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昼の光と西方の影

「こちらこそ。ありがとう、ミツルさん」


 桜色に染まった頬が、昼の光の中でやわらかくほどけた。その無垢な色に、知らないうちに握り込んでいた手の力が、ふっと抜ける。


「また図書館かどこかで会いましょう。というか、わたしの居場所ってそこくらいしかないから」


「ふふ。じゃあ、またね!」


 ソレイユは、駆けるような足取りで別棟のほうへ消えていった。軽い靴音が石畳の向こうへほどけ、小さな背中が角を曲がるまで、わたしはそこに立っていた。


 掌にはまだ、さっきの水気が残っているようだった。春先の薄い風が頬を撫でる。何かがひらいたのだと、すぐに言葉にするには早すぎた。ただ、別れ際の笑顔だけが、石壁の明るさの中にしばらく残っていた。


 けれど、その余韻に浸る間もなく、聞き慣れた低い声が背後から落ちた。塔裏の石壁が、その声を鈍く返す。振り向くより先に、呼吸のほうが乱れていた。


「……随分と、打ち解けたみたいじゃないか」


 喉の奥で、息が小さく止まる。


 振り返る前から、もう分かってしまっていた。塔裏の石壁に寄るように立つ長身。ひとつ前の軽口を飲み込んだあとの、少しだけ気配を落とした佇まい。あの人だと知れただけで、足もとの石畳が急に近くなる。


 ゆっくりと振り向く。


 やはりヴィルがいた。昼の光が金の髪を淡く透かし、長い睫毛の影が頬へ落ちている。広い肩をわずかに傾けて、こちらを見ていた。その視線に触れた瞬間、肩先がきゅっと強張り、衣の端を小さくつまんだ。


 ほんのささいな動きまで見逃さなかったのだろう。ヴィルの目元に、ふっと心配の色が差した。


「見飽きた顔だろ。いったい、なにを呆けているんだ? それとも何か付いているか?」


「べ、別に……。何か用かしら?」


 はっと意識を引き戻し、できるだけ平静な顔を作って問い返す。喉の奥が少し細くなっていて、語尾だけが自分のものではないみたいに頼りなかった。ヴィルは口の端をわずかに吊り上げる。その小さな笑みだけで、布をつまむ手に余計な力が入る。


「ずいぶんな言い方をするじゃないか。『西方大陸からの船乗りや商人、クロセスバーナから逃れてきた難民たちから情勢の聞き取りをしろ』と言いつけたのは、お前だろうが?」


 言葉が真っ直ぐ届いて、一瞬だけ返事が遅れた。視線が喉元から鎖骨へ落ちかけて、慌てて彼の瞳へ戻る。


「え、ええ……たしかに頼んだけど。まさか、もう戻ってきたの? 報告は急がなくてもいいって言ったのに」


 あくまでそっけなく返したつもりだった。けれど、自分でもわかる。声の奥に、思ったよりずっとはっきりした安堵が混じっていた。


 ヴィルが離宮を離れて数日。わたしは図書館の高い書架と紙の匂いに身を沈め、古記録の海へ潜っていた。それはそれで、満ちた時間だった。けれど同時に、振り返ればそこにいるはずの影がないことを、身体のどこかがずっと覚えていた。空いた椅子ではなく、空いた間合いのほうが、こういうときはよほど正直だ。


「そうはいっても、例の国の情勢がどうしても気になってな。急ぎで駆け回ったおかげで、いくつか気になる話を拾ってきた」


「そ、そうだったの……それはご苦労さま」


 上ずらないよう気をつけながら返す。距離は詰まっていないのに、風に混じる体温だけが近い。呼吸だけが、浅くひとつ揺れた。


「ん、俺が戻ってこないあいだ、寂しかったか?」


 空気の重心が、そこで少しだけ傾く。


 わざと落としたような低い声が、鼓膜より先に腹の奥を叩いた。睫毛の影が濃く揺れ、反射的に視線を横へ逃がす。


「……わ、わたしは図書館で重要な調べものをしていたし、むしろ時間がいくらあっても足りないくらいよ。それはもう、毎日充実してるんだから!」


 言い切りながら、右手が裾をきゅっと摘む。強がっている自覚は、言葉にした瞬間にもうあった。それでも、認めるにはまだ早い。


 ヴィルは喉の奥で笑った。からかい半分の音なのに、刺はない。


「ははっ、そうか。たしかに、本に向き合ってる時のお前はいきいきしているからな。寂しがるなんてのは想像しづらい……。まあいい。報告書の作成は後回しにするとして、取り急ぎいくつか伝えておきたいことがある」


 その調子の変化に、わたしも自然と姿勢を正した。


「……べつに、そこまでしなくてもいいのに」


「そうはいかないさ。手際のよさが俺の取り柄だからな。――それとも、『お前に会いたくなった』、とでも言った方が納得してもらえるか?」


「そ、そういうのはやめて。からかわないでってば」


 いつもの冗談だとわかっている。それでも、脈だけはきちんと速くなる。視線の端で彼を追ってしまう自分が、少し悔しい。


「はいはい。……まあ実際問題、早くお前に伝えたかったんだ。興味を持ってることだろうし、報告すればお前だって安心するだろう?」


「……期待してた以上の成果があるなら嬉しいけど。離宮への定時連絡とか、他の用事だってあるのに、そんなに駆けずり回ってて本当に大丈夫なの?」


「問題ない。そこは慣れたものさ。それよかお前は大丈夫か? 俺としては、本の山に熱中するあまり倒れられちゃ困るんだがな」


 軽口の底に、ちゃんと気遣いの温度がある。


「心配しないでちょうだい。お目付け役なら、しっかり者の茉凜がいるから問題ないわよ」


 以前のわたしなら、こういう厚意を照れ隠しで払いのけていたかもしれない。けれど今は、それをそのまま受け取りたいと思ってしまう。


「でもまぁ……護衛騎士があなたで、本当に心強いわ」


 言い切ったあとで、ヴィルの瞳がわずかに揺れた。こちらを見る目の硬さが、ほんのわずかほどける。それを見てしまって、かえって息のほうが浅くなった。


「そう言ってくれるなら、俺も張り合いがあるってもんだ。――何かあれば遠慮なく言ってくれ」


「ええ……ありがとう、ヴィル」


「おう」


 短い返事と、口元だけの笑み。


 それだけなのに、戻ってきてくれたという事実が、石壁の冷たさとは別の場所で、ゆっくりほどけていく。息を吸うたび、ここ数日のあいだ薄く張っていた緊張が、少しずつ形を失った。


 けれど、そのぬくもりは長くは続かなかった。


 ヴィルの視線が、ふっと色を変える。さっきまでの軽さが静かに引き、昼の明るさの下へ別の硬さが沈んだ。塔裏のこの一角は、もともと人影が少ない。古い石壁が音を鈍く返し、遠い中庭の笑い声もここまでは届きにくい。報告を交わすには、それで十分だった。


 ヴィルは一度だけ周囲を見やり、少し声を落とす。


「……その前に、確認しておきたいことがある」


「な、なにを……?」


 問い返した声は、思ったより細かった。ヴィルはわずかに目を伏せ、金の前髪が額へ落ちる。


「これからする話は……あまり気分のいいものじゃない。正直、怒りが煮え立つと言ってもいいくらいだ。それでも、聞く覚悟はあるか?」


 その言い方が、もう答えを半分含んでいた。生半可な噂話ではない。持ち帰ってきた本人が、そこまで顔色を変えるほどのものなのだ。


 わたしは息をひとつ整える。指を重ねるかわりに、白い鞘の位置を確かめた。ここで目を逸らすわけにはいかなかった。


「わかったわ。……あなたが伝えてくれることなら、ちゃんと聞く。どんな内容でも」


 ヴィルは小さくうなずき、壁から背を離した。


「……そうか。じゃあ話すが――例の新興国クロセスバーナってところは、本当にろくでもない」


 低く落ちた声が、昼の明るさを少しずつ冷やしていく。


 もとは『ソミン共和国』という小国だったらしいこと。軍部のクーデターによって体制がひっくり返り、国そのものの名まで変えられたこと。そこに軍部だけでは説明しきれない意思が絡んでいること。話は簡潔だったが、その簡潔さのほうがかえって嫌な現実味を持っていた。


「ただ、そんな曰く付きの名をわざわざ使うとなると、軍部の独断だけとは考えにくい。背後に何者かがいると見ていい」


 舌の裏に、冷えた石の味が残る。


「クロセスバーナ……かつて世界を震撼させ、リーディスを滅亡寸前まで追いやった伝説的な国の名よね。いったい誰が、何をしようとしているの?」


 ヴィルは続ける。背後にいるのは古代文明を信奉する集団。その中心に『バルファ正教』と呼ばれる宗教組織があるという。


「奴らは『唯一神たるバルファを崇め、神の御業を復活させれば世界を救済できる』と謳っている。実際、クロセスバーナでは国民全員が帰依を強制され、教義に従わされているらしい」


 その一文が、喉の奥へ冷たいまま落ちた。


 帰依の強制。教義の強制。国家と暴力と信仰がひとつの鞭になって人間へ振り下ろされる構図。前世の世界でも、遠い海の向こうでそういうものが現実に人を押し潰していたことを、わたしは知っている。映像で、記事で、乾いた数字で。知っていたはずなのに、異世界の名をつけて目の前へ差し出されると、急に血の通った嫌な輪郭を持ちはじめる。


 遠い国の話のはずだった。古文書と伝承の延長で済ませられるはずだった。なのに、それはあまりにも、知っている種類の地獄だった。


「それ、知ってるわ。古文書で見たことがある……」


 喉の奥へ冷えが落ちる。脳裏で紙がめくられる音と、前世のニュース映像のざらついた光が、嫌な具合に重なった。


「なるほどね。その世界を救うとかいう大義名分の裏に、何かが隠されているのではない?」


 ヴィルはわずかに目を伏せる。次に来る言葉を、自分でも嫌っているのがわかった。


「……難民たちは、口を揃えて『生贄を強要された』と言っている……」


 背中の内側を、氷の指がなぞった。


 石壁に寄る冷えが急に現実になる。昼下がりのやわらかな明るさが、そこだけ少し色を失った気がした。


「生贄……本当に、そんなことが?」


 声が震えないよう、舌先を上顎へそっと押し当てる。ヴィルは苦い顔のまま、静かにうなずいた。


「といっても、ただの儀式の類とは思えん。例の禁忌の魔石研究、あるいは噂される人体実験――目的はそのあたりだろう。失われた古代の技術を復活させるためなら、どんな非道な手段も辞さない連中ってことさ」


 人体実験。


 その語は、それまでの嫌悪に別の重さを与えた。支配や洗脳だけではない。人間を人間として扱わず、素材として、部品として、成功率のための数として並べる発想。みぞおちのあたりが、音もなく縮む。


 前世の世界でも、歴史はそういう地獄をいくつも残していた。思想の名で。正義の名で。科学の名で。あるいは神の名で。理屈はいつも立派で、そのぶんだけやっていることが醜悪だった。


「なんてひどい……! ――ぞっとするわ。まさか国を上げて、しかも民を守るべき軍まで加担してるなんて……」


 手が無意識に衣の端をつかむ。布の手触りだけが妙にはっきりして、そこに縋るような格好になった。


「ああ。国自体がバルファ正教の隠れ蓑で、軍はその操り人形みたいなものだ。最高意思決定機関である中央指導部がすべてを握っているが、どういうやり方でそんな状況を作り出したかまでは分からない。ただ、難民の証言からして、相当えげつないことをやっているのは確かだ」


 中央指導部。


 その名だけが、布越しの棘みたいに残った。難民たちは、そう呼んでいたのだろう。実態が宗教組織の中枢なのか、軍政の奥にある何かなのか、まだ見えない。見えないまま、そこから人の命を数として扱う手だけが伸びている。


「人の命を捧げてまで……そこまでして古代の技術を手に入れたいだなんて……反吐が出る」


 吐き捨てるように言った途端、自分の声に混じる熱に気づく。これは好奇心ではない。ただの嫌悪でもない。見過ごしてはいけないものへ触れてしまったときの、あのひどく個人的な切迫だった。


「聞いた噂じゃ、『すでに被験体が量産されている』とか『失敗作は処分される』とか……。だが、そこまでだ。それ以上は深堀りしようにも、皆口をつぐんで逃げ出す。『人狩りの部隊が蠢いている』とか、『逆らえば強制収容所送り』だとか……そんな話も聞いた。悲惨で理不尽な日常が繰り返され、命からがら他所の国に逃げ延びるしかなかった。そんな恐怖心が染み付いて離れないんだろう……」


 低い声が、石壁に吸われていく。


 ヴィルは淡々と話しているようでいて、声の芯がわずかに荒れていた。聞いて回った彼自身が、何度もその怯えに触れてきたのだろう。内容だけではない。そういう声を持ち帰ってきたヴィルの疲れが、話の重さをいっそう本物にしていた。


「そこまでひどいことが……ほんとうに起きているのね……」


 喉の乾きを舌で湿らせて、ようやく声を出す。ヴィルは石壁へ背を預け直し、小さく息を吐いた。


「まったく、これのどこが神の思し召しだというんだ……」


 食いしばった歯の隙間からこぼれた呟きは、怒りというより、やりきれなさに近かった。


「俺でさえ、聞き取りを続けているうちに気が滅入りそうになった……」


 その一言に、喉の奥が小さく痛んだ。ヴィルは強い。けれど、強いから平気なのではない。ただ、抱えても歩けるだけだ。そういう種類の強さだと、わたしはもう知っている。


 目の前にあるのは、春の昼の、学生たちの笑い声がかすかに流れてくる大学の裏手だ。さっきまでここで、ソレイユへ見せたのは、水と光のささやかな術だった。人の暮らしに寄り添う、美しいはずの力の形。


 そのすぐ外側で、人が材料にされている。


 並べた言葉が、頭ではなく身体へ来た。石壁の冷たさが衣の上から背へ移り、白い鞘の革が掌へ硬く当たる。恐怖だけでは終われない熱が、そこに残った。


「ヴィル……教えてくれて、ありがとう。できることなら知らずにいた方が楽だったのかもしれない。けれど、知りもしなければ何も変わらないから。なら、わたしは知る方を選ぶ……」


 言葉にして初めて、自分の声の硬さに気づく。逃げ道をふさいだのは、ヴィルではなく、わたし自身だった。


「そうだな」


 短い返答が返る。その短さが、かえって重い。


「もはや、わたしたちにとってもクロセスバーナの問題は他人事じゃないわ。わたしも図書館で古文書を当たってみる。古代文明やバルファ正教について、何かしら手がかりが見つかるかもしれない。見つかり次第、あなたにも報告する」


 ヴィルは目を上げ、少しだけ表情を和らげた。


「頼む。……俺は、机に黙々と向かうような仕事は性に合わないからな。お前なら、きっと上手くやれる」


 その信頼は、まっすぐで、飾りがない。受け取った途端、白い鞘を抱える腕に、少しだけ力が戻った。


「適材適所、というわけね。それなら、わたしはわたしにできることを全力でやるわ」


「おう。俺も引き続き西方出身者から話を聞いてみる。意外なところから糸口が見えるかもしれない。カテリーナにも協力を仰ごう」


 そこでようやく、張り詰めていた空気に細い隙間ができる。わたしはその隙間へ、自分でも少し驚くほど自然に、軽い口調を落とした。


「でも……本当に危なくなったらすぐ逃げてちょうだいね。わたしとしては、専任の護衛の騎士様に怪我でもされたら困るんだから」


 ヴィルは肩をすくめ、口角をほんの少し上げる。


「心配するな。俺は雷光だ。攻めも速いが、逃げだって速い」


「ふふ、そうだったわね」


 笑いは小さい。それでも、さっきまでの重さをほんの少しだけ浮かせるには足りた。


 立ち止まりそうになると、いつも彼はこうして横から支える。押しつけではなく、間合いで。だからわたしも、かろうじて前を向ける。


「……さあ、これからもっと頑張らないとね」


 そう言うと、ヴィルはわたしを見て、静かにうなずいた。


「だな」


 それだけだった。


 けれど、その一音の中に、軽口より深い同意があった。


 石壁に触れていた手は、まだ少し冷たい。遠い海の向こうで起きていることは、噂の束にすぎない。まだ断定はできない。けれど、だからといって薄いわけではなかった。むしろ、断片であるぶんだけ、そこに混じる怯えや生臭さが生身のまま残っている。


 圧政。強制帰依。教義の強制。生贄。禁忌の研究。被験体。失敗作の廃棄。


 並べただけで、舌の裏が苦くなる。前世の世界で何度も見聞きした残酷さの語彙が、この異世界の一国の上に重なってしまう。その一致が、どうしようもなく嫌だった。


 さっきまで見せていたのは、水と光のささやかな術だった。人の暮らしに寄り添う、美しいはずの力。そのすぐ外側で、人が材料にされている。


 白い鞘を抱え直すと、革の縁が掌へ硬く当たった。


 遠い国の惨状は、もう伝説の残り火でも、古文書の余白でもなかった。わたしはヴィルと並び、石壁の陰を離れる。足もとの砂が、昼の明るさの中で小さく鳴った。


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