幸せになっておくれ
連日の探求は、気づけば底の見えない深みへ沈んでいくのに似ていた。離宮へ戻れば、図書館から借り出した分厚い本と、お祖父さまの代から受け継がれてきた蔵書が、机のまわりに静かな壁をつくる。
最初は背筋を伸ばして向かっているのに、いつのまにか頁の向こうへ意識ごと引き込まれてしまう。ふと目を上げた時には、窓の外がすっかり夜に変わっていることも珍しくなかった。灯りの下へ落ちる自分の影だけが妙に濃く、紙をめくる指先の音まで、部屋の静けさの底へ沈んでいく。
《《ねえねえ。そんなに背中を丸めてたら、そのうちほんとに猫背がクセになっちゃうよ》》
意識の隅へふいに触れる声は、茉凜のものだった。あまりに深く潜りすぎると、彼女はこうして軽い調子で現実へ引き戻してくれる。
その一言だけで、張りつめていたものが少し緩む。灯りの届く机のまわりの空気まで、わずかにやわらいだ気がした。
「わかる?」
声を潜めて尋ねると、間を置かずに返事が落ちてくる。
《《あたりまえでしょ。クロセスバーナのこと、西方大陸のこと。気になるのはわかるけど、あんまり根を詰めたらだめ》》
頁の端に置いていた指が、かすかに止まった。
「そうはいかないわよ。知ってしまった以上、見て見ぬふりなんてできないもの。あんなことが現実に起きているなら、なおさら。……それに、もしデルワーズの選択と行いがいまの状況にまで繋がっているのだとしたら、わたしにとっても無関係ではいられないでしょう?」
《《うん。でも、だからって、今すぐ西方へ行きたいとか言い出す気じゃないでしょうね?》》
思わず、唇の内側を噛む。そうしたい、と言ってしまうのは簡単だ。けれど、簡単だからこそ口にしてはいけない気がした。
「……本音を言えば、まったく考えないわけじゃないわ。でも、そんなことを言ったら叱られるに決まってる。ヴィルにも、お祖父さまにも……」
《《そりゃそうだよ。ヴィルだって、あなたが分別のある子だってわかってるから、ああして動いてくれてるんだし。グレイさんだって、大事な孫娘をそんな場所へ行かせたくないはずだよ》》
そこで茉凜は、少しだけ声を落とした。
《《それに……わたしも、うまく言えないけど。嫌な予感しかしないし》》
「だよね……」
小さくこぼした声が、机の上でほどけていく。
虚無。不具の紋様。クロセスバーナ。バルファ正教。古代技術。ばらばらのはずだったものが、もう別々の箱には収まってくれない。けれど、まだ名を与えられるほどには結びきれない。何かに触れかけているのに、指先に残るのは輪郭のざらつきだけだった。
「……せめて、お祖父さまにはお伝えして、相談すべきなのかもしれないって思うの。でも」
《《忙しそうだもんね》》
「うん……」
総長室で顔を合わせるのは、せいぜい週に二度か三度。そのたびに、わたしは控えめに扉を叩いて、許されたぶんだけ言葉を交わす。それだけで嬉しいのに、その短い時間の中へ、自分の不安や焦りまで持ち込んでしまっていいのかと考えると、いつも声が途切れそうになる。
距離を縮めたいのに、邪魔だけはしたくない。そのふたつが内側で引き合って、どうしても身動きが取れなくなる。
「……しかたないじゃない。お祖父さまは、ただでさえ多忙なお立場なのよ。今は何より、その務めを無事にこなしていただくことが先だもの。そんな時に、子どもみたいなわがままでお引き留めするなんて……」
そこまで言って、言葉が細くなった。
「……ただでさえ最近、お疲れのようだし。息の入り方とか……ほんとうに、心配なの」
自分の声がかすかに震えたのがわかって、慌てて唇を結ぶ。けれど茉凜は、追いつめるようなことは言わなかった。
《《うーん……もどかしいね。せっかく会えたばかりなのに》》
その言い方がやさしすぎて、頁の端を押さえる指に、余計な力が入った。
お祖父さまは、たぶんわたしが隠したいものほどよく見抜いてしまう。それでも、だからといって何も言わずにいるしかない自分が、ひどく頼りなかった。
「……そうね。でも、しかたないわ」
静かに息をつき、机の上に開いたままの大きな辞書へ手を伸ばす。乾いた紙の匂いが鼻先をくすぐり、細かな文字の群れが、灯りの下で密やかに浮かび上がる。
「力になりたいのに、いまのわたしじゃ何もできない」
その思いだけは、もう誤魔化しようがなかった。西方の不穏を追いかけているはずなのに、気がつけば指先が止まるのは、離宮の外にいる誰かではなく、この家の中にいるたった一人のことばかりだ。
「いまのわたしって、お祖父さまに守っていただいてる立場でしょう。なのに余計な波を立てたら……かえってご迷惑になるかもしれないし」
《《こらこら、そういうのは考えなくていいって。へんなとこに気を回さない》》
茉凜の声が、耳の奥でふわりと揺れる。
「……うん。わかってる」
そう答えながら、ほんとうにわかっているのかは自信がなかった。
頁をひとつめくる。紙が擦れる小さな音が、静かな部屋の中でやけにはっきり響いた。文字を追っているあいだだけでも、背中のこわばりが少し鎮まればいい。そう思って視線を落としかけた、その時だった。
離宮の奥で、いつもより重い扉の音がひとつ響く。
続いて、廊下を渡る足音が微かに重なった。夜のこの時間には珍しい、人の動く気配だった。
わたしが顔を上げるのと、控えめなノックが扉を叩くのは、ほとんど同時だった。
「どうぞ」
返事をすると、扉が静かに開き、侍女が一礼する。
「失礼いたします、ミツルさま。先王陛下がお戻りになりました」
胸の奥が、ひとつ強く鳴った。
「……はい。すぐに参ります」
立ち上がった拍子に、椅子の脚が絨毯をかすかに擦る。指先だけが、なぜだか少し冷たかった。
◇◇◇
その夜の離宮には、いつもと少し違う風が流れていた。
ふだんなら深更まで総長室に籠もっているお祖父さまが、まだ宵の色の残るうちに戻ってきたのだ。
重い扉がゆっくりと開く。暮れかけた廊下の向こうから、純白のローブをまとった姿が現れた。裾に走る金糸が灯りを受けてひそやかに光る。けれど目を引いたのは華やかさより、近づいたときにふっと鼻先をかすめた匂いだった。微かな金属と薬液。魔術炉の熱気をまとった、研究室に長くいた人の匂い。
侍女がローブへ手を添えると、お祖父さまはひとつ息をつき、わずかに肩の力を抜いた。その仕草はほんの一瞬だったのに、王でも総長でもない、ただのお祖父さまの横顔がそこへ覗いて、わたしの呼吸がすこし浅くなる。
「お帰りなさいませ、お祖父さま」
声をかけると、お祖父さまはすぐにこちらへ目を向け、やわらかな笑みを浮かべた。
「ただいま、ミツル。今日は思いのほか早く切り上げることができた。自分でも驚いている」
その穏やかな声音だけで、離宮じゅうの空気がほんのわずか、ほどけていくようだった。
「君はもう食事を済ませたのかい?」
「いえ、まだです。……もしよろしければ、ご一緒にいかがでしょうか」
口にした途端、自分の声が少しだけ弾んでいたことに気づく。頬の内側が熱くなって、慌てて視線を落とした。
お祖父さまは目を伏せて笑い、侍女へ小さく頷いた。
「せっかくだ。今夜はそうさせてもらおう」
その一言だけで、指先の冷えがゆるやかに溶けていく。こうして同じ食卓につける夜が、どれほど稀かをわたしは知っていた。
食堂へ向かう廊下は静かだった。大きな窓硝子に、離宮の灯りが淡く映り込んでいる。並んで歩くあいだ、わたしは何度も口を開きかけては閉じた。
西方のことを話すべきだろうか。
難民たちの証言。生贄。禁忌の研究。人を材料みたいに扱う噂。知ってしまった以上、何も言わないのは不誠実かもしれない。けれど、つい先日、お祖父さまとようやく旅の順路を決めたばかりだ。まずは国内。次に中央大陸。それでも線が伸びるなら、その時に海の向こうを考える。その理を崩すような焦りを、今ここへ持ち込みたくなかった。
何より、お祖父さまの横顔は思っていた以上に疲れて見えた。目元の影や、息継ぎのあとのほんの小さな間。そのわずかな違いばかりを、わたしは拾ってしまう。
食堂に入ると、やわらかな灯りが迎えてくれた。磨かれた卓上に、器の光が静かに落ちている。運ばれてきたスープの湯気が、懐かしい香りを連れて立ちのぼった。幼いころの記憶をくすぐるような、やさしい匂いだった。
向かいに座ったお祖父さまは、ひと口目を飲んでから、静かに息をつく。
「こうして腰を落ち着けて食事をするのも、ずいぶん久しぶりだからね」
その何気ない一言が、妙にいつまでも残った。
「……お忙しいのですね。お疲れではないですか?」
そんなわたしの不安を知ってか知らずか、お祖父さまはうっすら微笑みながら言葉をくれた。
「ありがたいことにね。……だが、忙しさにもいろいろある。今夜は、悪くない終わり方だ」
言って、お祖父さまはわたしを見た。
「……君がいてくれるからだろうね」
まっすぐにそう言われてしまうと、うまく息が吸えない。スプーンの柄へ指先を添えて、金属の冷たさに触れながら、ようやく声を整える。
「わたしも、こうしてご一緒できて嬉しいです」
お祖父さまは目を細めた。その表情に、肩の奥の固さがゆっくり溶けていく。
「君の方こそ、ずっと図書館に籠もってばかりでは、肩も凝るのではないかね?」
「そんなことはありません。……いえ、少しは。でも、書物に向き合う時間は性に合っているみたいで。知れば知るほど、わからないことが増えるでしょう? そこが悔しくて、妙に面白いんです」
「それこそが知識の核心というものだ。どこまでいっても終わりはない。良いことだよ」
研究者のようでいて、教師でもある声だった。
「君はひとたび何かに心を掴まれると、そこへまっすぐ潜っていく子だ。心配でもあるが……同時に、それは君の強さでもある」
お祖父さまはそこで、いったん言葉を切った。窓硝子へ映った月明かりが、白い横顔の輪郭をやわらかく縁取っている。心配と強さが、同じ場所に置かれている。その言い換えのやさしさに、スプーンを持つ指がほんの少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます、お祖父さま」
声に出すと、喉の下で固く結んでいたものが、わずかにほどけた。お祖父さまはほんの少しだけ笑った。
食事のあいだ、わたしは図書館で調べた範囲だけを選んで話した。古記録の断片。王家伝承の揺らぎ。精霊魔術に関わる曖昧な記述。語れるものを選び、語れないものは飲み込む。
西方の話は、ついに口にできなかった。
言えば心配を増やす。言えば、ようやく整えた順路まで揺らぐ。言えば、お祖父さまはきっと考えてしまう。そのことが分かっているからこそ、なおさら言えない。
お祖父さまもまた、わたしが何かを伏せていることに気づいていたかもしれない。けれど何も問わなかった。ただ、黙って聞き、時折頷くだけだった。その沈黙がありがたくて、同時に少し痛い。
食後のお茶が運ばれる頃には、食堂の空気はいっそう静まっていた。
お祖父さまは茶器を置くと、指輪を嵌めた左手の親指で、その縁を無意識みたいにひと撫でした。
その仕草に、わたしの視線が止まる。
何かを思い出すようでもあり、確かめるようでもある。その小さな動きひとつで、意識の底に沈めていた疑いがまたわずかに波立った。
あの日、第一王女シンシアが離宮へ足を運び、表向きの筋は通された。けれど、それだけでこの静けさが保たれているようには、どうしても思えなかった。見えないところで、何か別の均衡が取られている。そうでなければ辻褄が合いすぎる。その重みをひとりで引き受けているのは、お祖父さまなのではないか。そう考えた瞬間、舌の裏がうすく渇いた。
けれどそれは、いつもの悪い癖だ。ただの憶測に過ぎない。証拠のないまま口にするには、あまりにも無遠慮だった。問いかけるには、今夜は静かすぎた。
言えないまま、わたしたちは食堂を出て、月の見える大きな窓のそばへ移った。
夜の庭はしんと静まり返っている。木々の影が石畳へやわらかく落ち、遠くの噴水だけが光を含んで白く霞んでいた。月は満ちきってはいない。それでも、触れれば冷たそうなほど澄んだ輪郭を夜空へ浮かべている。
「ほら、見てごらん」
お祖父さまが窓の外へ視線を向ける。
「満月にはまだ少し足りないが、ずいぶん丸くなってきた」
その声のやわらかさに導かれるように、わたしも顔を上げた。
「きれいですね……」
「ミツル」
名を呼ばれて振り向くと、お祖父さまは静かにわたしを見ていた。
「君は本当に、強くなった」
その一言に、呼吸が止まりかける。
「そうでしょうか……?」
「そうだとも。初めて会った頃の君は、まだ巣立ち前の雛のような、どこか頼りない印象があった。考えることはできても、願うことを恐れていたように思う」
瞼の裏がじんと熱くなった。
お祖父さまは、責めるでもなく、ただ事実をなぞるみたいに言葉を続ける。
「だが今は違う。私が何も言わずとも、自分なりの答えを探し出そうとしている」
そこでお祖父さまは、ほんのわずかに目を細めた。
「……君は本来、もっと自由であっていい。いつまでもこんな巣の中に閉じこもるばかりでは、もったいないだろう。広い世界を見て、望むままに先へ進んでいってほしい」
その言葉は、祝福に近かった。わたしが欲しがることを、自分で赦し始めた今だからこそ、なおさら深く刺さる。
目の奥が熱を持ち、すぐには声が出なかった。
「ありがとうございます、お祖父さま」
それでもなんとか言葉にすると、お祖父さまはほんの少しだけ笑った。そして、ごく自然な口調で、まるで今思いついたことをそのまま置くみたいに、言った。
「……どうか幸せになっておくれ」
その言葉の意味を、わたしはすぐには測れなかった。
お祖父さまとしての愛情だ。そう受け取るべき言葉のはずだった。なのに、肋骨のあたりで何かがかすかに軋む。
――失う前にだけ落ちる種類の静けさを、わたしは知っている。
前世で家族を失った時も、自分が解呪に失敗して死んだ時も、弓鶴の身体を借り、受容結晶体に蝕まれながら残された時間の少なさを数えていた時も、切迫はいつも大声では来なかった。むしろ、やさしくて、穏やかで、取り返しのつかない形でやってきた。
だからだろうか。
今の一言が、祝福であると同時に、どこか置いていくみたいにも聞こえてしまった。
――きっと考えすぎだ。そんなことあるわけない。あっていいはずがない。
そう打ち消そうとしても、みぞおちのあたりへ落ちた冷たいものだけは消えない。
「お祖父さま……?」
問いの形になりきらない声がこぼれる。
けれどわたしは、その先を続けなかった。ここで尋ねるのは違う気がした。答えを求めたら、何かが本当に形になってしまう。この静かな夜を、自分の疑いで壊してしまう。
お祖父さまもまた、それ以上は何も言わなかった。ただ少しだけ目を細めて、いつものように冗談めかした調子へ戻る。
「さて、君もそろそろ休みなさい。夜更かしは美容の大敵だよ」
その言い方に、わたしはかろうじて笑みを返した。
「はい。……はい、早めに休みます。お祖父さまこそ、どうか……無理なさらないでくださいね」
「わかっている。ありがとう」
お祖父さまはそう言って、ゆっくりと背を向けた。
その後ろ姿には、まだ仕事へ戻る者の気配が残っている。けれど今夜だけは、ローブの裾が灯りに揺れるその背中が、ひどく遠く見えた。
わたしはその場に立ち尽くしたまま、窓の外の月を見上げる。
どうか幸せになっておくれ。
それは、ただやさしいはずの言葉だった。
なのに、窓硝子に映った自分の顔だけが、少し遅れて強張っていた。夜気は薄く冷たく、飲み込めなかった言葉の形を、喉の奥にいつまでも残していた。




