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お祖父さまの願い

 それから数日のあいだ、わたしの考えは何度も同じところへ戻った。


 お祖父さまの病は、いったい何なのか。どこまで進んでいるのか。侍医司でもないわたしには憶測しかできないとわかっているのに、顔色や息の継ぎ方、立ち上がるまでのわずかな間、そんなものばかりを見てしまう。


 夜更けまで灯の消えない書斎を遠く眺めては、あれこれ考えて、けれど結局は何ひとつ確かなことに辿り着けない。病名を知らない不安は、知らないままのほうがかえって膨らむのだと、その数日でいやというほど思い知らされた。


 それでも問いただすことはできなかった。あの方が何も言わず笑うたび、その沈黙ごと大切にしなければならない気がしてしまったからだ。


◇◇◇


 離宮を出るころには、まだ眠りの底の重さが肩のあたりに薄く残っていて、まさか自分を待つ話があるなど思いもしなかった。いつものように大学へ向かい、いつものように石段を上がり、図書館で古記録の続きを探すつもりでいた。


 だから、その朝、総長執務室へ呼ばれたとき、内側に走ったのは軽い訝りではなかった。また何か、見過ごせないことが起きたのではないかという、嫌な予感だった。


 高い窓から、まだ冷えを残した光が差し込み、机上の書簡の端だけを白く照らしている。室内には乾いた紙と古い木の匂いが澄んでいて、壁際の杖や魔術器具は物も言わず沈んでいた。その静けさのただなかで、お祖父さまだけが、いつもと変わらぬ穏やかな顔でわたしを見ていた。


「ええと……それって、何かの冗談ですよね?」


 自分でも驚くほどかすれた声だった。膝の上で指先が勝手に強ばり、爪の先だけがひやりと冷える。


「いや、いたって真面目だ。これは私からの、真剣なお願いなのだよ」


 やわらかな笑みなのに、言葉だけが逃げ道を塞いでくる。頼みごとという形をしていても、その奥にある切実さを、わたしはもう見落とせなくなっていた。


「で、で、でも……わたしなんかが?」


 喉が鳴った。総長室の空気が急に狭くなったようで、うまく息が回らない。


「うちの教授たちや研究者たちが、ぜひにと騒がしくてね。ここはひとつ、私の顔を立ててもらえないだろうか――」


 冗談めかした口ぶりに聞こえるのに、お祖父さまの目は少しも笑っていなかった。机の端に積まれた書類の山が、なぜだか急によそよそしく見えている。


「君なりに、精霊魔術の概論と、ささやかな実演をしてもらいたいのだ」


 みぞおちのあたりで、どくん、とひときわ大きく脈が打った。


 ――わたしが講義!? しかも実演まで!?


 言葉にした途端にほどけてしまいそうなものを、今度は他人に伝わる形にしなければならない。そう思っただけで、胃のあたりが静かに縮こまった。


 けれど、それだけではなかった。怖いのに、そのすぐ隣で、顔を上げたい気持ちも確かにあった。


 あの景色を怯えや警戒ではなく、まっすぐ見てほしい。精霊魔術がただ傷つけるためのものではないと、誰かに知ってほしい。そんな願いが、自分のなかにまだ残っていたことに、わたしはそのとき遅れて気づいた。


「わ、わたしは、そんなだいそれた人間ではありません。探究心が強いといっても……その、ただ昔から本が好きで、夢中になると我を忘れてしまって……気がついたら、読み耽っていただけで……」


 視線を落とすと、胸の前で重ねた指がかすかに震えていた。言い訳じみているとわかっているのに、それでも何かを差し出していないと、この場に立っていられない気がした。


 椅子の脚が絨毯をわずかに擦る音がして、お祖父さまが立ち上がる。書類の山を縫うようにこちらへ来る気配に、わたしは顔を上げた。肩に置かれた手は、思ったよりも静かで、思ったよりも温かかった。


「引き受けるも断るも、決めるのは君だ。年寄りのわがままと笑われるかもしれないが、私はこの時をずっと待っていたのだよ。もしかすると、こうした機会は、もう二度とないかもしれない……」


 肩に置かれた手の温度だけが妙に鮮やかで、次の言葉を待つあいだ、喉の奥がひどく乾いた。


「だからこそ、君に託したいのだ。学問のため、などと大きなことを言うつもりはない。ただ君自身のために、君が培ってきたものを――君にしかない魔術への眼差しとともに、一度、皆の前へ差し出してほしい」


 「もうないかもしれない」という濁し方のほうが、かえって逃げ場がなかった。その先を、勝手に思い描いてしまうからだ。薄い刃みたいな冷たさが肋骨のあたりへ滑り込み、呼吸をするたび、そこだけがひりついた。


 病のことを、お祖父さまは決して口にしない。けれど、離宮へ戻っても休まず書斎に籠もる背中を、わたしはもう何度も見ている。夜更けの灯りの色まで思い出せるのに、知らないふりだけを続けることなんてできなかった。


 ――断れない。


 いや、それだけでは足りないのかもしれない。断りたくないのだ、と気づいてしまったからだ。この方がわたしに託そうとしているものを、一度きちんと受け取りたい。あの静かな術の景色を、今度はわたし自身の言葉で差し出してみたい。その思いが、怖さのすぐ隣で、消えずに残っている。


「……わかりました」


 声は細かった。それでも、返事に迷いはなかった。お祖父さまの目もとが、ふっとやわらぐ。その変化を見て、ようやく自分がずっと息を詰めていたのだと気づく。


「でも、本当によろしいのですか。わたしのような未熟者が、熟達した方たちの前でお話をするだなんて……受け入れていただけないかもしれません」


 怖いのは、人前に立つことそのものではなかった。わたしの内側ではあまりに当たり前になってしまっているものを、言葉にした途端、どこかで取り落としてしまいそうなのが怖い。


 精霊魔術は、ただ力の仕組みとして眺めるだけでは足りない。その肌触りまで含めて伝えなければ、きっと別の何かにすり替わってしまう。


「心配には及ばんよ。研究者というのは、案外、新しい視点を求めているものだ。長く同じ理論ばかりをなぞっていては、学問は先へ進まない。君の柔らかな発想と、君にしかない魔術への眼差しは、きっとあの者たちにとって良い刺激になるだろう」


 励まされているのに、内側はまだ落ち着かない。わたしが持っているのは、磨かれた講義術ではなく、触れてきた景色の記憶に近いものだった。だからこそ、どこから語り始めるべきなのかが、まだ見えていない。


「そんなふうに言っていただけるなんて……ありがたく思います。けれど、講義をどう組み立てればいいのか――そこだけが、まだ不安で……」


 言いながら、指先が袖口の布をそっとつまんでいた。紙の乾いた匂いのなかで、自分だけがひどく頼りないものに思えてくる。


「なにも型にとらわれなくていい。君だけの感性を、そのまま差し出してみなさい。彼らが求めているのは、既存の魔石魔術には無い視点なのだよ。新しくものを見る驚きこそが、探究のはじまりになるのだからね。私はそう信じているよ」


 その言葉に、袖口をつまんでいた指の力が、ほんの少しだけ緩んだ。理屈に収まりきらないからこそ、わたしが見てきたままを差し出すしかないのかもしれない。けれど、見せたいものがあることと、それを伝えられることは、別だった。


「ですが……わたしの精霊魔術は、理屈が無いわけではないのです。ただ、それを一段ずつ積み上げているというより、想念の中でひとつの完成した像として結んでしまうので……途中を筋道立てて説明しようとすると、どうしても曖昧になってしまうのです」


 自嘲するように首を振る。術を使うとき、わたしはいつも先に景色を感じ取っていた。


 精霊子の流れも、〈場裏〉のひらく感触も、疑似精霊体の気配も、説明より先に身体が知っている。だからこそ、それを人の学びの入口へ置き直す作業が、思っていたよりずっと難しかった。


「本来、講義が示すべきは、学びへの入り口だ。君には、その扉をひらく力がある。感覚と想念に基づく術なら、まずはありのままを見せてあげればいい。それこそが、君にしか語れぬ魔術の姿なのだからね」


 やわらかな声音だった。けれど、そこには甘やかしではない信頼がある。その重みが、肩にのるのではなく、背のほうへ回って支えてくれるのがわかった。


「……わかりました。では、わたしなりに精霊魔術について、お話ししてみようと思います。実技は、わたしが比較的扱い慣れている範囲で、複数の〈場裏〉を連携させたものをお見せできればと。ただ、あくまで被害の出ない範囲にとどめるつもりです。それでも差し支えありませんか?」


 同時に混ぜるのではない。ひとつずつ領域を立て、閉じ、つなげる。その順序だけは、絶対に誤らないようにしなければならない。


 喉はまだ乾いていた。それでも、さっきよりは言葉がまっすぐ前へ出ていく。怯えは消えていないのに、不思議とその隣に、やってみたいという熱が残っていた。


「うむ。被害の出ぬ範囲であれば、それで十分だ。君が示したいものを、きちんと示しておやり。それに……」


 お祖父さまが、そこでほんのわずかに言葉を切る。窓から差した光が頬の線に薄く触れて、いつもよりもその横顔を静かに見せていた。


「個人的な願いを言わせてもらえば、君が魔術界の未来を照らす人だと、この目で確かめられればそれでいい。そう思えれば、私も少しは安んじられる」


「お祖父さま……」


 それ以上の言葉は続かなかった。目の奥が熱を持つ。けれど、ここで崩れてしまうのは違う気がした。この方がわたしに託そうとしているものを、涙で曇らせたくなかった。


「……はい。わたし、やってみようと思います」


 今度の声は小さくても、芯だけは残っていた。お祖父さまが、長く張りつめていたものをようやく下ろすみたいに肩の力を抜く。その様子に、わたしの内側でも何かがゆるやかにほどけていった。


「ありがとう。では、さっそく教授会の面々には私から話を通しておこう。君は君のやり方で、納得のいくかたちになるまで準備をしてみなさい。わからないことや困ったことがあれば、いつでも訊きに来るといい」


 総長としての声音へ、すっと戻っていく。その切り替わりが、かえってお祖父さまらしかった。


「はい……ご期待に添えるよう、わたしなりに精一杯努めます」


 まだ不安はある。けれど、それを抱えたままでも前へ出るしかないのだと、もうわかっていた。守られているだけではいられない。けれど、守られてきたからこそ、ようやく差し出せるものもあるのかもしれない。


 お祖父さまが机上の書簡へ視線を戻す。公務へ戻る合図だった。わたしは深く一礼し、扉へ向かう。真鍮の把手に指をかけたところで、背後からふたたび声が届いた。


「それから……講義の前に、一度、私の前で試してみてはどうだろう。いきなり大勢の前では気が重いだろうからね。時間は、お互いの都合のよいときで構わない。離宮の屋上でも、夜の庭園でも、君の落ち着けるところを選びなさい」


 その提案に、真鍮の把手へかけていた指が止まった。いきなり見知らぬ視線のなかへ出るのではない。まずは、お祖父さまに見てもらえる。その順番があるだけで、怖さのかたちが少し変わっていた。


「……はい。実技の構成が決まりましたら、そのときはぜひ、見ていただきたいです」


 振り返らずにそう答える。それでも、声はもう震えていなかった。


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