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かくしてお嬢様は消えたり

 離宮の朝は、本来なら柔らかな光が回廊を撫で、澄んだ空気と朝露の香りに包まれて始まるはずだった。


 いまは扉という扉が開き放たれ、甲冑の打音が石を叩き、鍵環の澄んだ衝突音が廊を走っていく。侍女の声は上ずり、冷たい風が廊下を抜けて布をはためかせ、張りつめた気配だけが残っていた。


 侍女のリディアは大理石を強く踏み、裾を片手で押さえながら走る。足音がひとつ鳴るたび、みぞおちがざわつき、呼気が白くほどけた。


 いつもなら寝台に夜のぬくもりがほのかに残り、目覚めの刻に合わせて甘いハーブティーを用意し、静かな笑顔を交わして身支度を整える。そんな小さな儀式が、彼女の朝を支えていた。


 今朝は、扉が閉じていたのに、寝台は人の気配を失ったまま乱れもなく、鏡台の前の櫛も昨夜の位置に置かれていた。靴も揃っている。最初は、早起きして庭へ出られたのかと思った。だが、見れば見るほど、その不在はいつものお嬢様と噛み合わない。


「どこにも見当たりません!」


 廊下の向こうの叫びが鋭く刺さる。別の侍女が駆け抜け、袖がリディアの肩をかすめた。


「馬鹿な……」


 そばの執事は息を深く吐き、眼鏡の端を押し上げる。額に細かな汗が浮かび、帳面を持つ手がかすかに震えていた。侍女たちは互いに首を振り合い、名を呼びながら持ち場へ散っていく。


 寝坊でも散歩でもない。衣服も手回り品もそのまま――ただひとつ、お嬢様が片時も手放さぬ白き剣だけが、定位置にない。


 肋の内側で、何かが小さく割れた。


「リディア」


 執事の声は低かった。張ってはいるのに、崩れてはいない。


「これだけ探してもお姿がない以上、お一人で出られた可能性も考えねばならん」


「はい。ですが――」


 ほとんど被せるように、リディアは言った。自分でも驚くほど強い声だった。


「きっと、それだけはありません」


 喉が震える。けれど、いまは怯えている場合ではなかった。


「お嬢様は、どんなに小さな外出でも、必ずひと言は残されます。早朝の散策ならなおさらです。侍女を呼ばず、身支度も変えず、白き剣だけを持って出られるような方ではありません」


 執事の眉間に皺が寄る。


「しかし、剣をお持ちだ。危急の用を思い立たれた可能性はある」


「それでもです」


 リディアは首を振る。指先から血の気が引いていた。


「外へ出るおつもりなら、あの方は靴を替えられます。夜着のまま扉を開けることもありません。何より……わたくしに、何もおっしゃらないなんて……」


 そこで初めて、声が少し割れた。


「そんなこと、なさるはずがありません」


 短い沈黙が落ちた。


 廊下の奥で甲冑が鳴る。誰かが角を曲がり、また否定の報せだけを置いて走り去っていく。


 執事は拳を固く握り、腰の鍵環を鳴らした。


「……わかった」


 その一言で、空気が変わる。


「離宮内を隅々まで探せ。庭園、温室、厩舎、地下倉庫まで、決して見落とすな。門番にも確認を取れ。夜明け前から今まで、誰ひとり見逃すな」


 号令が石に反響する。衛兵が一斉に駆け出し、踵が石を打ち、槍の柄が肩で跳ねた。中庭まで怒号と足音が波打ち、朝の静けさを押し流していく。扉番が走りながら閂を外し、伝声管の蓋が乾いた音で転がった。甲冑の継ぎ目から油が揮発し、鉄と湿土の匂いが一気に吹き抜ける。


 水差しが揺れ、盆の上で器がかちりと触れ合った。開け放たれた扉の先で、朝の光だけが置き去りにされている。


 リディアはその背を見送り、すぐに執事へ向き直る。手首が小さく震えていたが、視線は逸らさなかった。


「ブルフォード様へ、お知らせを」


 執事のまぶたが、ひとつ強く閉じる。


「彼はいま、お嬢様のご指示で王都街区の調査に当たっておられます。もし昨夜、お嬢様が何かお考えを漏らしていらしたなら、聞いているのはあの方かもしれません。たとえ手がかりがなくても、護衛騎士である以上、この報せは最優先で届くべきです」


 執事は息を整えた。袖口の糸が一本だけほどけているのが見えた。


「承知した。伝令を二手に分けよう。一方は離宮内外の捜索継続。もう一方はブルフォード殿のもとへ。王都街区の詰め所と、立ち寄り先になりそうな場所にも同報を出せ」


「はい……!」


 返した声はまだ揺れていた。けれど、さっきまでの足のすくむような震えとは違う。走るための震えだった。


 厩舎で鞍が打ち鳴らされ、皮の匂いが風に乗る。早馬が石畳を蹴って飛び出し、蹄の拍動が敷石を伝い、リディアの背中を押した。馬丁の掛け声が遠くで返る。


「お嬢様……」


 リディアは唇を噛む。指の甲から血の気が引いていく。


「どうか、ご無事で……」


 祈りは声になりきらず、白い息のなかへほどけて消えた。


◇◇◇


 離宮から外へ伝令が走り、ほどなく王都外れの魔導兵団兵舎へ騒ぎが届いた。


 兵舎の工房は広大で、鋼の骨組みが天井近くまで組まれ、白い照明が冷たく返る。油と鉄粉の匂い。奥でくぐもった鼓動を刻む複合反応炉。四方の台座には国宝級の魔石が据えられ、保護装置の縁から燐光が細く立ちのぼっていた。


 増幅と制御のためのコイルが床の魔法陣へつながり、呪符や触媒が整然と並ぶ。刻線に沿って歩く技師、数取りを指で刻む魔導兵。人の手と魔術が、無機質な肌理で噛み合っていた。


「同調出力が乱れれば、周囲一帯を吹き飛ばしかねん」


 グレイハワード先王陛下が、技師長へ静かに声を掛ける。


 老いてもなお風格は揺るがない。彼は自ら計器へ歩み寄り、目盛を指先でなぞって針の呼吸を読む。周囲の視線は炉の数値と手順に落ち、羽根ペンが羊皮紙の上を急ぎ足で走った。


「ご心配には及びません、陛下。複合反応炉は引き続き監視しております。万一、スパイク値が閾値を超えた際は、直ちに緊急停止手順へ移行いたします。それでよろしいでしょうか」


 技師長の声は抑えられていたが、乾いた緊張が語尾の奥に張っていた。


「うむ、かまわん。急ぐことも焦ることも禁物だ。すべての手順は正確に、万全を期すのだ」


 四属性の制御回路を、互いに干渉させず並走させる試みだった。十六名の魔導兵が呼吸と鼓動を合わせ、専用兵装の刻線へ、少しずつ力を通していく。先王は口の内側で節を数え、拍をひとつだけ早めて確かめる癖が出る。手袋を締め直し、視線の合図が交わされた。成功すれば、国を守る切り札になる。


「……因縁深きクロセスバーナの名が再興し、大陸を渡り、西部国境付近に暗躍し始めたという噂もある。だが、この兵器が完成すれば、かつてのような多くの犠牲を払わずに済むかもしれん。それに――」


 先王は左手の指輪を見つめる。冷えた金属が皮膚に沈み、指の節で確かめた内側の浅い疵が、夜更けの約束をひと筋だけ疼かせた。


「――これは、ミツルが自由であり続けるための取引でもある……」


 机端の古びた手帳を引き寄せ、羽根ペンの先で式を一行だけ走らせる。紙は指の汗でわずかに波打ち、インクの匂いが立った。引き出しの奥では、公印とは異なる色の封蝋箱が、蓋の隙間から鈍い光を沈めている。


 その時、扉が荒い音を立てて開く。冬の風が燐光を揺らし、見張り台からの合図旗が窓枠の外をかすめた。


「失礼いたします、陛下!」


 離宮からの伝令が駆け込み、息を継ぐ間もなく告げる。濡れた靴底が床に水の跡を残した。


「ミツル様が……離宮より、何の前触れもなく姿を消されたとの報せです!」


 工房の低い唸りが、一拍だけ止まる。機械音さえ薄れる。視線が一斉に先王へ集まり、彼の瞳に険しい光が宿った。頬の陰影に、苦渋が一瞬走る。椅子に置かれた外套の裾がわずかに落ちた。


「……何だと? ミツルが黙って姿を消したと?」


 低い問いのあと、工房じゅうの息がひとつ詰まったように静まる。


「はい。いまだ行方は掴めておりません。白き剣のみが見当たらず、ほかの手回り品は置かれたままとのこと。離宮の侍女たちも、声を震わせ――」


 伝令の喉が鳴り、語尾がかすかに擦れた。


「馬鹿な。あの子が出奔などするわけがない。メイレアの時とは違う……。必ず何らかの理由があるはずだ」


 先王は立ち上がる。椅子脚が床をきしませ、場の空気が一段低くなった。周囲の手が同時に止まり、次の瞬間、また一斉に動き出す。口元が固く結ばれ、苦さを噛みしめたまま視線が前へ走った。


 指先の微かな震えを技師長は見たが、先王は袖口でそれを隠し、息をひとつ短く切る。草の苦みが舌の奥に残る。朝の薬の名残だった。感情を押し沈めるように、工房を睥睨した。


「ローベルト将軍が視察に来ているはずだ。彼をここに呼べ。いずれにせよ、外門の閉鎖と警戒を厳重にせねばならん」


 命が下った瞬間、近くの魔導兵が踵を打ち鳴らし、風が外套の裾をひるがえした。


「はっ、ただいま!」


 合図から間なく、重い軍靴が戻る。精悍な眼光の将軍が進み出た。指揮杖が掌で一度だけ鳴る。


「陛下、ご用命とあれば――」


 先王は一歩だけ前へ出る。燐光が指輪の縁に細く滲んだ。


「ローベルト、王都外門を即刻閉鎖せよ。出入りする者はすべて改めろ。怪しい者があれば、徹底して洗い出すのだ。


 ミツルが勝手に外へ出たとは考えにくい。だが、昨今の情勢だ。用心に越したことはない」


 命令の一語ごとに、場の空気が硬く締まっていく。


「承知いたしました。直ちに兵を動かします」


 号令が走り、外で馬具が鳴る。伝令板が回り、封蝋が割られる。将軍は別の封筒を胸元に戻した。二重の折り筋のついた紙が、外套の内でかすかに擦れた。凍てた石に軍靴が刻む衝撃が、王都外縁へ滲んでいった。


「…………」


 命令を終え、先王は一瞬だけ目を伏せる。手袋の内で、指が一度だけ遅れた。計器の針が一目盛りだけ震え、空気が結び直される。


 今のミツルは、ただの王族ではない。


 王家の未来に触れる名であり、人々がまだ知らずに祈りを預けはじめている存在でもある。


 そして――彼にとっては、遅れてようやく手を伸ばせた孫娘だった。


 猶予はない。


「……メイレアがいなくなった時、私は何もできなかった。この上ミツルまで失うようなことになれば、私は……。なればこそ、もう二度と悲劇を繰り返させてはならぬ」


 握り込んだ左手の節が白く浮き、指輪の縁だけが燐光をひやりと返した。


「……これは、そのための必要悪なのであろうな」


 言葉に、周囲の背筋が伸びる。各持ち場の視線が交差し、また離れていった。


「技師長よ、このまま調整を続行せよ。皆、余計な心配をせずともよい」


 老技師は胸の前で手を組み直し、わずかに顔を曇らせた。


「かしこまりました。陛下……どうか、くれぐれもご無理なさいませぬよう」


 その声に、先王はほんのわずかに微笑む。けれど目元の疲れは、燐光の下でいっそう濃く見えた。


「心配に及ばんよ。老骨に鞭打ってでも、守らねばならんものがあるからな」


 照明が鋼の枠と魔石の彩りを際立たせ、炉の縁で光が瞬く。目盛りがわずかに跳ね、彼は短くうなずく。コイルの唸りに合わせ、術式確認の声が重なった。


 離宮から始まった報は、兵舎を駆け、王都へ危機感をひろげていく。


 外門閉鎖の命を受け、ローベルト将軍の兵が門と周縁へ散っていく。鎖が引かれ、閂が落ち、検問台が運び込まれる。工房では炉が低く唸り、王家を取り巻く影だけが、輪郭を増していった。


 ミツルの行方はなお知れず、冬の風だけが冷えを運んでいた。工房の燐光が蒼白に瞬き、遠くで鎖の鳴る音だけが残った。


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