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馬車の闇に啼く黒き翼

「へっ……どうした? さっきの威勢はどこへ行った?」


 髭面の口端が、いら立ちにわずか歪む。わたしは視線だけを浮かせ、まぶたの陰で気配を読む。ここで言葉を返せば、それが合図になる。沈黙のまま、間合いごと凍らせるしかなかった。


「そちらこそ。わたしを並みの魔術師と思わないことね。べつに炎や水だけにこだわる必要はないのよ。複数の属性を同時に行使できる──それがわたしの真髄なんだから」


 息を細く吐き、意識を足裏へ沈める。車輪の真下へひろがる“地”の重みが、板越しにじんと伝わってきた。


 掌の先では〈場裏・赤〉が赤く脈を打っている。そのまま赤を崩さず、わたしは意識だけを足裏へ落とす。荷馬車の進む先、片輪が次に踏むはずの地面へ、ごく薄い〈場裏・黄〉を滑り込ませた。男たちに見えているのは赤だけ。けれど、本当に動かすのは黄のほうだった。


――赤はブラフ。黄は妨害。


 並行運用は負荷を跳ね上げる。けれど、この一手なしに解はない。


――〈場裏・黄〉なら、床下を突き上げることはできる。でも、それじゃ駄目だ。


 走る馬車が傾けば、男たちだけじゃない。馬も、御者も巻き込む。そんなやり方は取れない。


――揺らすだけでいい。足を止める一拍だけ奪えれば。それで……。


 足裏へ落とした意識のまま、黄の領域へそっと重みを送った。


 外では馬がいななき、幌の向こうで御者の怒声が裂ける。男たちの目が戸惑いに揺れ――その瞬きの間に、地がかすかにざわめいた。


 どすん、と片輪が石を噛み損ねたみたいに沈み、荷台が一拍だけ跳ねる。湿った板がきしみ、油と埃の匂いが立った。髭面と痩せた男の膝が、揃って遅れる。


 わたしは背中で木箱の角を受け、重心だけを滑らせて揺れを逃す。本気で突かせれば、床板ごと貫ける。だからこそ、力はそこまで上げない。いま欲しいのは破壊じゃない。足場を奪う、その一拍だけだ。


「お、おい……今、何しやがった!?」


 髭面の声が震え、痩せた男は汗ばんだ掌で短剣の柄を握り直す。狭い荷台の空気は揺さぶられたまま、わたしの掌には赤の脈だけが静かに残っている。攻勢の合図を、恐れが押し殺していた。


 突き上げの重みがわずかに引き、夜の静けさが戻る。けれどそれは表面だけだ。〈場裏・黄〉はまだ床下で息を潜めている。呼吸を薄く整え、次の脈をいつでも解ける位置で止める。幌布が寒風で擦れ、金具が乾いた音を返した。


「おい、答えろ。お前一体何をした……!?」


 髭面の喉は乾き、声が擦れる。痩せた男は突きを狙いながら、足場の揺れに腰を落とす。大柄な男は「それだけは渡さない」と言わんばかりに鞘を両腕で抱え、額に粒の汗を浮かべていた。


 床下でうねる重みが、木板へ鈍く伝わる。三人の呼吸が空気を重くする。


「わたしだって、こんな乱暴な手段は取りたくないわ。あなたたちが素直に諦めて、剣を返してくれるなら……何も起こらずに済むのだけどね」


 落とした声に、二人の頬がこわばった。揺れをようやく現実として呑み込み始めた顔だ。〈場裏・黄〉は大味で強い。だからこそ、乱暴に使えば全部を巻き込む。曽良木信十郎の流儀が、足裏の下で重く唸っていた。


――リスクは承知。茉凜を取り戻す。それが今のわたしのすべて。


 御者が異変に気づいたのか、速度が落ちる気配がある。止まる前に決める。〈場裏・赤〉は胸の前で火種に押さえ、〈場裏・黄〉は足裏から大地へ鼓動を送り続ける。二重の負荷がこめかみの裏でうるさい。それでも、ここで引けばすべて空になる。


「くそっ……化け物め……!」


 痩せた男の声には怒りと恐怖が混じっていた。三人は柱や壁へ手をやり、体勢を辛うじて繋ぎ止めている。


――馬車は、いつ止まってもおかしくない。


 止まることが安全とは限らない。蜘蛛の糸を歩くみたいな足裏に、白い鞘の塗りがちらつく。足裏へ、もう一段だけ重みを落とした。時間は、こちらにない。


「……こんな状況で火の魔術を保ち、同時に地を揺るがすなんて芸当――聞いたこともねえ! 一体何者なんだ……お前は……!」


 鼓動が耳の奥で太く鳴る。退路はない。だから、名を置く。


「いいわ、教えてあげる……。父は閃光の騎士ユベル・グロンダイル。母は精霊の巫女メイレア。わたしの名はミツル――『深淵の黒鶴』を操る精霊魔術師よ」


 喉の芯へ自分の名がすとんと落ちる。目の裏で、何かが定位置に戻った気がした。


「ユベルって、あの閃光の!?」


「誘拐されたっていうメイレア王女の、娘か!? マジかよ……グロンダイルってのは、そういうことだったのか!?」


 名を告げた刹那、荷台の空気が沈む。刃の先で汗が一滴、つっと滑り、幌布が小さく鳴った。


「精霊……魔術だと!? ば、ばかな! そんなもの、おとぎ話の類いだろうが……!」


 罵声の縁に怯えが混ざる。短剣の震えは隠しきれない。


「信じられないのは当然でしょうね。じゃあ……続けさせてもらうわ」


 冷ややかに響いた自分の声に、吐息の白さが薄く重なる。荷台の底で〈場裏・黄〉がもう一度だけうねり、片輪が石へ乗り上げたみたいに車体が傾いだ。梁が悲鳴めいて軋み、その震えが背骨を伝う。


 嫌な音のあと、床板がぱきりと鳴る。髭面が本能で足を引いた。まだ何も貫いてはいない。ただ、車輪の下へ返した揺れが、荷重の偏りを乱しているだけだ。それでも、その不安定さは十分に“次”を予感させた。


 この危うさは、誰よりもわたしが知っている。けれど、止まれない。冷たい息を肋の下まで入れ、見えない先の一点を描く。油と埃が喉に張りつき、舌の縁に鉄の味が滲んだ。


「ちくしょう……! 本気でやる気か、こいつ……!」


「ふざけんな、死にたいのかよ!?」


 荒い息の隙間を罵声が裂く。意識が一瞬でも乱れれば制御は崩れ、わたし自身が巻き込まれる。それはわかっている。わかったうえで、それでも怯めない。茉凜に届くには、ここで賭けるしかない。


 大柄な男が険しい面持ちで鞘を一瞥する。状況は崩れかけている。彼らだって無事では済まないはずなのに、その眼に降参の色はない。憎悪と焦りが混ざり、研がれた殺気が肌を粟立たせた。


「こうなったらもう、叩き伏せるしかねえ。依頼主には悪いが、無傷とはいかねぇ!」


 吠えると同時に、鞘を左腕へ抱えたまま、巨体に似合う拳が振り下ろされる。狭い荷台でも、質量はそのまま刃だ。わたしは反射で腰を落とし、紙一重で躱した。直後、背の木箱が轟音とともに砕け、鋭い破片が耳元を掠めて風を裂く。火の粉みたいな木屑が頬へ刺さった。


「っ……危ない……!」


 浅い痛みとともに、温い血が頬を伝う。心臓がどくりと跳ねる。退こうにも髭面が壁のように塞ぎ、痩せた男は短剣を逆手に構えて詰めてくる。油の匂いが濃く、汗の塩気が鼻を刺した。ここで手を緩める余地はない。


 絶対に、茉凜を取り戻す。その一念だけが四肢を支えていた。


 わたしは〈場裏・赤〉を起こそうと意識を切り替える。だが、黄の揺れを落とし切れていない指先に地の余韻が絡み、赤の立ち上がりが鈍る。


 一拍の遅れ――痩せた男の突きが肩先を掠めかけた瞬間、馬車そのものがぐらりと揺れた。板が鳴り、彼自身が足を取られて前へ躓く。


「ちっ……また揺れやがった! どうなってんだ!」


 御者が手綱を強く引いたのだろう。前輪の甲高い悲鳴が鼓膜を刺し、馬のいななきが隙間から吹き込む。


 荷台の空気が前へ押し出され、わたしたちはまとめて弾かれた。わたしは砕けた木箱の縁を掴んで転倒を免れ、痩せた男の刃は虚空を切る。髭面と大柄の二人も、柱へしがみついてようやく踏みとどまった。


 赤はそのまま保つ。黄の波を静め、次の一撃に必要な一点だけへ絞る。呼吸と鼓動を揃え、視界の端で揺れる灯の色まで計算に入れる。熱を欲しがる掌の裏で、床下の震えが微かに落ちていった。


――好機。


 体勢が戻る前の刹那。減速。外は近い。問題は白い鞘と、大柄な男の両腕。


 正面からでは膂力で負ける。拳が先に来る。だが、奪わずには終われない。


――腹を括れ。


 〈場裏・黄〉をもう一度だけ底から呼ぶ。車輪の下へ揺れを返し、片側の荷重をわずかにずらす。隙が生まれるなら、その一拍で奪う。危険は承知。けれど、まだ壊しはしない。猶予はない。


 揺れる箱の中で細工の時間はない。奥歯を噛み、足裏から地へ祈りを落とす。


「……何度も言わせないで。剣を返してちょうだい。そうすれば、あなたたちも死なずに済むんだから」


 鉄の味が唇に滲む。肩で息を刻みながら、大柄な男の瞳孔の開きをまっすぐ射抜く。疲労は見える。だが契約か意地か、執念が光を呑み込んでいる。


「誰が……渡すもんかよ……!」


 唾が飛ぶ。わたしは熱塊を一気に突き出し、視界の中心を眩ませた。男の上体が反る。その隙に、足裏から地の揺れを返す。どすん、と片輪が沈み、荷台が斜めに跳ねた。


「お、おい! 本気で馬車ごとブチ壊す気かよ!? さすがにまずいぞ」


 髭面が悲鳴じみる。木がきしみ、底の冷えが足下を揺らす。痩せた男の顔色が抜け、短剣が下がった。


 逃げ道はない。わたしはぐらつく床を踏みしめ、赤の明滅で薄闇を満たす。怯えるのは、どちらか。


「なら、さっさと降参しなさい!」


 暴発は覚悟のうち。外からいななきと怒鳴り声。箱が大きく跳ね、片膝が板に落ちる。視線だけは外さない。白い鞘が、赤の明滅を微かに映している。


「……ぐっ、こいつ、なんてしぶとさだ……!」


 大柄な男が歯を食いしばる。負荷の術を絶やさないわたしへの苛立ちが、声になって零れた。わたしは、退かない。


 片輪がまた沈み込み、荷台は大きく傾いだ。木板が嫌な音で鳴り、柱へしがみつく手が一斉に強張る。均衡は、もうぎりぎりだった。


「わかった……わかったから、もうやめろ! その怪しい魔術を止めてくれ……!」


 痩せた男が短剣を投げ捨てた。壁へしがみつく頬は恐怖と諦念で固まり、髭面は唇を噛んで声を呑む。


 ただ一人、大柄な男だけが拒む。汗に濡れた前髪を跳ね上げ、鞘を胸に抱いたまま、険しい目だけが鋭かった。


「……くそっ、誰がお前みたいなガキなんかに、屈するものか……!」


 執念の色に喉が冷える。


 大柄な男が鞘を床へ乱雑に置き、両拳を振りかぶる。最後の突撃。まともには受けられない。反射で極小の〈場裏・白〉を呼び、頭の内側で大気炸裂を組む。間に合わせる――足裏からの〈場裏・黄〉を刹那だけ断ち、白へ転換。


 その時、馬車が大きく跳ね、視界が歪む。大柄な男の軌道が崩れ、こちらへ乱暴に流れて――


「ぎゃああっ!」


 地を噛むような衝撃。幌越しの揺れが背骨を貫き、いななきが裂ける。ぶつかった何かの鈍い手応えに、心臓が跳ね上がった。


 最悪のタイミング。術の展開と拳の一撃、その刹那の停車。


 わたしはそこで、使いすぎたのだと悟る。


――ああ、なんて皮肉なのだろう。


 あれほど忘れ去っていたはずの「黒鶴の呪い」が、わたしを蝕みはじめるなんて。底冷えする嫌悪が深海の闇から這い上がるように、ゆっくり、容赦なく意識を浸しにかかる。


 力を使うほど、背後で待ち構えていた代償が姿を見せる。


 デルワーズに刻まれた因子。呪いと呼ぶしかなかったもの。


 底なしの器であっても、流れ込む精霊子を受け止める場所は脆い。大脳辺縁系が、もう縁を踏んでいた。


――やっぱり、来てしまった。


 転がる床で身体が流れ、突き飛ばされた鞘と、大柄な男の歪んだ顔が斜めに入る。呼吸を整えようとしても、黒鶴の圧が巨大な掌みたいに思考を押し潰す。


 圧は心臓を締め、視界を赤く染める。鼓膜の向こうで細い耳鳴りが伸び、視野の縁が墨みたいに欠けていく。焦燥が背を灼き、悔しさと孤独が胸を締め上げる。虚無は波のように押し寄せ、抑え込んだ負の記憶が、深い闇の底へわたしを引きずる。抗う力は、もうほとんど残っていない。


――嫌。こんなの、絶対に嫌。


「どうして……? わたし、やっとここまで来たのに、どうして……」


 深淵に飲み込まれて、このまま破壊の権化――本物の化け物になるのだろうか。もう二度と、茉凜の無邪気な声を聞けないのだろうか。


 最悪の渦に呑まれかけた内側に、ふっと浮かぶ。不器用で、どこまでもやさしいヴィルの笑顔。夜の星みたいな青が細い光を放ち、乱れた呼吸の奥へ届く。


――ヴィル……。


 どれほど底へ引かれても、その光へ手を伸ばす。けれど恐怖と痛みが蔦のように足元へ絡みつき、離れない。


「ごめん、ヴィル……わたしもう戻れない。わたしが悪いの。あなたが必要だって、ほんとうはわかっていたはずなのに……勝手に先走って、こんなことに……ごめんなさい……」


 いまさら言葉にしてもどうにもならない。追いつけない後悔だけが渦を巻き、熱と冷えが交互にせり上がってくる。



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