表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
293/466

虚無のゆりかごと不具の紋章

 わたしは濃い霧の中に、ひとり立っていた。


 足元から世界の輪郭が抜け落ちていて、どこを見ても白い靄しかない。音まで吸われたような静けさが、肌の上ではなく、意識の内側へじわじわと染みてくる。立っているだけなのに、沈んでいく。そんな嫌な感覚だけが、確かだった。


 ふいに、遠くで声がした。


 深い井戸の底から呼びかけるみたいな、湿った響き。耳ではなく、背骨の内側へ、細い水音のように伝わってくる。


「……誰……? 誰が、わたしを呼んでいるの……?」


 気づけば、わたしはその声のする方へ足を向けていた。


 踏み出しても、踏み出しても、景色は変わらない。白い闇の中を、同じ場所で足掻いているみたいだった。足裏には地面の硬さが返らず、呼吸だけが浅くなる。――その時、どこからともなく荒い風が吹き荒れた。


 目を開けていられない。腕で顔を庇う。霧が裂け、空気がねじれ、耳の奥で低い唸りが鳴る。


「なっ……なに……!?」


 風がやんだ瞬間、視界の奥に穴があった。


 ついさっきまで何もなかったはずの場所に、ぽっかりと開いている。白い靄の端だけが、そこへ吸われていく。縁には黒紫の揺らぎがまとわりつき、ときおり赤とも紫ともつかない光が、底のない奥で短く滲んだ。


「……『虚無のゆりかご』……?」


 そう口にした瞬間、背筋がひどく冷えた。


 穴の奥で、無数の光の粒がまたたき始める。歪んだ文様が呼吸するみたいに形を変え、組み上がり、崩れ、また結ばれていく。


 ――不具の紋様。


 見覚えがあるのに、見てはいけないものを見てしまった気がした。脈打つ中心へ視線が吸い寄せられる。読めるはずもない印が、なぜか直接、脳の奥へ触れてくる。


「……イ……コ……フ……」


 意味のないはずの響きが、音ではなく圧として頭の中へ落ちてくる。


 手足が急に重くなった。逃げたいのに、動けない。揺らぎの向こうから、何かがこちらを見ている。言葉にならない敵意だけが、冷たい手みたいに腹の奥を掴んでいた。


 地面が震える。穴の縁がさらに大きく裂けていく。引きずり込まれる、と悟った瞬間、世界が白く反転した。


 まぶしい光が、悪夢を塗りつぶすように広がって――


 わたしは息を呑みながら目を開けた。


 天蓋付きのベッド。見慣れた天井。いつもの寝室。戻ってきたはずの現実が、まだどこか薄い。喉の奥がひどく乾いていて、呼吸だけが夢の中へ置き去りのままだった。


 ただの悪夢ならよかった。


 けれど、お腹の痣のあたりへそっと触れた指先が、妙に冷たい。夜着の布越しに伝わる自分の体温は近いはずなのに、そこだけ遅れて戻ってくるようだった。


 昨夜の言葉が、不意によみがえる。


『どうか幸せになっておくれ』


 あのやさしい声の余韻と、さっき見た黒い穴の気配が、頭の中でうまく切り分けられない。布団の皺を握り込むと、爪の先にだけ現実の硬さが戻った。


《《おはよう、美鶴。……すごく息が荒かったよ。怖い夢でも見た?》》


 枕元のマウザーグレイルから、茉凜の声がやわらかく響いた。睡眠なんて必要としない彼女には、わたしの寝息の乱れも、鼓動の早さも、きっと全部伝わっていたのだろう。


「……ええ。ただの夢って言い切れないくらい、嫌な夢だった」


《《どんなの?》》


 わたしは布団の縁を握りしめたまま、途切れ途切れに話した。白い霧。虚無のゆりかご。不具の紋様。意味のわからない声。引きずり込まれる直前の、あの息苦しさ。


 言葉にするたび、夢の残骸が現実へにじんでくる。枕元の薄い灯りが、話すわたしの手の影をちいさく揺らしていた。


「――前に見た幻視と、空気が似すぎてるの。あれをただの夢で片づけるなんて、到底無理よ」


《《……そっか》》


 茉凜の声から、いつもの軽さが少しだけ引いていた。


《《それは……怖かったね。途中から、こっちまで息が詰まりそうだった》》


 掛け布の下で、指先がかすかに震えている。


「ええ……。身体の奥がまだ戻ってこないの。見たもの全部が、何かを急かしてくるみたいで……」


《《でもね、今ここで答えを出そうとしない。頭が追いつく前に結論を出しても、ろくなことにならないって。美鶴だってわかってるでしょ?》》


 わたしは息を吐いた。そうしようとしていたのだと、言われて初めて気づく。考えたくないのに、考えずにもいられない。そういう時のわたしを、茉凜はよく知っている。


「……うん。でも、ひとりで抱えるには、ちょっと重すぎる」


《《だったら、ひとりで抱えないほうがいい。美鶴はいつもそれやるけど、今回はやめよ》》


 その声の温度が、寝台の上に散らばった悪夢の欠片を、ほんの少しだけ現実へ引き戻してくれた。


 窓の外は、もう夜明けの手前だった。群青の底がわずかにほどけて、遠い空が白み始めている。


 わたしは布団をはね、冷たい床へ足を下ろした。素足に触れる石の冷えが、嫌というほど現実だった。


 寝室の隅に置かれた水差しを傾け、陶の鉢へ水を落とす。両手ですくって顔を洗うと、頬を伝う冷たさが、ようやく意識の輪郭を返してくれる。けれど、腹の底に残った冷えだけは、水では流せないままだった。


 鏡の中の自分は、思ったより普通の顔をしていた。けれど、その普通さのまま大学へ向かい、本に潜って、昨夜のことも今の夢も見なかったことにするのは、もう無理だった。


 わたしは濡れた手をきゅっと握りしめる。


 西方のことも、お祖父さまのことも、あの夢も。全部をまとめて言葉にできる自信はない。けれど、いつものように理屈で整理してから話そうとしていたら、きっとまた飲み込んでしまう。それでは、ずっとこのままだ。


 整理なんかできなくていい。ただ、怖かったと。わからないことが多すぎると。そのまま言えばいい。


 窓の外の朝の気配を見つめながら、そっと唇を結ぶ。


 ――そうね。まずは、ヴィルに相談してみよう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ