表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
298/459

あの小さな奇跡を

 食堂を出ると、渡り廊下の空気はさっきより少しだけぬるんでいた。昼の陽が石壁の高いところまで届いていて、歩くたびに影が短くなっていく。


 隣を歩くソレイユは、何も急がなかった。わたしの歩幅に合わせて、ほんの半歩だけ後ろにいる。それが気遣いなのか、ただそういう歩き方なのか、わからないけれど居心地は悪くない。


 図書館の扉を押すと、午前とは違う静けさが迎えてくれた。昼食を終えた学生たちがまだ戻りきっていないのだろう。閲覧席のあちこちに空きがあり、高い天窓から落ちる光だけが、誰もいない机の上をゆっくり横切っている。


「あそこ、使おうか」


 ソレイユが窓寄りの席を指さす。わたしがうなずくと、彼女は先に椅子を引いて、自分の鞄から筆記具を取り出した。何も言わなくても準備している。その手際のよさが、少しだけまぶしかった。


 わたしは午前中に書き散らした紙の束を机の上へ広げる。矢印だらけの、自分にしか読めない図。


 精霊子の存在とその性質。


 想念による術式構築。


 一時的に顕現する疑似精霊体。


 〈場裏〉内での事象操作と現象の具現化。


 四つの項目から伸びた線が絡み合って、どこが入口なのかすら見えなくなっている。


「……これが、午前中いっぱいかかっての成果なんだけど……」


 自嘲気味に言うと、ソレイユは身を乗り出して紙を覗き込んだ。しばらく黙って目で追ってから、小さく首を傾げる。


「……なるほど。ミツルさんの中では、全部つながってるんだね」


「そうなんだけど、わたしにとっては『息をする』のと同じで当たり前すぎて……しかも、どれもが同時に密接に関わっているから、どこを切り取って話せばいいのか、わからなくなってしまって」


 声にすると、余計にもどかしくなる。知らないのではない。知っていることが多すぎて、どの糸を引けば端が見つかるのかが掴めない。説明を始めようとすると、すぐに別の説明が必要になって、それがさらに別の概念を呼んで、気がつけば全体像をまるごと抱え込んでいる。


「精霊子の話から入ったほうがいいのか、〈場裏〉をどう感じるかから話したほうがいいのか。大元である精霊族の話を先に置くべきなのか。でも精霊族については、そもそも参照できる資料が限られているし……」


 言いながら、自分の声がだんだん早くなっていくのがわかる。指先が紙の端を無意識につまんでいた。


 ソレイユは、わたしが話し終わるまで口を挟まなかった。矢印だらけの紙をもう一度見て、それからゆっくり顔を上げる。


「ねぇ、ミツルさん。ひとつ聞いてもいい?」


「なに?」


「あなたは、講義を聞いてくれた人たちにどう思ってほしい? どんなふうに感じてほしいの?」


 ――え……。


 その問いに、一瞬だけ言葉が止まった。


 何を話すか、ばかり考えていた。どこから入るか。何を先に置くか。けれど、聞いた人がどう感じるか、という方向からは考えていなかった。


「……どう思うか、どう感じるか」


「うん。難しいことはわたしにはまだわからない。でもね」


 ソレイユは、窓から差す光の中で少しだけ目を細めた。


「前にミツルさんが見せてくれたこと、覚えてる。水を集めて、空に浮かべて光を通して、最後にほどけて虹になったでしょう?」


 あの日のことだった。大学の裏手の、人目の少ない場所で、ソレイユにだけ見せた小さな術。


「あれを見たとき、わたし、ただ、きれいだなって。それから、もっと知りたいなって。そう思ったの」


 窓辺の光が、ソレイユの睫毛の先で細かく揺れている。その声には、気を遣った丁寧さではなく、あのとき本当にそう感じたのだという、ただの事実があった。


「だから……最初からなんでもかんでも並べなくてもいいんじゃないかな」


 彼女の指が、わたしの矢印だらけの紙のいちばん端、何も書かれていない余白をそっと指した。


「まず、あの『小さな奇跡』を見せてあげたらいい。精霊魔術ってこういうものなんだよ、って」


 その言葉が落ちた瞬間、頭の中で絡まっていた糸が、ふっとゆるんだ。


 その言葉に、もっと古い記憶がふいにほどけた。


 森の匂いが、ありもしないはずなのに鼻の奥をかすめた。遠い蝉の声。真っ白な紙の上を走る赤。あのころのわたしは、〈場裏〉という言葉さえ知らなかった。ただ、生き延びるために、断ち切りたいと願っていた。


 その切実さへ、虹色の気配は言葉より先に触れてきた。


《それがあなたの願いなら、叶えてあげる。それがわたしたちの繋がりの証だから》


 その声は誰でもなく、世界そのものの響きだった。


 理解はいつも、あとから静かに芽吹く。


「……そうか――」


 声が、思ったよりも静かに出た。


「まず、ありのままを見せればいいんだ。わたしの思い描く、精霊魔術を」


 ――兵器ではない、美しいものを……ささやかな、生きるための術を。


 自分では気づけなかった。全部を正しく伝えなければという焦りが、いちばん大事なものを隠していた。


「うん。それがいちばん伝わると思う」


 ソレイユがうなずく。その顔は、何か難しいことを解いた顔ではなくて、ただ自分の感じたことを返しただけの、すこし照れたような顔だった。


 わたしは矢印だらけの紙を裏返して、まっさらな面を上にした。ペンを取り、紙の真ん中に、たった一行だけ書く。


 ――まず、見せること。


 そこから線を引く。見せたあとに、いま何が起きていたのかを話す。精霊子のこと。〈場裏〉のこと。疑似精霊体のこと。さっきまで絡まっていた糸が、この一行を軸にすると、不思議なくらい素直にほどけていった。


「あ、ちょっと待って。じゃあ次に来るのは……」


 ソレイユが身を乗り出してきた。わたしの書いた線の先を指でなぞり、少し考えてから言う。


「見せたあとに、いま何が起きてたの? って聞きたくなると思う。わたしがそうだったから」


「そう。そこから精霊子と〈場裏〉の話をする。無から生んだんじゃなくて、もともと周りにあるものへ働きかけていた、って」


「うん、それならわかる。わたしでもわかった」


 ペンの先が、紙の上で一度だけ止まった。研究者としてではなく、受け取った側の言葉だった。


「それから最後に……倫理のこと。無理に従わせたらどうなるか。応じないものを押し切ったら、術は美しさを失うということ。だから精霊魔術は、押し切って従わせるものじゃなくて――」


 そこで少しだけ迷って、けれどもう迷う理由はなかった。


「――対話の術なんだってこと。最後に、そう結べたらいいなって思う」


 書きながら、自分の手が震えていないことに気づいた。さっきまでの焦りが嘘みたいに、ペンの先がすうっと紙の上を滑っていく。


「……いい。すごくいいと思う」


 ソレイユが、小さく息をついた。笑みというより、ほっとした顔だった。


「ねぇ、ミツルさん。講義のレジュメとか、流れの整理とか……わたしでよければ、手伝わせてくれない?」


 その申し出は、少しだけ意外だった。


「でも……あなたにだって自分の研究があるでしょう?」


「そんなことないよ。わたしまだ一年目だし、講義以外は暇だったりするの」


「そ、そうなの? だけどわざわざ時間を取らせるなんてこと、悪いわ……」


「すごく面白そうだから、っていう理由じゃだめかな? それに――」


 彼女は少しだけ肩をすくめた。


「わたし、受け手の立場としてなら、あなたの役に立てると思うの。説明が難しすぎるところとか、ここがわからないとか。それくらいしかできないけど」


 それくらい、と彼女は言う。けれど、それがどれほど得がたいかを、わたしはさっき身をもって知ったばかりだった。


「あ……ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、すごく助かる」


 素直にそう言えたことに、自分で少し驚く。


《《……よかったじゃん》》


 脳裏にそっと滑り込んできた声に、指先がかすかに止まった。


《《肩を並べて、いっしょに考えてくれる子が、やっとできたんだから》》


 その声は、拗ねてもいないし、寂しがってもいなかった。ただ静かな安堵だけが、やわらかく滲んでいた。


 ――茉凜。あなた……。


「ソレイユ、じゃあ早速だけど……」


 わたしは紙の端をソレイユのほうへ少し向けた。


「この流れで、最初の一行をどう書けばいいか、一緒に考えてくれる?」


「うん。もちろん」


 ソレイユが椅子を少し寄せた。木の脚が石の床をかすかに擦る音がして、それだけで、さっきまでとは距離が変わった。午後の光が二人のあいだの紙を照らし、まだ何も書かれていない余白が、ペンの先を静かに待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ