あの小さな奇跡を
食堂を出ると、渡り廊下の空気はさっきより少しだけぬるんでいた。昼の陽が石壁の高いところまで届いていて、歩くたびに影が短くなっていく。
隣を歩くソレイユは、何も急がなかった。わたしの歩幅に合わせて、ほんの半歩だけ後ろにいる。それが気遣いなのか、ただそういう歩き方なのか、わからないけれど居心地は悪くない。
図書館の扉を押すと、午前とは違う静けさが迎えてくれた。昼食を終えた学生たちがまだ戻りきっていないのだろう。閲覧席のあちこちに空きがあり、高い天窓から落ちる光だけが、誰もいない机の上をゆっくり横切っている。
「あそこ、使おうか」
ソレイユが窓寄りの席を指さす。わたしがうなずくと、彼女は先に椅子を引いて、自分の鞄から筆記具を取り出した。何も言わなくても準備している。その手際のよさが、少しだけまぶしかった。
わたしは午前中に書き散らした紙の束を机の上へ広げる。矢印だらけの、自分にしか読めない図。
精霊子の存在とその性質。
想念による術式構築。
一時的に顕現する疑似精霊体。
〈場裏〉内での事象操作と現象の具現化。
四つの項目から伸びた線が絡み合って、どこが入口なのかすら見えなくなっている。
「……これが、午前中いっぱいかかっての成果なんだけど……」
自嘲気味に言うと、ソレイユは身を乗り出して紙を覗き込んだ。しばらく黙って目で追ってから、小さく首を傾げる。
「……なるほど。ミツルさんの中では、全部つながってるんだね」
「そうなんだけど、わたしにとっては『息をする』のと同じで当たり前すぎて……しかも、どれもが同時に密接に関わっているから、どこを切り取って話せばいいのか、わからなくなってしまって」
声にすると、余計にもどかしくなる。知らないのではない。知っていることが多すぎて、どの糸を引けば端が見つかるのかが掴めない。説明を始めようとすると、すぐに別の説明が必要になって、それがさらに別の概念を呼んで、気がつけば全体像をまるごと抱え込んでいる。
「精霊子の話から入ったほうがいいのか、〈場裏〉をどう感じるかから話したほうがいいのか。大元である精霊族の話を先に置くべきなのか。でも精霊族については、そもそも参照できる資料が限られているし……」
言いながら、自分の声がだんだん早くなっていくのがわかる。指先が紙の端を無意識につまんでいた。
ソレイユは、わたしが話し終わるまで口を挟まなかった。矢印だらけの紙をもう一度見て、それからゆっくり顔を上げる。
「ねぇ、ミツルさん。ひとつ聞いてもいい?」
「なに?」
「あなたは、講義を聞いてくれた人たちにどう思ってほしい? どんなふうに感じてほしいの?」
――え……。
その問いに、一瞬だけ言葉が止まった。
何を話すか、ばかり考えていた。どこから入るか。何を先に置くか。けれど、聞いた人がどう感じるか、という方向からは考えていなかった。
「……どう思うか、どう感じるか」
「うん。難しいことはわたしにはまだわからない。でもね」
ソレイユは、窓から差す光の中で少しだけ目を細めた。
「前にミツルさんが見せてくれたこと、覚えてる。水を集めて、空に浮かべて光を通して、最後にほどけて虹になったでしょう?」
あの日のことだった。大学の裏手の、人目の少ない場所で、ソレイユにだけ見せた小さな術。
「あれを見たとき、わたし、ただ、きれいだなって。それから、もっと知りたいなって。そう思ったの」
窓辺の光が、ソレイユの睫毛の先で細かく揺れている。その声には、気を遣った丁寧さではなく、あのとき本当にそう感じたのだという、ただの事実があった。
「だから……最初からなんでもかんでも並べなくてもいいんじゃないかな」
彼女の指が、わたしの矢印だらけの紙のいちばん端、何も書かれていない余白をそっと指した。
「まず、あの『小さな奇跡』を見せてあげたらいい。精霊魔術ってこういうものなんだよ、って」
その言葉が落ちた瞬間、頭の中で絡まっていた糸が、ふっとゆるんだ。
その言葉に、もっと古い記憶がふいにほどけた。
森の匂いが、ありもしないはずなのに鼻の奥をかすめた。遠い蝉の声。真っ白な紙の上を走る赤。あのころのわたしは、〈場裏〉という言葉さえ知らなかった。ただ、生き延びるために、断ち切りたいと願っていた。
その切実さへ、虹色の気配は言葉より先に触れてきた。
《それがあなたの願いなら、叶えてあげる。それがわたしたちの繋がりの証だから》
その声は誰でもなく、世界そのものの響きだった。
理解はいつも、あとから静かに芽吹く。
「……そうか――」
声が、思ったよりも静かに出た。
「まず、ありのままを見せればいいんだ。わたしの思い描く、精霊魔術を」
――兵器ではない、美しいものを……ささやかな、生きるための術を。
自分では気づけなかった。全部を正しく伝えなければという焦りが、いちばん大事なものを隠していた。
「うん。それがいちばん伝わると思う」
ソレイユがうなずく。その顔は、何か難しいことを解いた顔ではなくて、ただ自分の感じたことを返しただけの、すこし照れたような顔だった。
わたしは矢印だらけの紙を裏返して、まっさらな面を上にした。ペンを取り、紙の真ん中に、たった一行だけ書く。
――まず、見せること。
そこから線を引く。見せたあとに、いま何が起きていたのかを話す。精霊子のこと。〈場裏〉のこと。疑似精霊体のこと。さっきまで絡まっていた糸が、この一行を軸にすると、不思議なくらい素直にほどけていった。
「あ、ちょっと待って。じゃあ次に来るのは……」
ソレイユが身を乗り出してきた。わたしの書いた線の先を指でなぞり、少し考えてから言う。
「見せたあとに、いま何が起きてたの? って聞きたくなると思う。わたしがそうだったから」
「そう。そこから精霊子と〈場裏〉の話をする。無から生んだんじゃなくて、もともと周りにあるものへ働きかけていた、って」
「うん、それならわかる。わたしでもわかった」
ペンの先が、紙の上で一度だけ止まった。研究者としてではなく、受け取った側の言葉だった。
「それから最後に……倫理のこと。無理に従わせたらどうなるか。応じないものを押し切ったら、術は美しさを失うということ。だから精霊魔術は、押し切って従わせるものじゃなくて――」
そこで少しだけ迷って、けれどもう迷う理由はなかった。
「――対話の術なんだってこと。最後に、そう結べたらいいなって思う」
書きながら、自分の手が震えていないことに気づいた。さっきまでの焦りが嘘みたいに、ペンの先がすうっと紙の上を滑っていく。
「……いい。すごくいいと思う」
ソレイユが、小さく息をついた。笑みというより、ほっとした顔だった。
「ねぇ、ミツルさん。講義のレジュメとか、流れの整理とか……わたしでよければ、手伝わせてくれない?」
その申し出は、少しだけ意外だった。
「でも……あなたにだって自分の研究があるでしょう?」
「そんなことないよ。わたしまだ一年目だし、講義以外は暇だったりするの」
「そ、そうなの? だけどわざわざ時間を取らせるなんてこと、悪いわ……」
「すごく面白そうだから、っていう理由じゃだめかな? それに――」
彼女は少しだけ肩をすくめた。
「わたし、受け手の立場としてなら、あなたの役に立てると思うの。説明が難しすぎるところとか、ここがわからないとか。それくらいしかできないけど」
それくらい、と彼女は言う。けれど、それがどれほど得がたいかを、わたしはさっき身をもって知ったばかりだった。
「あ……ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、すごく助かる」
素直にそう言えたことに、自分で少し驚く。
《《……よかったじゃん》》
脳裏にそっと滑り込んできた声に、指先がかすかに止まった。
《《肩を並べて、いっしょに考えてくれる子が、やっとできたんだから》》
その声は、拗ねてもいないし、寂しがってもいなかった。ただ静かな安堵だけが、やわらかく滲んでいた。
――茉凜。あなた……。
「ソレイユ、じゃあ早速だけど……」
わたしは紙の端をソレイユのほうへ少し向けた。
「この流れで、最初の一行をどう書けばいいか、一緒に考えてくれる?」
「うん。もちろん」
ソレイユが椅子を少し寄せた。木の脚が石の床をかすかに擦る音がして、それだけで、さっきまでとは距離が変わった。午後の光が二人のあいだの紙を照らし、まだ何も書かれていない余白が、ペンの先を静かに待っている。




