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場裏の虹に願いを

 翌日の昼休み。魔術大学の中庭には、講義を終えた学生たちの笑い声が、明るい風にほどけていた。


 わたしはソレイユを連れ立って、学び舎の象徴でもある灰色の塔の裏へ回った。人気の少ない資材倉庫の区画まで来れば、足音も声も少し遠くなる。あまり目につく場所で術を使うのは避けたかった。


「誰も居ない。ここなら……大丈夫そうね」


「うん。もし誰か来たら、わたしが気づいた時点で合図するね。こう、咳払いでもいい?」


 古い煉瓦造りの建物の裏手には、小さな木立が視線を遮るように立っている。昼の喧騒は一歩外れただけでやわらぎ、梢のあいだを渡る風に乗って、小鳥のさえずりが静かに届いた。足元からは乾いた土と苔の匂いがかすかに立つ。わたしが立ち止まると、ソレイユは淡い茶の短い髪を揺らしながら、きょとんと辺りを見回した。


「ここ、空気がやわらかい。……えへへ、ちょっとわくわくしてる」


 小さな感嘆に、思わず微笑みがこぼれる。図書館で出会ったときより、ふたりの距離はたしかに少し近づいていた。ソレイユの靴先が、わたしの立つ影のすぐそばで止まっている。その近さに気づいて、わたしは一度だけ視線を落とした。


「それじゃ、約束通り、わたしの精霊魔術を見せてあげるわ。ただ、ほんのちょこっとだけだよ? あまり派手にしたら目立っちゃうし」


「了解。わたしは見る役に徹するね。……ねえ、準備って、息を整えるところから入るの?」


「まぁね。精神集中は大切よ。そこは魔術といっしょ」


 息を軽く吸って、肩の力を抜く。前世から今生へ、試行錯誤を重ねてきた力。深淵の名で呼んできたそれは、この世界では精霊魔術という言葉の内側へ、少しずつ置き直されている。


 その一端を人前で見せるのは、思った以上に久しぶりだった。けれど、ソレイユの好奇に満ちた瞳を見つめていると、緊張は風に押される薄い草みたいに、少しだけ傾きを変えた。


「おいで、精霊子よ……」


「今の……呪文、じゃないよね。呼びかけ、って感じ……」


 わたしは自分を器として定め、静かに呼びかける。合図に応じるように、脳の奥の受容がわずかに熱を帯びた。日常の範囲に収まる小術なら負荷は小さい。黒鶴の翼を暴れさせる心配もない。


「うん、これで十分。もういける……」


「空気が、少しだけきらきらして見える……気のせいかな」


 その瞬間、意識の底に微かな囁きが立ちのぼる。寄り集まった精霊子が形をとり、幼い気配が、『今日はどんな遊びをするの』、と無邪気に弾んだ。力の断片ではなく、わたしとの同調から生まれた、名づけようのないやわらかな個。その手触りに触れるたび、呼吸の奥へ小さな波紋が広がっていく。


「うん、そうね……。ちょっとだけ、あなたたちの力を貸して」


「貸す? どんなふうに? 後で教えてね。記録したいから」


 視界の端で、ソレイユが不思議そうに首をかしげる。彼女には見えていないだろう。けれど、わたしの内側では精霊子たちの喜色が小さく跳ねていた。約束は見せること。大げさになりすぎない範囲で、たしかな不思議を形にする。


「……いくよ」


「うん。手のひらを見る感じでいい?」


 わたしは手のひらをそっと開いた。掌の上で空気がわずかにたわみ、風がその肌理を撫でる。眠っていた微細なざわめきが糸口を見つけ、耳の奥に細い鈴のような気配を残した。見えない精霊子の舞踏が始まり、小さな足音のような気配が指先へ集まってくる。


「場裏・青……」


「あ……いま――一瞬、温度が変わった。鳥肌、立った……」


 意識の内で合図する。ふわりとした感覚が指先にまとわりつき、半透明の青白い膜が、まるい境界となって掌に息を宿した。薄青いドームを見つめる隣で、ソレイユが小さく息をのむ。


「わぁ、きれい……! 膜、ちゃんと向こう側がある……。これがジョウリってものなんだ……」


 彼女の瞳には、〈場裏〉の半透明の境界がたしかに映っているはずだった。今ある現実の、すぐ裏側。そうとしか呼べない領域へ、わたしは静かな水の像をそっと招く。


 大気と土の奥に含まれていた水分が呼応して、ドームの内側へと集まっていく。薄い膜のうちに透明が満ち、指先でその表面を軽くなぞると、小さな渦が生まれた。意志を持つ生き物みたいに、くるくると回りはじめる。


「……本当に動いてる……!」


 ソレイユの声が、葉陰に落ちる光みたいに弾んだ。頬がゆるむのを感じながら、わたしは次の段へ意識を整える。水塊を乗せたまま〈場裏〉を上へ押し上げ、領域部分解放へ意識を傾けた。


 弾けた瞬間、雫が散り、傾きはじめた陽光に触れてきらめく。七色が細い弧を描き、小さな虹の欠片が、濡れた砂を払うみたいに辺りへ降りそそいだ。


「……すごい、虹が……すごくきれい……!」


「今の、玉の中に貯めた水を圧縮してから解放したの? 膜の縁が震えたの、見えた気がする……」


 歓声に似た息が、静かな裏庭にひろがる。わたしは領域解除し、集めた水分を風へ返した。指先にはまだ微かなぬくもりが残り、精霊子の余韻がそこに留まっているようだった。


「これが、わたしの使う精霊魔術の基本。見ての通り、水魔術に少し近いけれど、周囲の水分を少しずつ集めて形にできるのが、少し違うところかな。言葉で理屈を並べるより、まずどう感じるかを見てもらうほうが早い気がして、やってみたの」


「水は、どこから来たって言えばいいんだろう。空気? 土? それとも、そのジョウリ――ごめん、質問が止まらない」


「方向性はだいたい合ってるわ。基本は大気や土に含まれる水分を場裏で寄せて、形に演出しているだけ。決して無から有を生んでいるわけじゃないの。あくまで領域の中で、事象を組み替えて見せているだけよ」


 言い終えると、少し照れくさくなった。風が袖口を撫で、さっきまで水が浮かんでいた掌の上だけ、まだひんやりしている。


 ソレイユは何度も頷いた。何かを書き留めるものを探すように、視線が自分の袖口と、わたしの掌のあいだを行き来する。いま見たものを、ただ眺めただけで終わらせるつもりはないのだと、その落ち着かない動きが語っていた。


「ああ……本当にすごい。こんなに直感的で、それに綺麗な魔術があるなんて思わなかった。普通は呪文や魔法陣をいくつも重ねて、やっと動かせるものでしょう? それを、まるで自然とおしゃべりしてるみたいに扱うなんて……ミツルさんって、本当に不思議」


 宝物を見つけた子どものような弾み方だった。きらめく興味と歓びにつられて、わたしの笑みも自然と深くなる。


「観測と会話の中間……そんな言い方をしてもいいのかもしれないね。精霊子を感じ取って、集めて、それから場裏の中で、わたしなりにイメージを組み上げる。ごちゃごちゃした詠唱や魔法陣を省いて、結果を直に描くような感覚かな」


「……それ、たぶん、わたしにはどうやってもできないと思う。まず、精霊子を感じ取れないといけないんだから」


 ふいに、ソレイユはそう言って視線を落とした。けれど声はしぼんではいない。むしろ、その奥に静かな熱が宿っていた。彼女の靴先が土の上で半円を描き、すぐ止まる。


「でも、だからこそ知りたいの。どうしてああなるんだろう、とか、どういう理屈で成り立っているんだろう、とか。今見たものを、ただ綺麗だっただけで終わらせたくない」


 木漏れ日が、淡い茶の髪の上でやわらかく揺れる。見惚れたというより、何か大事なものを受け取ってしまった人の顔だった。


「わたし、ずっと魔術って、頭で覚えるものだと思ってた。術式を組んで、呪文を覚えて、正しい手順で動かすものなんだって。でも今は少し違う気がする。ちゃんと理屈はあるのに、それだけじゃ届かないものがあるみたいで……そこが、すごく気になるの」


 喉の奥が、かすかに揺れた。


 使いたいではなく、知りたい。奪いたいでも、真似したいでもなく、失われたものを言葉として受け取りたい。そのまっすぐさが、不思議なくらい沁みてくる。


「ただの伝説のまま……それで終わらせたくない、ってこと?」


「うん。失われたままにするんじゃなくて、ちゃんとわかる形にしてみたいの。どういうふうに世界を見て、どういうふうに術が立ち上がるのか。今はまだ何も知らないけど……それでも、知りたいって気持ちだけは、たしかにあるから」


 その言葉に、息が少しだけ遅れた。兵器でも、呪いでもなく、知りたいものとして受け取られること。それがこんなふうに、身体から力を抜いてくれるなんて思わなかった。


「……それで十分だと思う。できるかどうかより、知りたいって思ってくれることのほうが、今はずっと大事な気がするの。そういうふうに受け取ってもらえるだけで、救われることもあるから」


「……ありがとう。わたし、なにも使えるようになることばかりが大事なんじゃないって、わかった気がする。こうして見たものを、ちゃんと考えて、伝わる形にしていくことだって、きっと意味があるんだよね」


 その言葉に、思わずまばたいた。あまりに自然で、押しつけがましさがなくて、だからこそ奥のほうへまっすぐ届く。


 理で道を切り拓いてきた、お祖父さまの姿がふとよぎる。


――そうだよね。知りたいって気持ちは、きっと誰にも奪えない。


 ソレイユは、自分の掌をそっと開いて見つめていた。さっきの虹を、まだそこに探しているみたいだった。木漏れ日の明るさが指の節を淡く照らす。その横で、耳の奥に小さく震える声が響く。茉凜だった。


《《よかよか……》》


 耳の奥で、明るい調子が小さく笑う。うんうんと頷く気配に、思わずくすりとした。


「……ありがとう、ソレイユ」


 真っ直ぐな好意と、知りたいという気持ちは、すぐには受け取れなかった。あまりに無防備で、あまりにきれいな声だったから、ひとまず風の音へ預けるしかなかった。


 深淵の力と呼んできたものが、誰かの目に、こんなふうに映ることもある。呪いだと恐れていたものの端に、まだ虹の湿りが残っていた。


 遠くで時計台が時を告げた。通りには再び、授業へ戻る足音が増えはじめる。ソレイユはしばらく掌を見つめていて、わたしもまた、指先に残ったわずかな湿りを払えないままでいた。

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