僕の名はラウール
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
身体のどこが痛むのか、すぐにはわからなかった。全部が痛い、というのとも違う。痛みの芯を探ろうとする感覚そのものが、まだうまく身体へ戻ってきていなかった。
ただ、背中の下に冷たく硬いものがある。頬に何かが貼りついている。喉の奥が、砂を含んだみたいに乾いている。
それだけが、薄い膜の向こうから浮かんできた。
次に、匂い。
油ではなかった。木の破片でもない。土。草。朝露に濡れた、生きているものの匂い。荷馬車の中とは違う。どこか、外にいる。
まぶたが重かった。開けようとしているのに、薄い皮一枚が、どうしても持ち上がらない。瞼の裏に差す光だけが、赤黒い闇ではなく、うっすら温みを帯びた色に変わっていることを教えてくれていた。
指が、動いた。
あの指だ。
闇の底で、最後にひとつだけ動いた指。それが、いまも動いている。冷えた地面の上で、草の茎を一本、爪の先に引っかけている。
動く。
まだ動く。
その確認が、身体をこちら側へ引き戻すための、細い取っかかりになった。ゆっくりと、ほんの少しずつ、感覚が輪郭を取り戻していく。
左の肩が痛い。擦れたのか、打ったのか。腕の内側には、ひりひりとした熱が残っている。膝も。額の右側にも、何かが乾いてこびりついていた。血かもしれない。
目が、開いた。
視界は滲んでいた。涙なのか、腫れなのか。光の粒が散って、空と地面の境目が曖昧に揺れている。何度か瞬きを繰り返すうちに、少しずつ色が戻ってきた。
空が見えた。
まだ低い朝の色をしていた。紺と灰と、その縁にだけにじむ淡い桃。星はもう消えている。薄い雲が流れ、その隙間から光がまっすぐ降りている。
きれいだと思う前に、胃の底がせり上がった。
身を捩って横を向く。口の中へ苦い液が込み上げ、草の上に吐いた。ほとんど何も出なかった。昨夜のうちに、胃の中身はとうに空になっていたのだろう。
それでも身体は吐こうとして、みぞおちの奥がぎゅっと縮んだ。しばらくそのまま、地面に手をついて震えていた。
落ち着くまでに、どれくらいかかったのかわからない。
呼吸がようやく浅いところから戻りはじめたとき、腕の内側に、ひんやりとした重みが触れていることに気づいた。
白い。
朝の光を受けて、淡く、けれど確かに白い。
マウザーグレイルだった。
鞘もない。むき出しの白い剣身が、わたしの腕に寄り添うように横たわっている。
どうしてここにあるのかわからなかった。あの男たちが抱えていたはずだ。荷馬車の中で、大柄な男が鞘ごと胸に抱いて離さなかった。なのに、いまここにある。
理由はわからない。
わからないまま、指がそっと剣身に触れた。
冷たかった。金属の冷たさ。朝露の冷たさ。けれどその奥で、かすかな脈のようなものが返ってくる。微かすぎて、気のせいかもしれない。それでも、指先はそこから離れたがらなかった。
《《み……》》
聞こえた。
水の底から浮かんでくる泡みたいに、不確かで、頼りなくて、今にも消えそうな音。でも、聞き違いではなかった。
《《みつ……る……》》
遠い。すごく遠い。隣にいるはずなのに、何層もの壁を隔てているみたいに、声がくぐもっている。
「……茉凜」
自分の声も、同じくらい遠かった。喉がうまく鳴らない。掠れて、割れて、名前の半分しか音にならない。
《《……美鶴……? 美鶴……!》》
二度目は、すこしだけ近かった。まだ遠い。けれど、声のなかに混乱と安堵と、泣きそうな震えが全部混ざっていた。
「……うん。いる。ここにいる」
《《よかった……ずっと何も聞こえなくて、何も感じなくて、ほんとどうしようかと思ったよ》》
いつもの茉凜ではなかった。軽口も、余裕もない。ただ、『繋がった』ことへの安堵だけが、剥き出しで揺れている。
わたしはすぐには言葉を返せなかった。
剣身に触れたまま、指先だけで茉凜の声を受け止める。指の腹に伝わる微かな脈動が、少しずつ、少しずつはっきりしてくる。茉凜が戻ってきている。声が、こちらへ近づいている。
「……ごめんね」
《《もういいって。こうしてまた声が聞けた……それだけでさ》》
怒っているようで、安堵しているようで、そのどちらも隠しきれない声だった。
「ひとりぼっちにして、ごめん」
《《だから、もういいって言ってるでしょ。はいはい、もうこの話はおしまい。切り替え切り替え。それより、動ける? 身体、ちゃんとある?》》
ちゃんとある、という聞き方が、茉凜らしかった。
「馬鹿言わないで。あるに決まってるじゃない。わかってるくせに。全身痛いけど、ちゃんと動くわよ」
言い返しただけで、胸の奥が小さく軋んだ。強がるための息さえ、まだ浅い。それでも、茉凜にそう言えることが、いまは必要だった。
《《そっか……口の方は元気みたいだね。落ち着いたらでいいから、骨が折れてないか確認しよ。たぶん打ち身だけだと思うけど》》
その声は、もういつもの距離まで戻っていた。まだ少し震えている。けれど、さっきより確かに近い。
「うん……」
わたしはマウザーグレイルを抱きしめた。
冷たい剣身が、頬と首筋に触れている。硬く、ひやりとしていて、少しも身体に馴染まない。なのにその冷えが、いまはどんな毛布よりあたたかく感じた。
しばらく、そのまま草の上で動けなかった。
朝の光が少しずつ強くなっていく。空の縁の桃色が、金色に溶けはじめている。風が草原を渡り、乱れた髪をかすかに揺らした。その風のなかに、土と露と、遠くの花の匂いが混じっている。
生きている、と思った。
そのことだけが、ひどく重かった。
◇◇◇
背後から足音がした。
風が草を揺らす音にひどく近い、控えめな気配だった。
けれど、身体は先に反応した。荷馬車の中で刻み込まれた恐怖が、まだ背骨の芯に残っている。痛む腕でマウザーグレイルの柄を握り込み、草の上から半身を起こす。
指先は震えていた。握れてはいる。でも、剣を構えるだけの力が残っているかどうかは、自分でもわからなかった。
朝の光の中に、人の輪郭が立っていた。
逆光で、最初はただの影にしか見えない。背が高い。歩幅は大きすぎず、こちらが起き上がるのを待つように速度を落としている。
足音を、わざと消していない。
その一歩ごとの置き方で、驚かせないためなのだとわかった。さらに、あと数歩のところで立ち止まり、こちらが剣を握っているのを見ても、距離を詰めてこない。
急がせない。触れてこない。
その二つだけで、喉の奥に固まっていた息が、ほんの少しだけ動いた。
この人は、わたしが怖がっていることを、見なかったふりにはしないのだと思った。
逆光がやわらぎ、ようやく顔が見えた。
若い男だった。
最初に目に入ったのは、白に近い淡い髪だった。風が触れるたび、朝の光を含んで、かすかに銀へ寄る。長めの髪は肩のあたりでやわらかく流れ、額へかかる前髪まで、どこか作りものめいて整っている。
けれど、冷たくはなかった。
整った顔立ちより先に、足の止め方が目についた。こちらの剣を見ている。それでも踏み込まない。声をかける前に、わたしが息を吸えるだけの距離を残している。
白い肌。静かな輪郭。弱々しいわけではないのに、線の細さの奥に、育ちのよさで磨かれた芯のようなものが薄く通っている。
そして目。
朝の光を受けたその瞳は、赤とも紫ともつかない色をしていた。紅をひとしずく垂らした玻璃みたいに澄んでいて、見つめられているのに圧がない。ただ、こちらを不用意に追い詰めまいとする気遣いだけが、やわらかく滲んでいる。
外套は仕立てのよい濃紺で、旅装に近い形なのに、布の落ち方ひとつまで乱れがない。襟元の白は朝露にも崩れておらず、その佇まい全体が、どこか絵物語から抜け出してきた人のようだった。
それでも、目に残ったのは美しさそのものではない。
こちらへ近づきすぎず、怖がらせないように立っている、その距離の取り方だった。
彼は、あと二歩ほどの距離を守ったまま立ち止まった。こちらの手にある剣を認めても、構えを変えない。ただ、ほんのわずかに首を傾げて、こちらの顔をまっすぐ見た。
「やっと目が醒めたみたいだね。大丈夫?」
声は低すぎなかった。高くもない。丸みを帯びた、耳に刺さらない声だった。
乱暴さはない。けれど、甘やかすようでもない。その落ち着きだけで、朝の空気の質が静かに変わるのがわかった。
わたしは剣を握ったまま、答えられなかった。
声が出ない。喉が乾きすぎていた。唇が割れていて、舌の裏には鉄の味が残っている。
「無理に話さなくていい。水、持ってきてあるから」
そう言って、彼は腰に下げていた革の水筒をゆっくり外した。
手渡すのではなく、こちらの手の届くところへ置く。触れない。距離を崩さない。そのささやかな気遣いが、いまのわたしにはひどく大きかった。
わたしは水筒を見つめた。
しばらくして、マウザーグレイルを握っていない方の手で、そっと持ち上げる。革の表面は朝露でうっすら湿っていて、ひんやりしていた。
口をつける。
水が喉を流れ落ちていく。冷たくて、少しだけ甘みがあった。身体の内側を、細い筋になって降りていく。その一口で、世界がほんのわずかだけ、こちら側に戻ってきた。
「……ありがとう、ございます」
掠れた声が、ようやく出た。
彼はほんの少しだけ目を細めた。笑みというより、安堵に近いものだった。
「僕の名はラウール。君を見つけたのは、夜明け前のことだった」
その言い方に、余計な装飾がなかった。
何者であるかを先に名乗り、必要なことだけを、こちらが受け取れる速度で置いていく。
「荷馬車の残骸が道の脇に落ちていて、君はそこから少し離れた草むらに倒れていた。その剣を、両腕で抱えたままだったよ」
剣を、両腕で抱えたまま。
その一言に、指先がかすかに震えた。
意識がなかったはずなのに、マウザーグレイルを離さなかった。いつ取り戻したのかもわからない。けれど、あの闇の底で最後に伸ばした指先が、どこかで届いていたのかもしれない。
「馬も、男たちの姿もなかった。君だけが、そこにいた」
ラウールはそれだけを言い、黙った。
問い詰めもしない。事情を急いて聞こうともしない。ただ、こちらが息を整えるのを待つように、朝の光の中に静かに立っていた。
風が、草原を長く渡っていく。
《《……美鶴。この人……》》
茉凜の声が、そっと届いた。まだ小さいけれど、もう遠くはない。
《《……悪い人じゃなさそう。でも、気をつけて》》
うん、とだけ胸の中で返した。
ラウールの赤紫の瞳が、朝の光を受けて静かに揺れている。
整いすぎた顔立ちより、その距離の取り方のほうが、ずっと長く目に残った。
穏やかで、透き通っていて、けれどその奥にあるものを、わたしにはまだ読めなかった。




