優しくてきれいなものなんだって
総長室を出ると、廊下の空気は思ったより冷たくて、火照っていた頬がようやく冷えていく。高窓から落ちる昼の光が石床を長く照らし、その白さに目を細めた。
さっきの言葉が、まだ消えずにいる。最後。終える。託す。そのどれもが重いのに、不思議と足まで重くはならなかった。怖いままでも、始めなければならないことだけは、はっきりしている。
「ね、茉凜……あなたはどう思う?」
《《よかったんじゃないかなって思う。うんうん》》
脳裏へ滑り込んできた声に、張っていたものが少しだけ緩む。茉凜の気安い調子は、こういうとき本当にずるい。
「……断れなくてね。というか、断る理由すら見つけられなくなってしまった」
歩きながら小さく息を吐く。断れなかったのは本当だ。けれど、それだけではないことを、もう自分でも知っている。
《《わかる。それに、あのグレイさんが『頼む』だなんて、本当に珍しい話じゃない?》》
そこで言葉が止まったのが、かえってありがたかった。続きを聞かなくても、何を言いたいのかはわかる。お祖父さまに残された時間のことまで、軽々しく口にしてほしくはなかったからだ。
「……うん。正直、まだ実感が湧かないわ」
足を止めずに答える。窓辺を渡る風が、裾をかすかに揺らしていた。
《《でもまあ、あなたならやれると思うよ? なにせ、このわたしが保証するんだから》》
その得意げな響きに、思わず肩の力が抜ける。
「保証を? あなたが? ……怪しいものね」
《《ずっと、いちばん近くであなたを見てきたのはこのわたしなんだから。ね、その意味、わかるでしょ?》》
からかうようでいて、芯のところだけは外さない。
――諦めが悪いって言ってよ。それだけだし。それしかできないんだ。でも……。
みぞおちの奥にあったざらつきが、すこしだけやわらいでいく。
「ありがとう、茉凜。……でも、さすがに講義ってなると、何を伝えたいかをちゃんと決めなきゃ。あれもこれもって欲張ったら、どれも中途半端になりそうだしね……」
まだ、輪郭は曖昧だった。見せたい景色はいくつもあるのに、どこから手をつければいいのかわからない。わたしのなかでひとつながりになっているものを、他人に渡せる順番へ組み替えなければならない。その難しさが、じわじわと現実味を帯びてくる。
《《そうそう。あと、あなたの悪い癖だけど、考えすぎると身動きが取れなくなっちゃうよ》》
「わかってるわよ。そんなことくらい」
《《だから、まずは手もとのものから並べてみればいいんじゃない?》》
その一言だけで十分だった。いまは、答えより、とりかかるための足場のほうがほしい。
「……そうね。そうしてみるしかない。そんな器用にできるわけもないし」
《《どうせ今日もこれから図書館でしょ? 本を山ほど抱えて、背中丸めるのもほどほどにね。でないと近眼になっちゃうぞ》》
思わず笑ってしまう。図星だった。
「……もう、わかってるわよ」
そのまま足を図書館へ向ける。まずは、手もとにあるものを並べてみるしかない。精霊族。精霊子。〈場裏〉。想念による術式構築と疑似精霊体との対話。言葉にすればたった四つだけれど、どこから入っても別のものが絡んでくる。机の上に広げたとたん、きっとまた迷うのだろう。それでも、迷うための机へ向かえるのなら、まだ進めていける。
閲覧机に着くころには、図書館は午前のざわめきをすでに失っていた。高い天窓から落ちる光が木の机の縁だけを明るくして、紙の白さをひどく静かに見せている。抱えてきた本を順に置き、貸出票としおりを脇へ寄せる。椅子に腰を下ろすと、ようやく身体の奥に溜まっていた緊張が、じわりと背中のほうへ沈んでいった。
まずは雑にでも書き出してみようと、空いた紙へ項目を並べる。けれど、書いたそばから線が増え、矢印が交差し、わたしの頭のなかそのままの混み入った図になっていく。
紙の端へ置いた指先だけが、冷えた机の木肌に浅く貼りついていた。
――まず精霊子から入るべきか。いや、〈場裏〉が手の内で広がる感覚からでなければ、ただの説明になってしまう。では、精霊族の話を先に置くべきか。けど、参照できる資料は限られている。憶測だけ先行しても……。
考えるたび、何かひとつがこぼれ落ちる気がした。
時間の感覚が薄れていく。紙をめくる音、遠くで椅子がわずかに引かれる音、それだけが静寂の底で細く鳴っている。気づけば窓から差す光の角度が変わり、机の上に落ちる影も昼の色へ寄っていた。
《《だいぶ読み込んだわね。もうお昼だけど、いったん区切りをつける?》》
顔を上げると、たしかに腹の底がうすく空いている。集中していたぶん、身体の声を後回しにしていたらしい。
「そうね……。いったん休憩してお昼ごはんにしよう。要点を頭の中で整理しないと」
本を閉じ、仮貸し出しの手続きを済ませて立ち上がる。まだ、講義の形は見えていない。けれど、何を言いたいのかだけは、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。怖さの隣にある、あの小さな火を、ちゃんと言葉にしたい。その思いだけを抱えたまま、わたしは食堂へ向かった。
◇◇◇
食堂へ続く渡り廊下は、昼どきらしいざわめきをもう隠しきれていなかった。扉の向こうから器の触れ合う音や人の話し声が幾重にも重なって聞こえてきて、ついさっきまで図書館に満ちていた静けさが、もう別の場所のもののように思える。
すれ違うのは、香料の甘い尾と異国訛りの議論。鮮やかな色布のターバンも、金糸を縁に走らせた外套も、この大学ではその人の学びの匂いを先にまとっていた。立派な革靴も、すり減った旅靴も、みな同じ石段を踏んでいく。白墨の粉が斜めの光のなかを細かく舞い、大理石の廊下を踏むたび、足音が高い天井へ吸い込まれていく。
ここは、家柄で声の大きさが決まる場所ではないらしい。生まれのよさより、術の精度。誰も拾わなかった問いを拾い上げる眼差し。お祖父さまが総長として立っていること自体が、そのいちばん静かな証のように思えた。
わたしの黒髪に目を留める者がいないわけではないだろう。けれどその視線は、次の瞬間にはもう自分の本や書類へ戻っている。王都で囁かれる黒髪のグロンダイルという重たい名も、この多様な熱気の中では、掲示板の隅で剥がれかけた古い紙のように薄れていく。
胸元に下げた特別聴講生の厚紙の札が、歩くたびに衣擦れに混じって小さく鳴る。まだ新しい墨の匂いが、触れた指先へかすかに移ってくる気がした。
――これでいい。いまのわたしは、ここでただの学ぶ者として歩いていられれば。
食堂の扉を押し開けた途端、昼のぬくもりがふわりと頬を包んだ。鍋から立つ湯気と、焼きたてのパンの香りと、煮込みのやさしい匂い。長机のあちこちで笑い声が弾んでいるのに、不思議と騒がしくは感じない。
カウンターでサラダとスープを受け取る。
――パンは、いらないか。眠くなりそうだし。
木のトレーは掌にしっとり馴染んで、器の縁に触れた指先にほどよいあたたかさが残った。いつものように端の空席へ向かおうとした、そのときだった。
「ミツルさん?」
呼ばれて顔を上げる。窓際の席で、ソレイユがこちらを見ていた。淡い光が肩先に落ちて、その横顔をやわらかく縁取っている。
「ソレイユ……」
名を呼んだだけで、こわばっていたものが少しだけほどけた。見知った顔というより、見知った距離だった。この大学で、わたしに自分から声をかけてくるのは、たぶん彼女だけだ。
「こっち、まだ空いてるよ。よかったら一緒にどう?」
そう言いながら、向かいの椅子をそっと引いてみせる。何気ない仕草なのに、それに押されるみたいに、わたしは小さくうなずいていた。
「うん……ありがとう」
席へ向かうあいだも、食堂のやわらかな空気がわたしの周りを流れていく。匙の触れ合う音。窓辺を渡る風。焼き菓子の甘さ。そんな些細なものたちが、総長室を出てからずっと張りついていた緊張を、すこしずつ日常のほうへ引き戻してくれている。
席に着くと、ソレイユはすぐには何も訊かなかった。ただ水差しからわたしの杯へ水を注いで、そのあと自分の皿へ視線を戻す。その間の置き方が静かで、ありがたかった。
「……ミツルさん、なんだか今日は少し疲れてるみたい」
しばらくしてから、彼女がそう言った。決めつけるのではなく、そっと触れるみたいな声だった。
「そんなに顔に出ていたかしら」
「少しだけ。いつもより、ずっと考えごとしてる顔だったから」
匙を持つ指先に、わずかに力が入る。窓の外で、風に揺れた梢が白い光を細かく弾いている。わたしは一度だけ息を整えてから、まだ熱の残るスープへ目を落とした。
「……実はね、さっき総長に呼ばれたの」
それだけで、ソレイユの手がかすかに止まる。
「えっ、総長に? ……ごめん、何か問題があったの?」
素朴な驚きに、思わず頬が緩む。
「違うの。そういう話じゃないの。ただね……」
「うん」
目を丸くしたまま先を待ってくれる様子に背中を押されて、わたしはもう少しだけ言葉を先へ進めた。
「教授方や研究者たちの前で、精霊魔術のことを話してほしいって頼まれて……実技も、少しだけ」
「わぁ……」
驚きはしても、騒がない。ソレイユは口もとへ指先を添えたまま、ほんの少し目を見開いて、それからすぐにやわらかな顔へ戻った。
「それって、すごいね……。でも、急にそんなこと言われたら、びっくりするよ」
「ええ。だから、まだうまく受け止めきれていないの」
皿から立つ湯気が、かすかに頬へ触れていく。温かいはずなのに、喉の奥にはまだ朝からの乾きが残っていた。
「断れなかった、というのもあるのだけれど……それだけでもなくて」
言葉を選ぶあいだ、ソレイユは黙って待ってくれていた。周りでは誰かの笑い声が上がり、少し離れた席で皿が軽くぶつかる。その昼らしい音のなかで、自分の声だけが妙に小さく感じられる。
「精霊魔術のことを、ちゃんと見てほしいと思ってしまったの。ただ怖いものとしてじゃなくて……そこにある静けさや美しさも。あれが、本当は、祈りや願いに近いものなんだって」
口にしてみると、漠然としていたものが、皿の上の湯気みたいに少しだけ輪郭を持った。言葉に触れたぶん、手の届くところへそっと寄ってきたようだった。
ソレイユは、すぐには相槌を打たなかった。自分の杯へ指先を添え、ひと呼吸ぶんだけ視線を伏せる。
窓からの光が、彼女の杯の縁で小さく揺れた。
それからゆっくり顔を上げて、穏やかに微笑んだ。
「……だったら、引き受けてよかったんじゃないかな」
「……そうかしら」
「この前、見せてもらったでしょ? あんなにきれいなものが怖いだなんて、わたしはぜんぜん思わなかった。だから、やってみたいって思えたなら、きっとそれは大事なことなんだと思うよ」
その言い方があまりにまっすぐで、わたしは一瞬だけ言葉を失った。慰めというより、ただ静かに確かめてくれているのに近い。そうなのだと、他人の口からそっと置き直してもらうだけで、こんなにも呼吸がしやすくなるのだと思う。
《《なんだっ、この子。ちょっと、わたしの出る幕ないじゃないの》》
脳裏で拗ねたような声がして、危うく笑いそうになる。
「でも、困っているのはその先なの。何をどんな順で話せばいいのか、まだ全然見えていなくて……」
「たしか、精霊族とか、精霊子とか? ……あと、術の組み立て、だったよね」
思わず顔を上げると、ソレイユは少しだけ肩をすくめた。
「ミツルさんが説明してくれた、観測と会話の中間っていうのが面白いなって思ったの」
指先が杯の縁をなぞるたび、水面がかすかに揺れた。
「精霊子を感じ取って集める。それから〈場裏〉っていう空間の中でイメージを組み上げる。思い出してみただけなんだけど。違ってたらごめんね」
「違ってはいないわ。むしろ、その通りで驚いたくらい」
そう返すと、彼女はほっとしたように目を細めた。窓から入る光が睫毛の先で淡く滲んで、その表情をいっそうやわらかく見せている。
「だったら、最初から全部きれいに並べなくてもいいんじゃないかな。まずは、いちばん伝えたいことから話してみるとか」
匙の先が、皿の縁へかすかに触れた。
「たとえば……精霊魔術って、優しくてきれいなものなんだってこと、とか」
その一言で、散らばっていた項目が、皿の縁へそっと寄せられたように思えた。精霊族とは何かも、精霊子とは何かも、〈場裏〉とは何かも、きっと必要だ。けれどそれらは全部、結局はそこへ繋がっているのかもしれない。
「……そうかもしれないわね」
今度の声は、さっきまでより少しだけ深く落ちた。講義の形はまだ見えていない。それでも、入口のひとつくらいなら、ようやく手探りで触れられそうな気がしている。
食堂のざわめきは相変わらず続いていた。誰かが遅れて席へ駆け込んできて、友人たちに笑われている声がする。パンを割る音。まだ冷たい風が窓辺のレースを揺らす。そんな昼のただなかで、わたしはようやく、自分の抱えた不安を不安のまま机の上へ置いてみてもいいのだと思えた。
「ねぇ、ソレイユ」
「うん?」
「もしよかったら、午後少し付き合ってもらえる? 図書館で、講義の流れを整理してみたいの」
「もちろん。でもその前に、ちゃんと食べよう? お腹が空いたままだと、考えごとってすぐ絡まっちゃうし」
そのあまりにもっともな言い方に、今度こそ小さく笑ってしまう。匙を取り直すと、冷めかけていたスープの湯気が、まだ細く残っていた。
「ええ。そうするわ」
窓硝子の向こうには、新春のうすい陽があるばかりで、外の空気はきっと頬に刺さるくらい冷たい。それでも、食堂に満ちる湯気と器のぬくもりのなかにいると、いま抱えている不安まで、少しだけ手の届くものに変わっていく気がした。
講義の形はまだ見えていない。何をどう語るのかも、どこから手をつけるのかも、これからだ。けれど、精霊魔術を知りたいと目を輝かせてくれるソレイユが、隣で同じ方向を見てくれている。そのことだけで、手元の器のぬくもりを、もう少しだけ手放さずにいられた。
――まずは、取っ掛かりだけでいい。
そうして、わたしの精霊魔術の講義は、ソレイユのまっすぐな好奇心を最初の手がかりにして、静かに現実へ踏み出しはじめた。




