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お祖父さまのそばにいたい

 夜の離宮は、音まで遠慮しているみたいに静まり返っていた。


 窓辺の椅子へ腰を下ろし、膝に横たえたマウザーグレイルへそっと指を添える。白い刀身は昼間より冷たく、触れたところからじわりと熱を奪っていく。昼のあいだは、どうにか気を張っていられた。けれど、灯りを落とした部屋へ戻ってしまうと、朝から身体の底へ沈めていたものばかりが、音もなく浮き上がってきた。


 ――お祖父さまの余命は長くない。


『良くて一年。春を越えられるかどうかも、はっきりとは言えない』


 ヴィルの声は低かったのに、その一言だけが、まだ肋骨のあたりへ刺さったまま抜けていなかった。


《《……美鶴》》


 剣の先が、ごく小さくふるえた。呼びかけるというより、こちらの呼吸をたしかめるような、控えめな揺れ方だった。


「……うん」


 返事をしただけで、喉の奥が少し痛む。泣くつもりはない。けれど、いま名前を呼ばれると、それだけで危うかった。


《《……今朝のこと、考えてる?》》


「うん」


 短く答えて、視線を窓の外へ逃がす。夜の庭はしんと沈み、噴水の水音だけが細く響いている。昨夜、お祖父さまと月を見た窓辺も、きっと今は同じ形のままそこにある。何も変わっていない景色が、かえって残酷だった。


「……わたし、やっとわかったの。昨夜の『幸せになっておくれ』って、あの言葉の意味が……薄々、予感はしてたんだけど。そんなはずないって、きっと気のせいだって、考えないようにしてた」


 指先に触れた剣の冷たさが、わずかに深くなる。


「あれは祝福の言葉だった。それを素直に喜べない自分が、ずっといやだった。疑うみたいで。あの方の優しさに影を塗りつけるみたいで。でも……やっぱり、そういうことだったんだよね」


 そこで息が途切れた。目の縁がじわりと熱くなって、瞬きをしても追いつかない。


「でもね、やっと会えたのよ?」


 声が、そこでひどく幼くなった気がした。


「もっとお話ししたい。もっといろいろ教わりたい。恩返しだってしたい。だって、いまのわたしがあるのは、あの方がいたからよ」


 窓硝子に滲んだ月明かりが、白い刀身の上を細く滑っていく。


「……母さまだってそうだった。あの方が手を放さなかったから、あんなに強くなれた。わたしは、その娘なのよ」


 冷えた夜気が硝子越しに滲んできて、こめかみの熱を少しだけさらっていった。


「でも、あの方は言わないの。ほんとはわたしを行かせたくないのかもしれないのに。言わないで、笑うんだよ。病気できっと苦しくて、怖いはずなのに。何も言わないで、自由に生きろって。幸せになれって……」


 最後のところで、声が掠れた。


「ひどいじゃない……」


 ぽつりと零れたその一言は、誰を責めるでもなかった。


「そんなふうに言われたら、わたし、残りたくなるに決まってるじゃない。知っちゃったら……そんなの、行けるわけないじゃない……」


 喉の奥が詰まる。息を吸おうとしてもうまく入らなくて、唇だけが頼りなく震えていた。


「わたし、どうしたらよかったんだろうね」


 窓辺の灯りが、刀身の上でかすかに揺れている。


「知らなければよかったなんて、そんなこと思いたくない。でも、知ってしまったら、もう前みたいには考えられない。お祖父さまを置いていくのが、どうしようもなく怖い。ヴィルに言われなくても、たぶん本当はわかってた。わかってたのに、わたし遠くのことばっかり気を取られて……」


 ――なんてばかなの……。


 とうとう涙がひとつ落ちて、白い刀身の上へ小さく散った。すぐに拭うつもりだったのに、手が動かなかった。


《《美鶴》》


「だって、もう手遅れなんでしょう?」


 堰を切ったみたいに、言葉がこぼれる。


「春を越えられないかもしれないんでしょう? あと何回、月を見られるのかもわからないんでしょう? もっと話せたはずなのにって、もっとそばにいられたはずなのにって、そうなったら……」


 そこで言葉が折れた。肩がかすかに揺れて、自分でも止められない。


「わたしの抱えているものを知って、それでもわたしを見てくれる人だったのに。あんなふうに、言ってくれる人なのに」


 剣の柄へ指をずらす。硬い感触に縋るみたいに握っている。


「なのに、あの方は自分のことを後ろへやって、わたしの先のことばっかり願うんだよ。ずるいよ。そんなの、わたしが自分のことだけ考えられなくなるって、わかってるくせに」


《《……うん》》


 茉凜は、それしか言わなかった。その短い相槌が、かえってありがたかった。変に慰められたら、たぶんもっと壊れていた。


「わたし――」


 そこで一度、唇を噛む。言ってしまったら、もう戻れない気がした。


「お祖父さまのそばにいたい」


 涙が続けて落ちた。拭っても、拭った端からまた滲んでいく。


 刀身の上に散った雫が、灯りを受けて小さく光っている。茉凜も、わたしも、しばらく何も言わなかった。噴水の水音だけが、夜の底で細く鳴りつづけている。


「……西方のことも気になる。虚無のことも、不具の紋様も、放っておけない。それは本当。でも、いま、いちばん手放したくないのは海の向こうじゃない。お祖父さまとの時間なの。なくしたくない。まだ、なくしたくないのよ……ほしかったものがやっと見えてきたのに」


 声がまた小さくなる。


「こんなの、ずるいよね。結局、わたし自分が後悔したくないだけなのかもしれない。最後にそばにいられなかったらいやだって……」


 そこで言葉が途切れた。その先を口にしたら、自分をもっと嫌いになりそうだった。


《《それで、いいよ》》


 返ってきた声は、とても静かだった。


《《それでいい。今の美鶴、それ全部ほんとの気持ちでしょ》》


 わたしは答えられず、ただ目を伏せる。涙で曇った刀身に、窓辺の灯りが細く伸びていた。


《《行きたいのもほんと。残りたいのもほんと。後悔したくないのもほんと。だったら、まずそのまま認めればいい。ぜんぜん欲張りでもわがままでもないよ》》


「……でも」


《《でもね、順番はあるよ》》


 その一言だけが、やわらかいのに揺らがなかった。


《《それだけ気をつければいい。まず手の届くところから、できることをやるの。これ、大事なことだよ》》


 すぐには頷けなかった。けれど、拒む言葉も出てこない。


「……うん」


 やっとそれだけを返す。


「うん……そう、だね。たぶん、それしかない。行きたい気持ちを消すんじゃない。そういうことなんだよね……」


《《うん》》


「ほんとは、きれいに割り切れたら楽だったのに」


《《美鶴がそんなふうに器用にできるわけないでしょ》》


 思わず、涙のあいだから小さく笑ってしまう。ひどい言い草なのに、否定できない。


「……そうね」


 剣へ頬を寄せる。ひやりとした金属の向こうにある気配だけが、確かに近かった。


「今夜は、ちょっとだめかも。ちゃんとした顔、できそうにない」


《《しなくていいよ。今夜くらいはさ。……ねえ、美鶴》》


「なに?」


《《答えをきれいにまとめなくていい。慌てても、ろくなことないんだから》》


 その言い方が、ひどくやさしかった。


《《残るって決めたなら、もうそれで十分。あとは、ちゃんと寝る。泣きたかったら泣いていいし。……けど、ひとりで勝手にどこかへ行くのは、なしだよ。絶対にね》》


「それ……子ども扱い?」


 声が少し、鼻にかかった。もう泣き止んだつもりだった。けれど、声だけはまだ少し濡れていた。


《《違う違う。ただ、あなたのこと知ってるから言ってるの。こういうときとなると、ひとりで決めちゃうでしょ、あなた》》


「……否定できないのが悔しいけど。たしかに、茉凜のいうとおりかも」


《《ほらね》》


 思わず、かすかに笑ってしまう。笑えたことに、自分のほうが少し驚いた。目の縁がまだ熱いのに、口元だけがわずかにほどける。


「わかった。今夜は、ちゃんとここにいる」


《《うん。よろしい》》


 窓の外の闇は深いままだった。けれど、さっきまでみたいに底が抜けた感じはしていない。痛みが消えたわけではない。西方も、虚無も、不具の紋様も、お祖父さまの残り時間も、何ひとつ片づいてはいない。それでも、今夜わたしがいるべき場所だけは、ようやく見失わずに済みそうだった。


 マウザーグレイルを抱いたまま、わたしは静かに目を閉じる。


 ――今はまだ、行かない。その代わり、残ることから逃げない。


 その言葉だけを、膝に抱いた白い剣の重みに預ける。泣き腫れたまぶたの裏で、噴水の水音がもう一度、細く鳴った。


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