同じ思いは味わわせたくない
髪を整え、外出の支度を済ませる。袖を通すだけで背筋が少し伸びるはずなのに、腕の奥がどこか取り残されている。腰へマウザーグレイルを下げると、金具がかすかに鳴り、その重みが現実をひとつ戻してくれた。
鏡の中の自分は、思ったより普通の顔をしていた。けれど目の奥の疲れまでは隠しきれていない。口の中が乾いているのに気づいて、舌でそっと唇の内側を湿らせた。
扉を開けると、廊下の空気はまだ夜と朝のあいだにあった。窓硝子の向こうで空が白み始め、冷たい光が石床へ薄く落ちている。
そこに、リディアが待っていた。
「おはようございます、お嬢さま――」
いつもより声がやわらかい。わたしの顔を一度だけ確かめるように見て、少しだけ間を置いた。
「おはようございます、リディアさん」
並んで廊下を歩く。離宮の朝は静かで、足音だけが石壁にやわらかく返っていく。窓から差し込む光が少しずつ色を帯びて、壁に掛けられた燭台の金具をかすかに光らせていた。
「……昨夜は、あまりお眠りになれませんでしたか?」
否定しようとして、できなかった。曖昧に笑って首を傾げる。それだけで、リディアはそれ以上何も聞かなかった。
今日は大学の図書館で、昨日の続きを調べるつもりでいた。古記録の断片。王家伝承の揺らぎ。精霊魔術に関わる曖昧な記述。――けれどその前に、ヴィルに話さなければならないことがある。
昨夜の夢のこと。虚無のゆりかご。不具の紋様。西方の噂と、自分の中で嫌な符号が繋がりかけていること。そして、このまま「決めた順路」を守っていていいのかという、飲み込みきれない問い。
整理してから話そうとすると飲み込んでしまう。昨夜、茉凜にそう言われたばかりだ。だから今日は、まとまらないまま口にする。それだけ決めていた。
けれど何をどう切り出せばいいのか、まだ定まらない。西方へ行くべきかと聞けばいいのか。順路を早めたいと言えばいいのか。お祖父さまのことも含めて、自分でも何を求めているのかが曖昧なまま、足だけが廊下を進んでいく。
馬回しへ向かう渡り廊下に出ると、外の空気がひやりと首筋を刺した。馬車がすでに待っていて、馬の吐く白い息がうすく漂っている。車輪の金具が風に鳴るたび、静けさの底へ小さな音が落ちていった。
その時、渡り廊下の向こうから足音が聞こえた。
規則正しい、けれど急ぎすぎない歩幅。靴底が石を叩く硬い音。聞き慣れたそれが近づいてくるだけで、背筋がわずかに伸びる。
ヴィルだった。
朝の冷気の中を、外套の裾をわずかに揺らしながら歩いてくる。いつもなら合流するだけの距離まで来て、軽口のひとつでも投げるところだ。けれど今朝は、その軽さがない。口元から冗談の気配が消えていて、遠目にもわかるくらい表情が硬い。
わたしの姿を認めても、足を速めはしない。ただまっすぐ、こちらへ向かってくる。
「ヴィル、おはよう。ちょうど……」
話しかけようとした声が、途中で止まった。
「少し話がある。時間は取らせん」
低い声だった。朝の挨拶を飛ばして、用件だけを置くように。
わたしは口を閉じた。彼がこういう入り方をするのは、滅多にない。リディアがそっと半歩だけ下がった。察したのだろう。静かに距離を取り、渡り廊下の柱のそばで控える姿勢になった。
ヴィルは立ち止まった。わたしの二歩手前。馬車への道を、ちょうど塞ぐような位置だった。偶然ではない。
「奇遇ね。わたしも、あなたに――」
言いかけたところで、ヴィルが低く切った。
「先に聞いておく」
腕を組んだまま、ヴィルはまっすぐこちらを見た。
「お前、順路をすっ飛ばして海を渡ろうなんて、考えてるんじゃないか?」
指先が冷えた。
隠していたつもりはない。けれどこうして正面から言い当てられると、胃の奥がきゅっと縮む。
「……どうしてそう思うの」
「顔を見ればわかる。お前のことだ。あの噂を聞いて、じっとしていられなくなった。今すぐにでも自分の目で確かめに行きたいくらいのことは考えてる。違うか」
図星だった。否定しようとして、できなかった。口を開きかけた唇が、そのまま閉じる。
ヴィルは答えを待たなかった。わたしの顔を見れば、それで十分だったのだろう。
「決めたはずだ。まずは国内、次に中央大陸。それでも線が伸びるなら、その時に海の向こうを考える。先王と相談した上で決めた段取りを、お前自身が崩すつもりか」
「……崩すつもりはない。でも」
声が、思ったよりも小さくなった。
「だって、あんな話、黙っていられるわけがないでしょう。苦しんでいる人がいる。人道に反することが、今も現実に起きている。それを知ってしまったのに、順番だからって手をこまねいているだけでいいなんて、そんなふうに割り切れるほどわたしは器用じゃないわ」
言葉が少し早くなる。自分でもわかっている。昨夜、眠りの底で膨らんだ焦りが、まだそのまま残っていた。
「それに、それだけじゃ済まない気がするの。虚無も、不具の紋様も、クロセスバーナも、もう別々の話とは思えない。全部がどこかで繋がっていて、放っておいたら――」
外套の襟を風が鳴らした。ヴィルは腕を組んだまま、表情を変えない。けれど、目だけがわずかに細くなっている。
「そんなことは承知している――」
低い声が、朝の空気を静かに割った。
「お前がそうなるってことくらいはな。別に間違っちゃない。俺だって同じ気持ちだ」
その一言が、かえって刺さった。わかっていてくれるのに、それでも止めるのだ。
「じゃあ、どうして止めるの? あなたはいつだって、わたしが踏み出そうとした時、一番に背中を押してくれたじゃない。それなのに、今に限って……」
「だからって、それが正しいとは限らん。断片的な情報に過ぎんとしても、今の段階で飛び込むのは危険過ぎる」
「そんなの、承知の上よ……」
「まったく……お前は優しすぎる。困っている奴がいると知ったら、自分がどうなるかなんて後回しにして走り出す。火の中水の中、罠と分かっていても突っ込んでいくようなやつだ。……だから怖いんだよ、俺は」
最後の一言だけ、声がわずかにやわらいでいた。ほんの少し。けれどそれだけで、彼の本音がどこにあるのかがすっと伝わってくる。
わたしの足は、まだ止まったままだった。
「それについては認めるけど……止める理由は、それだけじゃないんでしょう?」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「……いつものあなたの言い方と違う。そういう話じゃない、もっと別の理由があるんじゃないの?」
ヴィルの顎がわずかに引かれた。
彼がこれほど強く止めに来る理由が、段取りや準備の話だけでは足りないと、感じていた。
「あなたの癖くらい、わたし、わかってるつもりよ。回りくどい言い方をする時は、いつだって何か理由があった。それも、言いたくないような類の理由が。……何を隠しているの、ヴィル。正直に言ってちょうだい」
沈黙が落ちた。馬の鼻息が白くほどけていく。
ヴィルはしばらく黙っていた。それから、ちらりとリディアの方を見た。ほんの一瞬。けれどその視線の受け渡しが、ただの意見の違いではないと告げている。
リディアは、伏せた目をさらに深く落としていた。手袋を握る指が白くなっている。
ヴィルはすぐには答えなかった。
わずかに視線を落とし、奥歯を噛むように頬の筋が動く。朝の冷たい光の下で、その沈黙だけが石壁のあいだに溜まっていく。リディアが脇で小さく息を呑む気配がした。
昨夜の夢の底で、見えない何かに引かれた時と似た感覚が、足元からゆっくり這い上がってくる。
「……ヴィル?」
促すように名を呼ぶと、彼は顔を上げた。その青い瞳に、もう逃げないと決めた人の色が浮かんでいた。
「ひとつだけ聞く」
声は低いままだった。
「お前にとって、先王陛下は大事な人だな?」
問いの形をしているのに、確かめるための問いではなかった。そんなことは、わざわざ聞くまでもなく知っているはずなのに。
「当たり前でしょう」
返事は、むしろ即座に出た。
「とても大事な方よ。尊敬しているし、いくら感謝しても足らないくらい……わたしのお祖父さまだもの。今さら、そんなことを聞いてどうするの」
ヴィルは一瞬だけ目を閉じた。それから、低く息を吐いて口を開く。
「なら聞け。今、お前が海を渡るわけにはいかない理由はそれだ」
みぞおちの奥が、嫌なふうに沈んだ。
「どういう意味?」
リディアが顔色を変えている。彼女は何かを止めたそうに唇を開きかけ、けれど声にはしなかった。
「先王陛下の身体のことだ」
呼吸が、そこで止まった。
「侍医司の見立てでは……そう長くはもたないそうだ」
言葉の意味が、すぐには届かなかった。長くはもたない。その四文字が、耳の奥で反響しているだけで、まだ形にならない。
「……え?」
「良くて一年。春を越えられるかどうかも、はっきりとは言えないらしい」
二度目の言葉が、届かなかった分まで一緒に落ちてきた。
あんなにも穏やかに笑っていた人だ。昨夜、一緒に夕餉をとって、月を眺めて、わたしの成長を祝福してくれた。あの声。あの目元。食後の茶器の縁を無意識に撫でていた指先。そのすべてが、まだ昨夜のままここにあるのに。
「……うそ、でしょ……」
声が震えていた。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえている。
ヴィルは微かに目を伏せた。嘘ではないということが、その沈黙で伝わってしまう。
リディアが、こらえきれなくなったように小さく頭を下げた。
「……申し訳ございません、お嬢さま」
消え入りそうな声だった。
「先王陛下は、お嬢さまを心からお慈しみでいらっしゃいます。ゆえに終始ご懸念をおかけいたしたくないとの仰せにて、わたくしには決してお告げするなと、再三お言付けでございました」
それはお祖父さまの優しさだった。わたしの自由を、前途を、悲しみで縛るまいとする強い願い。
『どうか幸せになっておくれ』
昨夜の声がよみがえる。あの一言の底にあったものが、いま初めて、形になって襲いかかってきた。祝福だと思っていた言葉が、置いていく合図だったのかもしれない。そう考えた瞬間、視界がぐらりと傾いた。
足元の石畳がひどく頼りない。立っているのに、立てていない。身体のどこかが遅れて崩れていくような、鈍い感覚だけがある。
「……どう、して……」
かろうじて紡いだ声は、自分でもわからないくらい小さかった。
「離宮でも知っているのはごく一部だ。俺も、つい先日リディアから聞かされたばかりだ」
ヴィルの声は低く、短かった。余分な言葉を削ぎ落とした、彼なりの誠実さだった。
「はっきりしていることは、今海を渡れば――戻る頃には、もう会えないかもしれんということだ」
それだけだった。それ以上は言わなかった。
指先の感覚が遠くなっていく。唇のあいだから、細い息がこぼれた。
「お祖父さまが? ありえない……なんで」
泣いてはいなかった。泣くことすら、まだ身体が追いついていない。
「だから西方へ向かうのは我慢してくれ。国外へ繋がるような動きは、しばらく控えてほしい」
ヴィルは少し黙ってから、声を落とした。
「どんな理由をつけてでもかまわん。……せめて春まではこの離宮にいてくれ。先王陛下の誕生日まででいい」
わたしはただ、黙っているしかなかった。頭の中で、昨夜の夢と、お祖父さまのやさしすぎる声と、いまヴィルが告げた言葉とが、ばらばらに回って噛み合わない。
渡り廊下の向こうで、風が木の枝を揺らす音がした。かさり、と乾いた葉の擦れるような微かな響きが、静まり返った空気の中で妙にはっきり聞こえている。
そのわたしを見て、ヴィルは顎を引いた。それから、低く、ぽつりと言った。
「すまんが……俺の馬鹿な昔話を聞いてくれ」
声の底から、飄々としたものがすべて剥がれていた。
「俺は親父が大嫌いだった。お袋は俺を産んで間もなく死んで、親父との暮らしは殺伐としていた。あれは、とても家族なんて呼べるもんじゃなかった。だから喧嘩して飛び出した。二度と戻るつもりはなかった」
一瞬、唇がかすかに歪んだ。笑いとは呼べないその形が、かえって痛々しい。
「十年も経った頃か、ふらっと故郷に寄った。お袋の墓の隣に、知らん石が立っていた……」
そこで、声が途切れた。馬が蹄を鳴らし、その音だけが石畳に落ちて消える。
「……親父の墓だった」
ヴィルの拳がわずかに震えていた。剣のことでも、戦術のことでもない。家族のことを、こんなふうに声に出した彼を、わたしは見たことがなかった。
「涙が止まらなかった。そんな自分に驚いた。あんなに憎んでいた相手のはずなのに、なんでなんだろうって……」
言いかけて、言葉が呑まれた。ヴィルは一度だけ顎を引き、それ以上は語れなかったのかもしれない。
「その時、やっと理解した。失ってからでなきゃ気づけないものがあるってことに。俺は……今もそれを背負って生きている」
声がかすれていた。低いまま、どこにも力が入っていない。そのむき出しの声が、どんな言い回しより深く刺さった。
「だが、お前は俺みたいな野放図な親不孝者とは違う。だから……同じ思いは、味わわせたくない。ただそれだけだ、ミツル」
目頭が熱くなった。気丈に振る舞おうとしても、目の奥から込み上げてくるものを止められなかった。
このまま旅立てば、お祖父さまはきっと何も言わずに微笑んでくれる。確信するほどに、肋骨のあたりがきゅっと痛む。旅の最中にあの人がこの世を去ってしまったら、もう二度と、あの温かな眼差しには触れられない。
ヴィルがそれを身をもって知っているから、自分の傷をめくってまで止めてくれるのだ。
嗄れかけた息を飲み込む。膝が少し震えていた。けれど、崩れ落ちはしなかった。
「ヴィル、あなたは……」
かすれる声に、ヴィルはわずかにうつむき、ほんの少し頷いた。
お祖父さまの思いやりも、ヴィルの後悔も、朝の冷えの中で痛いほど重なった。だから――
「わかったわ……。わたし、ここに留まることにする。遠くへ出るような探索もしない。お祖父さまのお誕生日までは、ちゃんとそばにいたい。いまのわたしにいちばん必要なのは、それだと思う」
震える声で伝えると、ヴィルはほんのわずか、肩の力を抜いた。
「……ありがとう、ヴィル。あなたが話してくれなかったら、わたしきっと、取り返しのつかないことになっていたわ」
ヴィルは答えなかった。ただ小さく顎を引いた。それから一歩だけ横へずれて、馬車への道を空ける。けれどそれは、急げという意味ではなかった。もう海の向こうへ気持ちだけを走らせるな、と言われた気がした。
馬が鼻先を鳴らし、革の匂いがふっと漂った。
わたしはまだ、息の仕方を忘れていた。
言葉にしたのはわたしなのに、その重さだけが身体の奥で遅れて追いついてくる。自由を奪われた感じはしなかった。むしろ、失わずに済むかもしれない時間の重さに、膝の裏がじんと痺れている。
お祖父さまに会いたい。けれど、今は会えない気がした。会ったら、笑ってしまう。笑って、何も知らないふりをして、夜にひとりで泣いてしまう。
わたしは濡れた目を伏せ、マウザーグレイルの柄へ指先を寄せた。冷たい金属の感触が、かろうじて朝の現実をつなぎ止めている。
ヴィルは腕組みを解くと、顎でわずかに馬車のほうを示した。行け、という合図。いつもの、言葉より先に体が動く彼のやり方だった。
「ヴィル」
歩き出しかけて、わたしは振り返る。
「……ありがとうね、ヴィル」
ヴィルは答えなかった。ただ片手を軽く上げて、背を向けた。外套の裾が朝の風に一度だけ揺れて、それきり彼は振り返らなかった。
その後ろ姿を見送りながら、わたしは馬車へ向かう。リディアがそっと手を差し出し、踏み台へ導いてくれた。その指先が、いつもよりほんの少しだけ強い。革張りの座面に腰を下ろすと、馬車の中は薄暗く、革と木の匂いがかすかに漂っていた。
窓の外で、離宮の屋根が朝の光を受けて白く光っている。
《《……これでよかったんだよね》》
腰のマウザーグレイルから、茉凜の声がそっと届く。
「そうね。でも結局、またヴィルに先を越されてしまった」
《《でも、嘘はつかなかったでしょ?》》
それは、そうだった。飲み込まなかった。それだけは。
「……そうだね。彼が打ち明けてくれなかったら、わたしきっと……」
そこで言葉が細くなって、続きは声にならなかった。茉凜も、それ以上は何も言わなかった。
馬車が動き出す。車輪が石畳を噛む音が、ゆっくりと離宮の門へ向かっていく。
夢のことは、まだ話せていない。お祖父さまのことも、自分の中で繋がりかけている嫌な予感のことも。
けれど今日、ひとつだけわかったことがある。
ヴィルは、見ていてくれている。わたしが何を考え、何に苦しんでいるのかを、言わなくても拾ってくれる人がいる。
それだけで、握りしめていた膝の上の手が、ほんの少しだけほどけた。
馬車の窓から、冬の朝の空が見えている。まだ白い。春の気配は遠い。
それでも車輪は、ゆっくりと前へ進んでいた。




