穏やかな言葉だった。


 けれど、その穏やかさは、掌に受けた水みたいに形を持たない。受け取ったはずなのに、指のあいだから意味だけがこぼれていく。喉の奥に、説明しがたい冷えが残った。


「わかりました。では、もうひとつだけ……。わたしを助けてくださったのは、ほんとうに偶然だったのでしょうか?」


 言ってしまってから、胃の底が小さく縮む。


 白馬の背が一度だけ揺れ、抱えているマウザーグレイルの硬さが腕へ返った。ヴィルは口を開かなかった。ただ、前を行く背中の輪郭が、わずかに固くなった気がした。


「偶然……か。そう呼んだほうが、君は楽なのかもしれないね」


「それは……どういう意味ですか?」


 ラウールは低い朝陽のほうへ目を向けた。


 銀色の髪が、露を含んだ風にそっと揺れる。白いローブの裾が、濃紺の外套の下で小さく波打った。赤紫の瞳は、光を受けても奥の色を読ませない。


「僕は、運命なんて言葉は信じていない。この出会いが偶然であろうと必然であろうと、さほど関係はない。ただ、僕は僕のやるべきことを果たすために動いている……それだけさ」


 言葉は宙を泳ぐのに、瞬きの間だけが妙に揺れない。


 まるで肩透かしを食ったようなのに、どこか納得してしまう自分がいる。その曖昧さが気に障ったのか、ヴィルは前を向いたまま、横目だけでラウールを睨んだ。


「つまらん。言ってることは、ただのはぐらかしにすぎん。信用できるものか」


「今はその時ではないと、言ったはずだよ。少なくとも、僕は君たちの敵じゃない。それだけは約束できる」


 ヴィルの手首がわずかに返り、手綱が細く締まる。


 視線は街道の先を一巡し、それからまたラウールへ戻った。馬の肩がじわりと固くなる。張りつめた気配が、蹄音まで細く尖らせていた。


 二人の視線が交錯する。


 わたしは鞍を握りしめ、指先に集まった力をどうにかほどこうとした。


「……お願い、二人とも。いまここで言い争っても、何の解決にもならないでしょう? いまは王都へ戻ることが先決です」


 ほんの少し声を張ると、ヴィルは「ちっ」と舌打ちして、そっぽを向いた。


 その苛立ちは、明らかにラウールへの警戒から来ている。けれどラウールは笑みを深くするでも薄くするでもなく、ただ一度だけヴィルを見やり、それからわたしへ視線を戻した。


「理由というほどのことではないけれど、君を見つけた時、僕は驚いたんだ……」


 静かな声だった。


 ラウールはそこで一度だけ言葉を切り、わたしの頭を覆うフードの影を見た。


「見たこともない白い剣を抱えていたこともそうだけれど、フードの下から見えた髪が、黒かったから」


 どくり、と身体の内側で音がした。


 肩がこわばる。フードの内側へ入り込んだ風が、首筋の汗を冷たく撫でた。隠していたはずのものが、布の下で急に重くなる。


「黒髪が珍しいことは、知っています。それが……何か?」


 否定というより、警戒のほうが先に出た声だった。


 ラウールはその響きを受け止めるように、やわらかく首を振った。


「それだけじゃない。君は精霊の巫女メービスの伝説について、知っているかな?」


「はい」


「伝承では、彼女は救世の使命を背負って生まれた証として、『緑の髪を持って生まれた』と語られている。でもね、古い異伝の中には『本当は黒髪だった』と匂わせるものもあるんだ」


 ヴィルの背中が、前方でわずかに強張った。


 わたしはフードの内側で、自分の髪へ触れそうになる手を止める。黒い色が、布の下で息をひそめているようだった。


「――『白き聖剣を携えし黒髪の巫女』。そう呼ぶ異伝もあるんだ」


 朝の冷えとは別の冷たさが、背筋を細く撫でていく。


 わたしが隠しているはずのものへ、ラウールは昔から知っていた呼び名みたいに触れてきた。前鞍の金具を握る指が、冷たさを通り越して少し痺れる。


「白い剣を抱いて眠っていた君を見た時、その語られなかったほうを思い出したんだよ」


 その声音にあったのは、物語を語る人の酔いではなかった。


 もっと低く、切実で、測るようなもの。わたしとヴィルだけが知っているはずの、巫女と騎士、白い剣、そして王家の奥に隠れた真実。その輪郭へ、ラウールはあまりにも自然に触れてくる。


「黒髪の巫女、ですか……。初めて聞きました。失礼ですが、わたしは……そんな特別な存在ではありませんので……」


 咄嗟に口をついた否定は、思った以上に弱々しかった。


 ラウールは小さくまばたきをした。表情はやわらかい。けれど、その赤紫の瞳に見つめ返されると、隠していたものの輪郭を、先に向こうが知っているような気がした。


「でももし、本当にそうだったとしたら……僕は嬉しいんだけどな。君が抱えているその白い剣が、語り継がれてきたもののひとつだったなら」


「……や、やめてください。わたし、そういうのは……」


 思わず、遮るように言葉が零れた。


 視線が勝手に落ちる。息が浅くなる。喉の奥で小さな音が、からん、と鳴った。特別なものにされる怖さが、フードの内側で髪に絡みつく。


 そんなわたしの動揺を察したように、ヴィルが鞍を軽く鳴らして振り返った。


「いい加減にしろ。ミツルが迷惑しているのがわからないのか?」


 低い声音には、明確な苛立ちと、わたしに対する気遣いが入り混じっていた。


 名づけそのものを否定する声ではなかった。ただ、それをいまわたしへ押しつけるな、という線の引き方だった。わたしはその声にほんの少し救われた気持ちになり、ラウールへの視線をそっと外した。


「ヴィル……」


 名を呼んだわたしに、彼はすぐ返事をしない。


 けれど、その背中から、これ以上余計なことを言わせるな、という意志が伝わってくる。言葉より先に、位置で守る人の背中だった。


「口が過ぎた。すまなかった」


 ラウールは肩をすくめるような仕草を見せた。


 笑みはある。けれど、それ以上は踏み込まない。引いたのか、引く形を取っただけなのか、わたしにはまだわからなかった。


 そこからしばらく、三人とも黙ったまま馬を進めた。


 スレイドの足もとには、まだ朝の冷たい露が残っている。黒い蹄が草を踏むたび、湿った匂いが一瞬だけ立ち、すぐ街道の乾いた土へ紛れていった。


 ラウールの白馬は、騎手のわずかな合図を逃さないほどよく訓練されているのか、足取りはいたって静かだ。


 黒い馬の蹄音。


 白い馬の足取り。


 そのあいだで、わたしはフードの縁を一度だけ押さえた。布の下で、黒髪が頬へ細く触れている。


 しばらくして、白馬がヴィルのすぐ後ろへ寄ると、前を行く彼が低く問いかけてきた。


「……ミツル、足の痛みはどうだ?」


 ぶっきらぼうな調子だった。


 けれど、さっきラウールを遮った声と同じ芯がそこにあった。何を信じるかより先に、いま痛むところを見る声だった。


「ありがとう、ヴィル。痛むけど……なんとかなると思う。王都までなら、たぶん」


「そうか」


 ヴィルはほんの少し息を吐き、安堵の気配を滲ませる。


 けれど表情はまだ張りつめたままだった。背後のラウールは、変わらぬ落ち着いた気配のまま、二人のやりとりを聞いている。


 ――このまま王都に着いたら、いったいどうなるのだろう。


 堂々とそびえる石壁を見上げる時、わたしたちはどんな顔をして、どんな言葉を交わすのか。


 考えれば考えるほど、腹の底が静かに揺れていた。


 やがて視界が開け、遠くの木立の向こうに、王都へ続く大きな街道が見え始めた。


 乾いた土埃と干草、磨かれた革の匂いが、風にうすく混じる。遠くで車輪の軋みが重なり、地面の微かな振動が鞍へ伝わってきた。馬車の往来や兵士の巡回が活発になるにつれ、わたしたちにもいや応なく視線が集まるだろう。


 フードの下に黒髪を隠したわたし。


 名無しの聖剣を腰に下げたヴィル。


 正体の知れないラウール。


 誰ひとりとして、目立たずに済む気配がない。


 そんなことを思い巡らせていると、ラウールが小さく咳払いをした。


「ミツル、もし辛くなったら遠慮なく言うんだよ」


「お気遣いありがとうございます」


「急ぎの旅でもないし、君には用心深い護衛役がついているんだから、不意のことがあっても心配ないだろう」


「……そうですね。彼には全幅の信頼を寄せていますから」


 口にした途端、前を行く背中へ届いたかもしれないと思って、喉の奥が少しだけ詰まった。


 ヴィルは振り返らない。けれど、肩の線がほんのわずかに変わった気がした。気づかないふりをされそうな、でもたぶんちゃんと届いた言葉だった。


「だろうね」


 ラウールは満足げに目を細める。


 ヴィルはそのやりとりに反応するでもなく、ただ黙々と前を見据えたままだ。


 ――ラウール。あなたの目的は、いったい何なの……?


 問いかけても、はっきりした答えは返ってこない。


 それでも肩からわずかに力が抜けていることに、遅れて気づいた。理由は、ラウールを信じたからではない。ヴィルへの信頼を、言葉にしてしまえたからかもしれない。


 長く伸びる朝の影を踏みしめながら、わたしたちの馬は静かに蹄の音を刻む。


 草原の風が朝露の香りをさらっていき、フードの端をやんわりと揺らした。沈黙の中を埋めるのは、ごく小さな息遣いと、馬の蹄音だけ。


 その音に耳を預けながら、遠くにかすむ王都の城壁へそっと視線を送った。


 フードの内側で、黒髪が頬へ一筋だけ触れる。


 隠しているものごと、王都へ近づいているのだと思った。


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