剣なき目覚め
冷えきった意識の底で、かすかな揺れがあった。暗い水に沈められた葉先だけが、見えない流れに触れて震えるような、頼りない戻り方だった。骨の芯へじわりと痛みが沁み、口の内には乾いた金属の味が薄く貼りついている。鼻の奥にはまだ、あの甘く刺す薬の残り香がこびりついていた。
どれほど眠らされていたのかはわからない。瞼は重く、こじ開けても視界はすぐには結ばなかった。ただ、頬に触れているものが、もう石畳ではないことだけはわかる。粗い毛布。背に当たるのは、藁を詰めた硬い寝台。少し身じろいだだけで、乾いた繊維が衣の下でざらりと鳴った。
――ここはどこ?
石壁は湿りを含み、古い苔の青臭さと獣脂の鈍い匂いが重く混ざっている。高いところで鼠の爪がちり、と走り、どこか遠くで水が一滴、間を置いて落ちた。木戸の合わせ目から入る隙間風が、笛めいた細さで耳を撫でる。
――とにかく、目を開けないと。
そう思って力を込めた瞬間、こめかみの裏がぐらりと揺れた。息を整えようとしても、薬の痺れが胸の手前でつかえ、吸える量だけが削られていく。
――せめて、小さくでも。
指先へ意識を集める。ごくわずかでいい。〈場裏・白〉の輪郭だけでも起こせれば、空気の流れで周囲の密度がわかるはずだった。
けれど、思念は途中でほどけた。触れかけた輪郭は、指をかける前に崩れ、そのまま消える。目の裏に、鈍い痛みだけが残った。
――だめだ。術が立ち上がらない。
息を呑み、手首をわずかに捻る。すぐに麻縄が皮膚をささくり、遅れて熱を持った擦れが走った。両手は後ろ手に縛られている。肩を動かすだけでも重い。脚先の感覚はあるのに、床へ降ろしても踏みしめられる気がしなかった。
そこでようやく、身体が別の欠落を探した。
腰の横に、いつもあるはずの重みがない。
呼吸がひとつ止まる。身をよじれば縄がさらに食い込み、寝台がぎし、と低く軋んだ。それでも、何度確かめても同じだった。鞘の硬さが当たらない。金具の冷たさも、どこにもない。
「茉凜、答えて……」
小声で呼びかける。けれど、返事はなかった。
いつもなら、どんな形でも戻ってくる。その沈黙だけが、寒さより先に背を冷やした。
「まさか……」
もう一度、ほとんど祈るように意識を沈める。何もない。剣も、声も、そこにあるはずの手触りごと切り取られていた。
そのとき、床板がひとつ、静かに沈んだ。
首筋がひやりと粟立つ。誰かいる。最初から、同じ部屋のなかに。
湿った布擦れが近づき、寝台の脇で止まる。酒精の酸い匂いに、革と油の臭いが混じった。他人の体温だけが、冷えた空気へぬるく割り込んでくる。
「……っ、ん、は……」
息を吐こうとしても、喉の内側が張りついて音にならない。唾を飲み下すだけで細い痛みが走った。
「……お目覚めかい、お嬢ちゃん。もうちょい、眠っていてもらうつもりだったんだがな」
低く抑えた声だった。怒鳴りもしない。その静けさが、却っていやだった。顔はまだ闇のなかで曖昧なのに、近さだけははっきりしている。
まずは言葉。いまはそれしかない。身体を起こすことすら危うい。
「……は、な……して……」
ようやく絞り出した声は、擦り切れた糸みたいに細かった。
返ってきたのは、湿った笑いだった。
「それはできない相談だ。せっかく捕らえた獲物を手放すわけにはいかんだろう? ああ?」
獲物、という響きがそのまま肌へ触れた。嫌悪が喉元までせり上がる。身を引こうとしても、縄と痺れがそれを許さない。
「……あなたは、誰……? どうして、私を……」
問いは途中で息に削られた。それでも、黙るよりはましだった。
「教える義務などない。俺は何も知らん」
「なん……ですって……?」
乾いた掠れが、自分でも情けなかった。
「俺はただの“便利屋”だ。依頼が合法か非合法かなんざ関係ない。積まれた金次第で何だってやる。悪いが、それでおまんま食ってるもんでな」
平坦な口調だった。ためらいも後ろめたさもない。ただ、生業を口にするみたいな乾きだけがある。
――依頼?
その語に、心臓がひとつ強く打った。
――誰が。どうして。何のために。まさか王宮側か。いや……それとも、もっと別の。
考えようとした途端、焦りが押し寄せる。祖父を救いたくて動いた先で、こんな場所に転がされている。手は逆へ滑っていくばかりだ。肋の内側が、遅れて冷えた。
――だめ。混乱する前に、確かめるべきことを。
「剣……私の剣はどこ……」
問いに震えが混じる。暗がりの向こうで、男が鼻を鳴らした。
「剣? ああ、あの妙ななまくらか? もちろん取り上げさせてもらった」
息が浅くなる。
「なぜ……」
「依頼主からの指示だ。『確保対象に剣を持たせては危険極まりない』とな。だが、見たところ刃もないし、儀礼用なのかしらんが、妙に軽い。玩具としか思えん」
金具が触れ合う乾いた音がした。手の届かない距離へ置かれていると、それだけでわかる音だった。
唇の裏側を噛む。あれは玩具なんかじゃない。父の形見であり、茉凜のいる場所で、わたしの命綱だ。あれなしで深く術へ踏み込むのは、あまりに危うい。
「それは私にとって……父の形見なの。大切なお守りなの。返してちょうだい……」
言い切ったあと、口の内側に鉄の薄い味がひろがった。噛みすぎたのだと遅れて気づく。
「そうはいかん。お前、『黒髪のグロンダイル』って呼ばれてるんだろう? 俺は見ちゃいないが、聞いた話じゃ聖剣の選定に乱入して、王家が担いだ勇者を一度も剣を振らずに屈服させたらしいじゃないか。となりゃ、こっちも用心して当然ってわけだ」
その名を、こんな口で汚されたくなかった。けれど腹立ちより先に、寒気が背へ走る。少なくとも、依頼主はわたしのことを調べている。衝動で攫ったのではない。最初から、狙って。
「……その依頼主って誰……どうしてその名を知っているの? どうして剣のことを――」
息が乱れる。問いはつながっているのに、頭のなかではもう順番が壊れ始めていた。
「煩いやつだな。“プロ”が依頼主の情報を明かすと思うのか? 俺だって相手の素性など知らんが、危険に釣り合う報酬が得られれば問題ない。お前さんを『何が何でも捕らえろ』。それが俺の受けた仕事だ。あとは依頼主へ渡せば、そこでお前とはお別れさ」
依頼主へ渡す。その一語だけで、喉の内側が縮んだ。こいつは途中の手だ。まだ終わっていない。まだ、別の誰かがいる。
そのときだった。廊下の先で、複数の足音が重なった。
ひとつではない。二人か、三人か。乾いた革底が板を踏む音。そのなかに、ひとつだけ、わずかに引きずるような足取りが混じっている。ただ、一定の拍のたび、しゃり、と何かが床を擦る。
寝台の脇で、革が小さく鳴った。
「……出迎えがおいでなすったか」
扉の向こうの空気が変わる。誰かが立ち止まった。木戸の向こうで、衣擦れだけが細く残る。鍵の金具が、ごく控えめに一度鳴った。
逃げなければ、と思うのに、身体はひとつも利かない。せめて顔を背けようとした瞬間、乱暴な手が口元を塞いだ。掌の荒れた感触が皮膚を擦り、そのまま濡れた布が押しつけられる。
つんと刺す薬の匂いが、一息で喉を越え、胸のなかへ滑り込んだ。
――だめ。
息を止めようとしても遅い。白く濁ったものが視界へ一枚かぶさり、輪郭がすべて遠のいていく。耳に残るのは、廊下の向こうの、あの引きずる足音だけだった。
「この先どうなるかなんて、俺の知ったことじゃないが、せいぜい良い夢でも見ていろ」
声はもう、厚い壁の向こうから聞こえるみたいに遠い。
手が離れる。毛布の湿りが頬へ戻り、寝台の藁がゆっくり軋んだ。木戸が細く鳴く。その隙間の音さえ、すぐに薄い膜の向こうへ吸われていく。
――まただ。
結局、無力のまま流されている。
祖父を救いたかったのに、伸ばした手はまた別の闇へ滑っていく。悔しさが熱になりきれず、胸の内で苦く固まった。
そのとき、鼓膜の向こう側で、かすかな揺れがあった。
声だったのかもしれない。茉凜に似た、けれど遠すぎて掴めない何か。追おうとした瞬間、意識の縁がふっとほどける。
――誰か、助けて……茉凜……どこにいるの。
願いだけが置き去りになり、視界は色を失ったのち、こんどは底の見えない暗がりへ、静かに沈んでいった。




