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絵物語から来た旅人

 水を飲んで、喉の焼けるような渇きが少しやわらいだころ、わたしは改めてラウールを見上げた。


 最初に目についたのは、美しさではなかった。


 立ち方だった。


 こちらへ踏み込みすぎない。急がせない。触れないまま、いつでも手を引ける距離で待っている。その慎重さが、かえって目を離しがたくした。


 それでも、いったんあの赤紫の瞳を見てしまうと、もう一度まっすぐ見返す勇気はすぐには出なかった。視線は喉元のあたりでほどけ、そこから上へなかなか上がらない。頬を掠める風が草原を撫でていき、乾いた鼓動がひとつ、肋の裏で鳴った。


 ――なんてきれいな人……。


 薄紅から金へほどけていく地平を背に、ラウールは朝の中に立っていた。白に近い髪は濃紺の外套の上へやわらかく流れ、わずかな身じろぎに合わせて、銀に近い反射をこぼしていく。外套の合わせの奥には、白いローブと深紅のベストがのぞいていた。


 整いすぎるほど整っているのに、作りものめいた冷たさはない。むしろ、絵物語から抜け出してきた旅人が、いまだけ土と露の匂いの中に立っているような、そんな不思議な違和感があった。


 そして目。


 あの赤紫の瞳が、朝の薄い光を受けて揺れている。見つめられているのに、圧がない。ただ、こちらを不用意に追い詰めまいとする気遣いだけが、まばたきの間に残っていた。


「少しは落ち着いた? 痛むところはない?」


 さっき聞いたのと同じ、耳に刺さらない声だった。冷えた空気の中を、急がずに届いてくる。問いのあとに残った静けさまで、乱暴ではなかった。


 わたしは答える前に、小さく息を吐いた。


 警戒はまだ残っている。けれど声音と所作の穏やかさに、こわばった肩の筋が、ほんの少しだけ緩んだ。重い上半身を起こそうとして腕に力を込めると、遅れて肩の奥が鈍く軋む。


「……あ、ありがとうございます……。けど、まだ……頭が少し……」


 焦点の定まらない視界に戸惑いながら、さらに身を起こしかけたところで、身体がふらついた。


 けれど、ラウールはすぐには触れなかった。


 わたしが崩れそうになるのを見て、初めてためらうように手を差し出す。拒める距離のままで、こちらが選べるように。


「無理しないで。ほら、ここで少し休んで」


 差し出された手の甲は白く、細い骨の線がうっすら透けて見えた。


 わたしは、すぐには触れなかった。


 マウザーグレイルを抱えた腕に力が入る。草の露が膝へ染み、肩の奥がまた鈍く痛んだ。拒まれても仕方がないと知っているように、ラウールの手はその位置で止まっている。


 しばらくして、わたしは袖口の端にだけ指をかけた。


 それを合図にするように、彼はほんの少し身を寄せた。肩を支えられる。強い力ではなかった。布越しの体温が遅れて届き、あたたかいと思うより先に、立っていられないことのほうが悔しかった。


 緊張の糸がほどけそうになり、わたしはマウザーグレイルを抱き直した。茉凜につながる重みが、背筋の不安をどうにか支えてくれている。呼吸はまだ浅い。けれど、喉の奥を擦る痛みは、さっきより少しましだった。


「……あなたは、どうしてここに……?」


 震える問いに、ラウールは一瞬だけ視線を伏せた。その影をすぐに、ひとつの静かな微笑が拭って、またこちらへ戻る。


「僕かい? ただの旅人さ。王都リーディスを目指していたんだけど、夜明け前に、遠くから地割れがするみたいな音と振動がしてね。何事かと思って急いで来たんだ。そうしたら、あの残骸の近くに君が倒れていた」


 その声は、あの瞳の落ち着きと同じ場所から来るようだった。


 荷馬車の闇に残っていた麻縄の匂い。男たちの低い声。乱暴に揺れる車輪の音。そういうものが、少しだけ遠ざかる。わたしは視線を落としたまま、小さくうなずいた。


 砕けた車輪の破片が、草の上で鈍く光っている。土へ押しつけられた轍の線だけが、そこに人の気配があったことを示していた。けれど、複数の男たちも、馬も、いまはどこにも見えない。焦げの匂いも、熱の名残もない。


 ただ、耳鳴りみたいな静けさだけが、朝の空気に絡みついていた。


「……わたしを拐おうとした連中はどこ……」


 口にした途端、しまったと思った。


 舌の上で音が苦く転がる。ラウールの横顔がわずかに動き、銀の髪の先が露を含んだ風に揺れた。沈黙が一拍。自分の呼吸の音ばかりが近くなる。


「ん……拐ったって?」


 頬が熱を帯びた。


 乾いた唇を結び直し、わたしは剣の柄を握り直した。掌の砂が、きゅ、と小さく滑る。


「あ、いえ、違うの。わたし以外にも乗っていた人たちがいたはずで、荷馬車が壊れたなら、一緒に巻き込まれたはず……なのに、誰もいなくて、おかしいなって……」


 言い換えた言葉が、冷たい空気の中へほどけていく。裾の端は露でしっとり重く、風に揺れるたび、布が小さく鳴った。脛に草の感触が貼りつき、肌の表面の冷えが遅れて意識にのぼる。


 ラウールは少し黙り、朝靄の残る地平へ視線を投げた。赤紫の瞳が遠景の光を淡く拾い、眉間に落ちた影だけが、考えの深さを物静かに示している。


「僕が辿り着いた時、ここには君だけが倒れていた。ほかに人影は見当たらなかったし……それと、あたりが妙に静かだったね。まるで何か見えない力が、一瞬にして消し去ったみたいに」


 断定ではなかった。


 見たものを、そのまま言葉にしただけの薄い違和感。けれどその一語は、わたしの内側で別の音を立てた。


 破片はあるのに、人の匂いだけがごっそり抜け落ちている。


「……消し……去った……?」


 身体の内側で何かが軋んだ。


 冷たい汗が背を這う。灼熱の闇が地面をひび割らせ、すべてを呑む映像が脳裏で再燃する。呼吸が短く途切れ、鼓動が嫌な拍を打ちはじめた。


 ――まさか、わたしのせい?


 もし彼らを消し去ったのがわたしだとしたら。


 吐き気に似た恐怖がせり上がる。けれど、焼け跡も、はっきりした残骸もない。それがかえって疑念を濃くした。


 ラウールはそんなこちらの揺れを見て取ったのか、少しだけ声をやわらげた。


「言い方が悪かったかな。君は、一緒に乗っていた人たちがどうなったか心配しているんだね。おそらく慌てて逃げ出したんじゃないかな。馬だっていなくなっているし、そう考えるのが自然だと思うけど……」


「……無事だと、いいんですけど……」


 問いは、きれいに並んだわけではなかった。


 裂けた紙片みたいに、ひとつずつ喉へ引っかかる。誰が。どうして。どこまで知っている。どこから見られていた。


 ――拉致を依頼したのは誰? 王家の思惑? それとも他国? わたしとマウザーグレイルの関係に、もう誰かが気づいている?


 利用価値。


 そんな言葉が、喉の奥で嫌な音を立てる。唇を噛み、わたしは思わず両腕を抱いた。最後の語尾は、霧に吸い込まれるみたいに小さくなった。


 ふと、ラウールの視線が戻る。


 そこにあったのは疑いではなく、理解の及ばない現象へ向ける静かな戸惑いだった。草を撫でる風の細い音が、会話の隙間をやさしく埋めていく。


「それはともかく……君の名前は? それに、どうしてこんなところにいたのか教えてくれないかな。何も知らないままというのは、さすがに気になってしまうんだ」


「……あ……」


 喉が、からんと鳴る。


 名乗りの言葉がすぐには形にならず、わたしは剣を抱き直して呼吸を数えた。心臓の拍が指先まで届き、数拍遅れてようやく静まる。


「助けていただいたのに、ごめんなさい。わたし、ミツルといいます」


「それが君の名か……いい響きだね」


「いえ、そんな……」


 名を褒められるなんて思ってもいなくて、舌がうまく回らなかった。うれしいのか、居心地が悪いのか、自分でもまだわからない。視線だけが、水筒の革紐のあたりへ逃げる。


「実は昨夜、“ある方”に会いに行く途中で、怪しい者たちに捕まってしまって。それで、こんなことに……」


 すべてを語るわけにはいかない。


 黙って去るのも違う。嘘はつけない。でも真実は渡せない。


 小さくうなずいて、自分に許す境界を決める。吐く息はすこし温かく、震えはその中で細くなった。


「……そうか。それは大変な目に遭ったね」


 ラウールは息を呑み、まなざしを伏せた。その静けさに、遠いヴィルの面影が一瞬だけ重なって、肋の奥がちくりと疼く。けれど同時に、そのやさしさは確かな救いでもあった。


「……馬車の壊れ具合から見ても、地面の亀裂やあの棘の跡を見ても、かなり強い衝撃があったみたいだ。その中で無事だったのは、奇跡かもしれない」


「……ええ。今はちょっと記憶があいまいで、説明はしにくいんですけど……気づいたら、あなたが声をかけてくれていて」


 砕けた車輪。尖った石の棘。散らばる危うさの中で、わたしの身体に目立つ外傷はない。同じ場にいたはずの男たちも、馬も、もう影がない。


 その不在が、名づけにくい不安を呼び起こす。指先に力が入り、マウザーグレイルの柄が掌へ硬く返った。


 ラウールはわたしの揺れを察したように、声をすこしだけ確かなものにした。言葉の隙間に、風の冷たさと息の温度が混じる。


「何にしても、長居は危険だよ。また何かが起こるかもしれない。さっき話したとおり、僕は王都に向かう途中だし、一緒に行こう。馬はあるから」


 押しつけの匂いのない誘いだった。


 けれど、簡単に頷けるほど、身体はまだ戻っていない。剣の柄に残る自分の体温を確かめながら、わたしはゆっくりと息を継いだ。


 遠くで、馬が草を踏む音がした。


 その音だけが、これから向かう場所の輪郭を、かすかに現実へ結び直していた。


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