消えたいわたしと、消えない背中
闇の底で、意識が千切れた。
千切れた、と思ったのに、痛みは来なかった。
代わりに浮かび上がってきたのは、もっと古い痛みだった。臓腑の奥を、薄い刃がゆっくり撫でていくような、あの不快な感触。精霊子の器を拡げ続けた八年の果てに、肉体が受容結晶体へ変質していったころの記憶だった。もう終わったはずのもの。もう、この身体の記憶ではないはずのもの。それなのに、背骨の芯が、たしかにそれを覚えている。
――そうだった。精霊子の受容部――大脳辺縁系が暴走すると、こうなる。忘れたいものから順に、容赦なく引き摺り出されてくる。
呼吸が浅くなる。いや、呼吸をしているのかどうかすら、もうよくわからない。荷馬車の板の冷えも、油の匂いも、男たちの声も、みんなひとつ向こうへ退いていく。代わりに耳の奥を満たしていくのは、ずっと昔、夜ごと聞かされた音だった。
結晶が、皮下で軋む音。
鎮痛薬を増やしても、波が止まらなかった夜があった。天井の染みを数えながら、まだ生きているのかどうか確かめたくて、自分の指を噛んだ。血の味がした。
ああ、まだここにいるのだと、その苦さでようやく思えた。あれは十七の冬だったか、十八の春だったか。もう数えたくもないのに、身体だけが勝手に数えている。
――やめて!
喉でそう叫んだはずなのに、声にはならなかった。声にするための喉まで、もう自分のものではないみたいだった。
黒鶴の呪いは、外から覆いかぶさってくるものではなかった。内側から、湧いてくる。鎖骨の裏から。肋骨の隙間から。みぞおちの底から。わたしの記憶を使って、わたしの感情を使って、わたしの言葉で這い上がってくる。
――あなたの力は、壊すためのものでしょう?
それは、わたしの声だった。誰かに責められているのではない。わたし自身が、いちばん深いところでそう囁いている。
――違う。
違う、と返したいのに、否定の言葉がひどく重い。否定できるだけの根拠を、いまの身体は持っていなかった。
さっきまで〈場裏・赤〉を脅しに使い、〈場裏・黄〉で足場を狂わせ、最後に〈場裏・白〉へまで手を伸ばそうとした。壊さないように使ったつもりだった。それでも結果はこうだ。安全装置もないまま深淵の力を重ねて、いま自分が壊れかけている。
――ほら。結局、壊すことしかできない。それがあなたの本質よ。いまさら違うなんて言えないでしょう。抗うなんて、疲れるだけじゃない? 楽になろうよ。
その声に、身体が従いそうになる。手足が冷えていく。指先の感覚が薄れていく。なのに頭の中だけが熱い。沸き立つように熱くて、それが怒りなのか、悲しみなのか、もう自分でもわからない。
次の層が剥がれるように、記憶がせり上がってきた。
弓鶴の顔。弟の、あの穏やかな顔。次に浮かんだのは、母の背中だった。メイレアではない。前世の母――紫鶴。屋敷の窓辺に立ち、外を見ていた背中。わたしの名を呼ばなかった。呼べなかったのか、呼ばなかったのか、いまだにわからない。ただ、あの後ろ姿だけが、冷えたまま記憶に残っている。
――あなたは、いつもそうだったじゃない。昔も今もそう。少しも変わっていない。
わたしの声が、わたしを裁いていく。
――大事なものを、手を伸ばしたぶんだけ壊す。それがあなたよ。お祖父さまのそばにいたいと願ったくせに、勝手にひとりで抜け出して、攫われて、力を暴走させて。結局いちばん近くにいる人を、いちばん遠くへ押しやる。いかにもあなたらしいわ。なんて無様なのかしら。
反論できなかった。事実だからだ。
――茉凜、たすけて……。
茉凜の声が、聞こえない。
呼んでいるのか、呼んでいないのか、それすら曖昧になっている。マウザーグレイルが手元にない。安全装置が、ない。余剰精霊子を逃がす先がないまま、流れ込み続ける精霊子が大脳辺縁系を押し潰していく。
ふだんなら、茉凜の声が遠くからでもひとすじだけ届く。あの声が、精霊子の奔流の縁を薄くして、わたしを呑まれる直前で引き留めてくれていた。
いま、それがない。
《《み……つ……》》
聞こえた、ような気がした。水の底から、何かが浮かび上がってくるみたいに。けれど音はすぐに溶けて、意味になる前に消えていく。手を伸ばしても届かない。柄に触れたのに握れなかった、あの指先の感覚と同じだった。そこにあるのに、掴めない。
――茉凜。
名前だけが、頭の中でかすかな光になる。けれど声にはならなかった。
呪いは、そこを迷いなく抉ってきた。
――あなたが大事にしているものってなに? 数えてみなさいな。茉凜? お祖父さま? それともヴィル? 守りたいとか言って、あなたは結局危険を押しつけているだけじゃない。あなたみたいなのは、そばにいるだけであの人たちを傷つけるの。いい加減、気づいたらどう? ひとりぼっちのほうが、よほどましじゃない。
「やめて。やめてよ」
――否定しても無駄よ。あなたは壊す。大切なものを巻き込んで。それがあなた。ソレイユの前で虹を見せたとき、きれいだと言われたとき、嬉しかった? でもね、どんなに誤魔化しても根っこは同じものなのよ。認めなさいな。あなたはいつも、きれいごとで塗りつぶして、言い訳してるだけなんだから。
知っている。そんなことは、とうに知っている。わたしがろくでもない人間だということも、たくさんのものを壊してきたことも、嘘ばかり重ねてきたことも。
視界が、赤黒く染まっていく。墨と血を混ぜたような色が、縁からじわじわ食い込んでくる。耳鳴りが細く、高く、止まらない。鼓膜の奥で、前世の記憶と現在の恐怖がひとつに重なり、時間の境目が溶けていく。
結晶体に変質していく自分の体。
鎮痛薬を流し込んだ苦い水。
天井の染み。
弓鶴の無垢な笑顔。
母の背中。
お祖父さまの、一瞬だけ歪んだ顔。
茉凜の声が、届かない。
全部が一度に来る。全部が同じ重さで、わたしを底へ沈めようとする。
――もういや。もう消えたい。消えてしまったほうがいい。わたしなんか、いなくなってしまったほうがいい。
膝が落ちた。触れたのが荷馬車の板なのか、闇の底なのか、もうわからない。頬に冷たいものが当たっている。脈が遠い。呼吸が、どこかへ行ってしまっている。
――このまま沈んだら、楽になるのかもしれない。でも……。
その囁きは、いちばん底から来た。いちばんやさしい声で。いちばん冷たい手つきで。
――いやだ。
声にはならなかった。でも、たしかにそう思った。いやだ。まだ、いやだ。
楽になりたいわけじゃない。沈みたいわけでもない。ただ、身体が言うことを聞かないだけだ。
まぶたの裏に、何かが見えた。
闇ではなかった。赤でも黒でもなかった。
ヴィルの後ろ姿だった。
言葉はなかった。振り返りもしなかった。ただ、そこに立っていた。金の髪が、どこからか届く薄い光を受けて、首筋の下でかすかに揺れている。無精髭の線。少しだけ丸まった肩。外套の裾が風を受けて、膝のあたりでたわむ形。
あの人は、何も言わない。
いつもそうだ。いちばん大事なことを、あの人は言葉にしない。代わりに、そこにいる。わたしが崩れても、逸れても、間違えても、ただ黙って立ち続ける。
その姿が、いま見えている。
手を伸ばしたら届くかもしれない。でも、伸ばせない。指が動かない。力が入らない。さっき、柄に触れたのに握れなかったのと同じだ。すぐそこにあるのに、届かない。
けれど。
あの背は、遠ざからなかった。
闇の中にいるのに、その人影だけが動かない。近づきもしない。遠ざかりもしない。待つでもなく、呼ぶでもなく、あの人が消えずにいるということだけが、沈みかけた意識の底で、ひとつだけ確かなものになっていた。
――ヴィル。
名前を胸の内で呼んだ。声にはならなかった。
その名を抱いた瞬間、沈みかけていた身体が、ほんのわずかに前へ傾いだ。追いつけるはずがない。そんなことはわかっている。それでも、追わずにはいられなかった。肘が床板を擦り、肩の奥が軋む。爪の先が木肌に引っかかり、身体を引き寄せようとするのに、たったそれだけの動きさえ遠い。
それでも、あの人へ近づきたかった。置いていかれたくなかった。振り返ってほしいのではない。ただ、そこにいるあなたへ、まだわたしは手を伸ばしているのだと、それだけでも伝えたかった。
「待って……」
掠れた声は、息に紛れるほど小さかった。あの人は振り返らない。けれど、消えもしない。ただそこにいる。そのことが、沈みかけていた意識の底を、かえって鋭く揺らした。
置いていかないで。そう続けたかったのに、喉がうまく動かなかった。肋の内側でせり上がったものは、願いではなく、先に後悔のほうだった。
「ごめん、ヴィル……」
かすかな声が、ようやく唇からこぼれた。追いつけなかった後悔ばかりが、肋の内側で渦を巻いている。
「ごめんなさい……」
最後の声は、ほとんど息だった。
まぶたの裏で、ヴィルの影がまだ残っている。何も言わない。振り返らない。でも、消えない。
指先に、何かが触れた。冷たくて、硬くて、知っている感触。板の上に転がった何かの角。木か。鉄か。鞘の――
違う。マウザーグレイルではない。ただの木箱の破片だった。
それでも、その硬さに触れた瞬間、指が一本だけ動いた。
一本だけ。
それだけだった。それだけなのに、沈みかけていた底のほうで、何かが変わった。
指が動いた。
まだ、動く。
動くなら、まだ終わっていない。
呪いの声は止まない。記憶は渦を巻いたまま。視界は赤黒く、耳鳴りも消えず、茉凜の声も届かない。
それでも、指が動いた。
その、たったひとつを頼りに、わたしは闇の底で、まだ呼吸をしている。




