隠された水の牙
薄闇のなか、頬に触れている木の板から、そっと顔を離してみた。
ぐらりとした揺れが五感をさらい、思わず息が詰まる。荷台だ、と身体のどこかが先に悟った。鼻先をかすめるのは、乾いた藁と馬の汗、それに油の匂い。視線を動かそうとしても闇が深すぎて何も見えず、すぐに目隠しをされているのだとわかった。
震える唇をどうにか動かそうと、呼吸を整える。喉はまだ薬の名残でひりついている。けれど、意識は前よりははっきりしていた。両手両足は固く縛られたまま。それでも、寝台の上でただ眠らされていたときよりは、まだ考えられる。
「……ここは……どこ……」
自分でも驚くほど弱い声だった。掠れた言葉が、木箱の隙間へ吸い込まれていく。
その途端、近くで低い唸りのような音がした。わざとらしい咳払い。木箱がずれる軋みと一緒に、誰かの靴底が板を鳴らして近づいた。
「ちっ、目が覚めるのが早すぎるんだよ。薬物に耐性でもあるっていうのか?」
苛立ちを含んだ男の声が、闇のなかで鈍く響く。あのとき、わたしを襲った便利屋だ。髭面の顔までは見えなくても、粗く粘つく声だけで十分だった。
「とにかく、軍の手が回る前に門外へ抜けて正解だったな」
別の男の声が続く。こちらは少し若いのか、前の男よりいくらか張りがある。
「さすがに追手はもういねえだろ。あとは待ち合わせ場所で、こいつを届けるだけで仕事は終わりだ」
三人。少なくとも、それだけはいる。低く押し殺された声が、狭い荷台の中で擦れ合い、どこが壁でどこが人の影なのか、耳だけが必死に探っていく。
「教えなさい。ここはどこ……どこへ向かっているの?」
わたしがもう一度問うと、荒々しい手が髪を掴んだ。
「っ……」
頭皮が引きつる痛みに、息が跳ねる。声を漏らすのだけは堪えた。男は身を屈めるようにして顔を寄せ、顎をぐいと持ち上げる。鼻を刺す生臭い吐息が押し寄せ、反射的に身を引こうとしても、縛られた身体はほとんど動かない。
「しつこいやつだ。知る必要はない。大人しくしてろ。……下手に騒ぐとどうなるか、わかってるだろう?」
鈍く落ちる声は、やはり髭面の男のものだった。
「ちっ……」
舌打ちが漏れる。
「助けが来るなどと思わないことだな。もう諦めろ」
男は嘲るように言い、邪魔な物を放るみたいに顎から手を離した。
「俺だって手荒な真似はしたくない。だが、依頼主がどうしても『無傷で連れてこい』ってうるせえんでな。しかしまあ、お前みたいな妙ちくりんな子どもに、いったいどんな価値があるんだか」
その言葉に、奥歯がぎりりと鳴る。
茉凜。声にしないまま呼んでも、返事はどこからも戻らない。いつもすぐそばに感じていた熱が、いまはごっそり削ぎ落とされたみたいに遠い。マウザーグレイルもない。あれがないまま術へ踏み込むのは危ういと、昨夜、思い知らされたばかりだった。
――怖い。けれど、まだ考えられる。
「……わたしを攫って、どうするつもり……」
弱い声で問いかけても、髭面の男は答えない。代わりに、荷台の向こうで男たちが囁き合い、そのくぐもった笑いが、薄暗い沼の底から浮いてくるみたいに背筋を這った。
荷車が大きな石の段差を越え、跳ね上がった衝撃が背へ突き刺さる。板の床と身体が擦れ、鈍い痛みが走った。後ろ手に回した腕をわずかに動かしてみるが、縄は固く、皮膚へ容赦なく食い込んでくる。
――恐怖に呑まれてはいけない。お祖父さまを救うと決めたのだから、こんなところで沈むわけにはいかない。
木の板の上で、ごく小さく体勢をずらす。今すぐ逃げる策は、まだない。けれど、わずかな隙でも作れれば、その先はあるかもしれない。
「……答えなさい。依頼主とは、いったい誰……?」
唇の震えを抑えながら、もう一度問いかける。男たちの沈黙が、一瞬だけずれた。鬱陶しげなため息と、乾いた笑いが返ってくる。
「おとなしくしてりゃ、そのうちわかるかもしれないがな。いいか、ここはもう王都の外だ。お前に味方するやつなんざ、どこにもいやしない。無駄なあがきはやめろ」
嘲りが、冷たい夜気のように心臓へ差し込む。
それでも、諦めるわけにはいかない。
――どうする?
大きな術は使えない。マウザーグレイルなしで深く踏み込めば、この身体がもたない。けれど、ほんの針先ほどの〈場裏・青〉ならば。
荷台にこもる湿り気と、吐息の水分だけで足りるはずだった。水を見せびらかす必要はない。縄の繊維ひと筋へ届く、細く短い流れだけでいい。
まず足首。足がほどければ、隙が生まれる。
「あなたたちに、言っておきたいことがある……」
「なんだ? 腹でも減ったか? あいにく持ち合わせはないぞ。酒ならあるが、子どもにはきつすぎるだろうがな」
髭面の男が嘲笑まじりに言う。ほかの二人もつられて笑った。声の響きで位置を探る。右奥に一人、入口寄りに一人、そしてわたしの近くに髭面。そのうちのひとりが、あれを持っている。マウザーグレイルを。
「それは遠慮しておくわ。わたしもお酒は嫌いじゃないけど、普段は軽いワインを飲むくらいだしね。それより、わたしが持っている力がどんなものか……見てみたくない?」
その途端、笑いがぴたりと止まった。冷えた沈黙が荷台の中へ落ちる。車輪の軋みだけが耳についた。
「力だ? そりゃまた随分な言い草だな。手足を縛られて何ができるっていうんだ?」
髭面の声にはまだ嘲りがある。けれど、完全には笑っていなかった。
「……例の剣もどきなら俺が持ってる。身体検査だってしたし、武器なんて隠してない。どうせ何もできんだろ」
ひそひそと交わされる声が、闇のなかを這っていく。
「へえ……だとすると魔術の類か何かか。それで、俺たちに何を見せてくれるっていうんだ? あまり愉快な余興でもなさそうだが。魔道具も魔石も無しで、何ができるっていうんだ? ええ?」
男の台詞が途切れた瞬間、荷馬車の床を軽く叩く音がした。警告のつもりなのだろう。板を蹴る振動が肩へ伝わってくる。
仮に脅しで〈場裏〉の輪郭だけ見せたところで、警戒を強めるだけだ。
見せるためではない。ほんの一瞬、目を逸らさせるためだ。
わたしは暗がりのなかで、縛られたままの足首に神経を集める。
「ふふ……わたしの力はふつうの魔術とは少し違うし、見かけほど派手じゃないの。だけどね――」
言葉を切れ切れに置きながら、男たちの意識をこちらへ寄せる。そのあいだに、吐息に混じるわずかな湿り気だけを、足首の縄へそっと集める。
大きく開けば、音も雫も隠せない。
だから、ごく小さく。
縄のより目のひと筋だけに触れるくらい、小さく、鋭く。
「おい、何を企んでる。詠唱を始めたら、即刻叩き伏せるからな」
低い声が釘を刺す。かまわない。必要なのは、この一息だけだ。
「……見たら驚くかもしれないわよ。何しろ、昔馴染みが伝授してくれた技なんだから」
軽口を叩きながら、〈場裏・青〉をごく小さく展開する。足首の縄、その一点だけへ、息を吹きかけるほどの小さな領域を触れさせる。湿りが薄い膜になって繊維へ絡みつき、その奥へ、針みたいに細い水の勢いを押し込んだ。
――領域部分解放。
聞こえるか聞こえないかほどの、かすかな破裂音。糸よりも細い水の筋が、縄の芯だけを削り取っていく。飛んだ飛沫も、ほとんど汗ほどの量に過ぎない。けれど、食い込んでいた縄が、芯を失ったみたいにゆるみ始めるのがわかった。
じわりと血が戻る。
足先の痺れが、痛みに変わっていく。
――あと少し。
「……何か変な音がしなかったか?」
「馬車が揺れただけだろ。いちいち驚くな」
男たちの声がひそひそと擦れ合う。違和感は覚えたのだろう。けれど、まだ見破られてはいない。
そっと足首を動かしてみる。ほどけかけた縄が、じわじわと開いていく感触が伝わってきた。
――次は手首。
今度はもっと危ない。手元は男たちに近い。音も雫も、少し増える。
それでも、やるしかない。
足を自由にできれば、逃げる瞬間の踏み込みが変わる。そう思いながら、今度は後ろ手の縄へ意識を移す。息を吸うたび、喉の下が少し焼けた。やはり、あれがないまま術を重ねるのは危うい。けれど、まだいける。
「……おい、何をするつもりだ。痛い目を見たいのか?」
威圧の混じる声が、闇を裂いて降る。
「……さあ、どうかしら。わたしはまだ、何も見せていないわ」
静かに言い返しながら、〈場裏・青〉の針を、今度は手首の縄へ滑らせる。ごく小さな水音。板の上へ散る滴は、さっきよりわずかに多い。
ぎち、ぎち、と繊維が軋む。
直後、手首に鋭い痛みが走った。圧を誤れば、自分の皮膚ごと裂く。歯を食いしばり、息を殺し、それでも止めない。
「……おい、今度こそ何か聞こえたぞ」
「ちっ……」
板の上で、男たちの靴底がばらばらに鳴った。奥でランタンが持ち上がる音がする。灯りがこちらへ向けば、濡れた縄も、床の滴も、一瞬で露見する。
焦りを押し殺し、水の圧をほんのわずかだけ強める。
ぷつり。
――もう一本。
ぎし、と最後のより目が軋み、ついに手首の縄がゆるんだ。ばらばらになった繊維が、肌から零れ落ちる。痺れていた指先へ血が戻り、肩の力がわずかに抜けた。
「くそっ、灯りだ! 暗くて何も見えん!」
ランタンの灯が揺れながら近づいてくる。わずかな灯りでも十分だ。床の水滴が照らされれば終わる。
――もう待てない。
わたしは迷わず両手を床から離し、棒みたいにこわばっていた足腰へ力を通す。ランタンの灯がこちらを掠めた瞬間、低く身をひねり、獣のように荷台の隅へ飛び込んだ。
「なっ……!? お前、いつの間にロープを……っ!」
髭面たちの息が揃って乱れる。呆気に取られた息が、闇の中で重なった。水気の残響が四肢にまとわりつく。それを振り払うように、さらに身を低くする。
――こうなったら、後戻りはできない。
こわばった腕を無理やり上げ、頭を覆っていた布へ手をかける。ためらわず引き剥がし、そのまま遠くへ放り投げた。
布が床を滑り、男たちの足元へ転がる。
視界が開く。月明かりとランタンの灯が一度に差し込み、思わず目を細めた。けれど、何も見えなかった闇のなかにいたときより、ずっといい。狭い荷台。木箱。入口を塞ぐ三人の男。奥に立つひとりの腕の下に、見慣れた白い鞘。
「……てめえ、どうやって戒めを解いたんだ……?」
低く荒れた声が飛ぶ。ランタンが慌てて持ち上がり、揺れる灯りが男たちの顔を不格好に照らした。
手も足も、ようやく動く。視界も戻った。あとは、この狭い荷馬車の中で、どこへ踏み込み、誰から崩すか――それだけだ。
深く息を吸う。〈場裏・青〉を使ったあとの残響が、まだ手のひらと足首のあたりにひりついている。長くはもたない。悠長に構えていれば、次の瞬間には暴力でねじ伏せられる。
男たちの足音が近づく。焦りを含んだ怒声とともに、ぎしぎしと板が不快な音を立てた。
こちらを、ただの小娘だと侮っている。
ならば、その思い込みごと、食い破るしかない。




