小娘と呼ぶなかれ
荷馬車の内側には、揺れの合間にしか生まれない、ひどく薄い静けさが張っていた。男たちの呼吸は浅く、ランタンの灯は頼りなく明滅し、板壁の隙間から入り込む夜気が、熱を失った頬を撫でていく。わたしは背を低く保ったまま、視線だけで三人の立ち位置をなぞった。前へ出てきているのは髭面と痩せた男。いちばん奥で一歩退いている大柄な男の腕に、見慣れた白い鞘が抱え込まれている。
喉の下が、ひりつくように熱を持った。
――あれだ。
離宮へたどり着いてから新調したばかりの鞘は、飾り気こそないが、上等な素材だけが持つしっとりとした光沢を、揺れる灯の下で鈍く返している。その奥に、茉凜がいる。
――早く、取り戻さなくては。
そう思った瞬間、焦りが胸の内側をひっかいた。けれど、ここで突っ込めば終わる。低い天井。狭い荷台。真正面から組みつかれれば、体格差だけで押し潰される。まずはひるませる。ひと息ぶんでもいい。視線と足を止めさせ、その間に鞘まで届く道を作るしかない。
「どうやってロープを解いたのかは知らんが……ここまでだ。小娘風情に何ができるってんだ」
髭面が吐き捨てる。痩せた男は短剣を抜き、刃先でこちらを測るように揺らした。大柄な男だけが、鞘を抱き込む手を強くし、無意識に半歩ぶん退いている。
わたしは荷台の隅へじり、と身を引く。背中に木箱の角が触れた。指先がその固さを確かめる。
「大の大人が小娘、小娘って、そんなにわたしが怖い?」
自分でも驚くほど声は静かだった。怒鳴り返したいわけではない。ただ、相手の神経に爪先をひっかけるみたいに、わずかでも意識を乱してやりたかった。
「……なんだと?」
「さっきはロープを切るために、目立たないようにしただけよ。でも、ここからはそうはいかないわ。手加減する必要なんてないもの」
「ふん……どう違うってんだよ。言ってみろ」
髭面が口の端を歪める。けれど、踏み込み切れずにいる。短剣の切っ先も、さっきよりわずかに低い。
――〈場裏・白〉で荷台ごと吹き飛ばすことはできる。でも、駄目だ。
走る馬車から叩き落とせば、骨折では済まないかもしれない。死なせるために戦うのではない。
――いまなら、〈場裏・赤〉を見せるだけで止まる。
そう判断したときには、もう覚悟は決まっていた。『あれ』がないまま〈場裏〉を重ねるのは危うい。喉の下にはまだ青の残響が残り、手足の痺れも完全には抜けきっていない。それでも、ここで怯めば鞘は戻らない。
「その前に、この子にご挨拶しておいたほうがいいわね。――おいで、場裏・赤」
呼びかけと同時に、掌の少し先へ〈場裏・赤〉をごく小さく展開する。
丸く見えるのは、その形へ押し縮めているからだ。内側で煮えているのは、火そのものではない。熱を抱え込んだ空気だった。領域の中でだけ赤いゆらぎがどろりと脈を打ち、ランタンの灯をひしゃげたように揺らしている。外へはまだ何ひとつ出していない。ただ、次に解き放てば厄介だと、そう思わせるには十分な見え方だった。
「うげっ……!?」
「な、なんだ……その厄介そうな火の玉は……!」
男たちの呼吸が揃って止まる。頬の汗がひと筋だけ光り、痩せた男の喉仏が上下するのが見えた。さっきまでの軽侮が、一息で警戒へひっくり返る。
長く保つ必要はない。ひるませるだけなら足りる。
「これ? わたしの手札のひとつよ。きれいでしょ」
「てめぇ……そいつは魔術なのか? どういう手品だ。いつ詠唱した?」
「詠唱って? わからない? そんなもの必要ないのよ」
短剣を握る痩せた男の手が、わずかにぶれた。
「なんだと!?」
「あら、いい反応。ねぇ、この玉の中に閉じ込めたものを解き放ったら、いったいどうなると思う?」
「じょ、冗談じゃねえぞ……! お前、まさかこの狭い荷台で火を撒き散らす気か?」
髭面の声が一段ひきつる。わたしはそれに答える代わりに、領域を少しだけ高く持ち上げた。熱の揺らぎが男たちの顔の上を撫で、天井の布を鈍く照らす。布そのものは何ひとつ変わらない。けれど、次の一瞬に解放されるかもしれない――そう思わせるには十分だった。
踏み込んだその瞬間に、すべてを吐き出されるかもしれない。
その予感を、男たちの身体のほうが先に理解したらしい。短剣の切っ先が止まり、髭面の肩がぴくりと強張る。
「だったら、おとなしくしていなさい。わたし、まだ本気を出してないんだから」
言いながら、わたしはじり、と横へずれる。鞘を抱えている大柄な男から目を離さない。あいつだけは、赤よりもマウザーグレイルのほうを気にしている。だからこそ、動きが遅い。
「ちっ、黒髪のグロンダイルってのはこういうことか」
痩せた男が吐き捨て、半歩ぶん下がる。髭面は舌打ちしながらも、手を出せずにいる。大柄な男は鞘を胸へ抱え込むみたいに身をかがめ、わたしの足先をじっと見ていた。
「……だから言ったじゃない。わたしを侮らないでって」
――〈場裏〉の持続は負荷が強い。器はまだ耐えられても、流れ込んでくる精霊子の圧が大きすぎる。辺縁系が軋めば、痛みだけじゃ済まない。
額にじっとりと汗が滲む。ここで本当に暴れさせれば、わたしもただでは済まない。だから、これは脅しだ。けれど、脅しとしては十分すぎるほど効いている。
荷馬車が大きく軋み、外で馬の嘶きが重なった。御者の怒声。車輪が石を噛む音。揺れが一瞬だけ深くなる。
今なら、視線がぶれる。
「さあ、剣を返しなさい。でないとなにもかも燃えるわよ。それとも、それがお望みかしら?」
髭面の顔が苦々しく歪む。痩せた男は短剣を構えたまま動けない。大柄な男だけが、鞘を盾のように抱え込み、ぎり、と奥歯を鳴らした。
――そこだ。
けれど、焦って踏み込めば、逆に捕まる。わたしは領域をわずかに絞り、いつでも領域部分解放へ移れるよう、掌の感覚を整える。床へ向けて吐けば、熱の噴きつけだけでも一瞬の混乱は起こせる。その一拍で、鞘を奪う。
「……ふん、できるわけがない。おまえ、どうせ大事な剣が焦げちまうのが嫌なんだろう?」
大柄な男が、鞘をわざと揺らしながら吐き捨てる。喉がひきつった。けれど顔には出さない。
「それは心配には及ばないわ。なにせ何をしたって壊れないし、火床に落とそうが溶けもしないんだから。あなたたちを丸焼きにしたところで、一向にかまわないのだけれど……」
本当は、そんな賭けをしたくはない。けれど、わからないものを前にした怯えは、理屈より先に手足を止める。
「……このっ……生意気な小娘め」
痩せた男が踏み込みかける。髭面も同時に腰を落とした。大柄な男は鞘を抱いたまま、揺れる荷台の中で足を張っている。三人とも、互いの動きを待っていた。赤が怖い。けれど、このままでは押し切られる。そうわかっている顔だ。
「ほら、また小娘って呼ぶ」
わたしは領域をひとまわりだけ大きく見せる。灯が、ぱちり、と乾いた音を立てた。誰も動かない。男たちの陣形が、そこで初めて凍りつく。
躊躇しているのは、向こうも同じ。
ならば、わたしが先に踏み込むだけだ。
負荷が肌の内側をざらつかせ、肋の下まで焼けるように痛んだ。長くは持たない。もう、これ以上の駆け引きに使う余裕はない。次の揺れで、奪う。
「いいこと? わたしの力は魔術とは違うの。詠唱も魔石も要らない。言っておくけど、これでもまだ最小限よ。かわいそうだから、これでも抑えてあげてるの」
わざと理屈と演技を混ぜてやる。理解の及ばない言葉は、それだけで相手を鈍らせる。髭面の眉がぴくりと動き、痩せた男の舌打ちが止まった。大柄な男だけが、黙ったまま鞘を抱きしめている。
「とんだ化け物だ。こいつめ」
「さて、どうしようかしら。ここで派手にぶちまけてしまおうかしら」
掌の内側で熱をゆっくり回転させる。赤く煮えた領域の中で、どろりと揺らぐ熱の像が脈を打ち、硬質な火花めいた光がぱちりと弾けた。
「お、おい……やめろって。こんな狭い荷馬車の中で火をぶちまけたら、丸ごと燃えちまうぞ。おまえだってただじゃ済まないだろうが」
髭面の声は、脅しというより懇願に近かった。
「わたし? さあ、どうかしら。手札がひとつとは限らないわよ。そんなこと、考えてないはずがないでしょう?」
「まじか……お前、まさか二属性持ちかよ……」
「だから言ったでしょう? ロープを断ち切ったのは目立たないようにやったけど、ここからは違うって。どうするかは、あなたたちの出方しだいよ」
言いながら、わたしは荷台の端へじりじりと後ずさる。いや、後ずさったように見せかけて、踏み込みの角度を測る。揺れがまた来る。その一拍で、髭面と痩せた男の視線を赤へ吊り上げ、大柄な男の懐へ入る。
痩せた男の短剣は、いまや牽制にしか使われていない。髭面は舌打ちを繰り返しながらも、飛び込めずにいる。大柄な男は鞘を抱えたまま、ようやくわたしの狙いに気づいたらしく、肩へ力を入れた。
――遅い。次の揺れで、決まる。
馬の悲鳴が荷台の外で甲高く裂け、車体が大きく軋んだ。ランタンの灯がひときわ激しく傾き、男たちの影がぐしゃりと崩れる。
――ここ。
肋の下まで息を入れ、わたしは領域を片手で支えたまま、大柄な男をまっすぐ見据えた。勝敗を左右するのは、ほんの一拍の揺らぎ。それで十分だ。
――必ずマウザーグレイルを、茉凜を取り戻す。
大柄な男が抱え込むマウザーグレイルの鞘が、熱の光を映し込んで不気味にちらつく。その奥で眠る茉凜を思うだけで、肋の内側がきしむみたいに熱くなった。
けれど、恐れを見せるわけにはいかない。
毅然と顔を上げ、わたしは次の揺れを待った。荷台の中に満ちた熱と緊張が、張りきった糸みたいに、今にも切れそうに震えている。
誰かが動けば、すべてが決する。ならば、その最初の一歩を、わたしが奪うだけだ。




