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精霊族の遺産と学び舎の少女

 その日も、わたしは王立魔術大学へ向かっていた。


 特別聴講生という肩書きを与えられてはいても、講義に顔を出すつもりはほとんどない。目指すのは、いつものように大図書館だ。高い書架と古い紙の匂いに沈んだあの場所で、古記録を追い、いまのわたしたちへ繋がる細い糸を探す。そのために、朝のうちから鞘を抱えて石畳を渡っていく。


 わたしが大学の奥へ身を沈めているあいだ、ヴィルは王都へ出る。護衛役の名目をいったん外れ、西方大陸から流れ着いた難民たちの声を拾ってきてほしいと頼んだのは、ほかでもないわたしだった。


 海の向こうで何が起きているのか。クロセスバーナとバルファ正教の影が、どこまでこの世界を汚しているのか。紙の上から探るわたしと、人のざわめきの中へ踏みこんでいく彼と。辿る道筋は違っていても、追っているものは同じはずだった。


 朝の光を受けた大学の石壁は淡く白み、生徒たちの外套が門のあたりでゆるやかな色の波をつくっている。行き交う声の明るさに混じれないまま、わたしは肋の内側に沈んだ焦りをそっと押し込み、白い鞘を抱え直した。今日もまた、知らなければならないものがある。知らないままでは、きっとどこにも辿り着けない。


 正午が近づくころには、張りつめていた意識もゆるみはじめていた。栞を挟んで本を閉じ、わたしは食堂へ向かう。


 食堂の扉を押し開けた途端、昼休みのぬくもりがふわりと頬を包んだ。鍋から立つ湯気と、焼きたてのパンの香りと、煮込みのやさしい匂い。家庭の台所に似た熱が、空席の少ない広間いっぱいに薄く満ちている。木椅子の軋む音や、器の触れ合う澄んだ響きまで、どこか丸く聞こえた。


 わたしはカウンターでサラダとスープを受け取る。木のトレーは掌にしっとり馴染み、器の縁に触れた指先に、ほどよいあたたかさが残った。


 大きなテーブルへ紛れ込めば、見知らぬ声の輪にも自然に混ざれるのだろう。けれど喉の下がわずかに縮み、結局は隅の空席へ向かってしまう。トレーを胸元で抱え直し、椅子の脚が床をかすかに擦る音とともに、そっと腰を下ろした。


 たまには輪の中へ入ってみるべきなのかもしれない。けれど、わたしは客人の身の上だ。いずれ旅立てば、この学び舎からも離れていく。


 そうやって線を引いてしまうのは、きっと性分なのだと思う。


 前世で弓鶴と呼ばれていた頃、距離の取り方の拙さから、氷の王子様などという渾名まで背負わされたことがあった。いまのわたしも、案外たいして変わっていないのかもしれない。唇の端だけで、かすかに笑う。


 背もたれに身を預け、スープをすくう。立ちのぼる湯気が頬を撫で、まろやかな塩味が、凝り固まった頭の糸をひと筋ゆるめていく。


 談笑は硝子の向こうみたいに遠く、陶器の触れ合う小さな音だけが、ときおり近くで弾けては消えた。


 ふと、腰のベルトに下げた白き剣マウザーグレイルの存在を意識する。革越しの感触は確かで、視線がまったくないわけではない。総長の許可証があるぶん、咎められはしない。けれど、この白さは、どうしたってわたしを周囲から切り分けてしまう。


 革のホルダーの角が腰骨に触れる。そこにある、と確かめるみたいな冷たさだけが、衣の内側へ小さく返ってきた。


 ――また端っこで小さくなってる。……ま、気楽ではあるんだよね。


 そう思った矢先、視界の端で影が揺れた。


 顔を上げると、先日図書館で声をかけてきた少女が、どこか申し訳なさそうにこちらをうかがっている。肩で揺れる淡い茶の髪。トレーを抱える腕つきまで遠慮深い。


「あの、よかったら……ここ、相席しても大丈夫かな?」


 はにかんだ声に、肩の力がふっと抜けた。ついさっきまでの自分を思い出して、背中のあたりをそっと押される。


「……え、ええ。もちろん。荷物、ちょっと寄せるね。よかったらどうぞ」


「ありがとう」


 ぱっと明るくなる顔。向かいの椅子が軽く軋む。年の頃は、たぶんわたしとそう変わらない。皿の縁へいったん視線を落とし、釉薬の冷たさを指先でそっと確かめてから、あらためて彼女を見上げる。ようやく、微笑みが自然にほどけた。


「改めてこんにちは。わたし、ソレイユっていうの。このあいだは図書館で、急に話しかけちゃってごめんなさい。あなたが読んでた本がすごく気になって……それで、つい声をかけちゃったの」


 言い切ってから、彼女は口元を片手で押さえた。表情がくるくると移って、その愛らしさにこちらまでつられそうになる。


「ううん、全然気にしなくて大丈夫だよ。わたし、夢中になると本当に周りが見えなくなっちゃうから。声をかけてもらえて、逆に助かったくらい……」


 スープをひと口含む。喉を通る温度が、内側のこわばりをそっとゆるめていった。


「……わたしはミツル。よろしくね」


「ミツル。いい名前だね。えっと……ここには研究生として来てるのかな? 前にお見かけしたことがなかったから」


「わたし? ええと……そう、まあそんな感じかも。調べ物があってこの学び舎に来ているだけで、普通の生徒みたいに講義とか実習には出ていないんだ」


 ――立場を説明するって、やっぱり難しい。わたしの場合は、とくに……。


 離宮に養われ、グロンダイルという名がこの国では余計な意味を帯びる。総長と直に繋がっているなどと付け足せば、目立つに決まっていた。想像しただけで、好奇の針が肌へ触れる気がしてしまう。わたしは微笑を崩さないまま、視線だけ皿の縁へ逃がした。薄い水滴が、窓からの光を小さく弾いている。


「そうなんだ。……あ、聞いちゃいけないことだったらごめんね。わたし、ちょっとお節介なところがあるから。図書館でミツルさんが本を読んでる姿、すごく真剣だったから。つい、気になって見ちゃって」


 下がる眉の素直さが、かえって好ましかった。


「別に、気にしないで」


 それだけ返して、もうひと口だけスープを飲む。やわらかな塩気が、さっきまでの身構えをいくらか溶かしてくれた。ソレイユはほっとしたように息をつき、パンをひとかけらちぎる。焼けた小麦の香ばしさが、湯気の匂いにそっと混じった。


「そういえば、ミツルさんが読んでたのって、伝説上の神秘って呼ばれてる――精霊魔術の本だよね? 実はわたしも、あれにはちょっと興味があって。けど、ここって体系的な魔術や錬金術の教本はたくさんあるのに、精霊魔術に関する本はほんとに少ないんだよね……」


「そうかも。確かに精霊魔術の本って、ごく限られた書棚にしか置かれていないよね。使い手がもういないから、研究や検証も難しいって、よく言われてるみたい」


 ソレイユは身を乗り出した。昼の光が瞳の奥に宿って、紙の匂いまで袖口からこぼれてきそうだった。


「精霊魔術って、どうしてそんなに希少なものになっちゃったんだろう……?」


 わたしはスプーンを置き、一拍だけ間をとる。言葉を選ぶあいだ、窓の外で誰かの笑い声が細くほどけていった。


「……精霊魔術っていうのはね、ずっと昔には確かに存在していた術式なの。でも実際のところ、精霊族っていう特別な種族にしか、うまく扱えなかったらしいの。彼らがいなくなった今では、本当に使える人はほとんどいないみたい」


 口にした古い名が、湯気の中で熱を失う。精霊族。記録の上では幾度も読んだはずなのに、誰かへ向けて声にすると、その不在の深さが急に食堂の明るさへ滲んだ。


「精霊族……? その人たちって、どんな種族だったんだろう。暮らしとか、どんなふうに世界を見ていたのかとか、そういうのも気になっちゃうな」


 ソレイユのパンの皮が、指先で小さく割れる。ぱり、と乾いた音がして、彼女は自分でも気づかないくらい真剣な顔になっていた。


「残っている記録を読むかぎりでは、自然と調和しながら生きることを大事にしていたみたい。生きるための糧以外の殺生はできるだけ避けて、必要以上に自然を傷つけない。それができたのは……精霊子――自然の中に漂う微細なものを感じ取ることができたからなんじゃないかな」


 厳密には自然そのものというより、もっと細やかな情報の気配に近い。そう言い切りたくなる手応えはある。けれど、まだそこまで断じるには早かった。わたしは、その先だけをそっと呑み込む。


「すごい……。そんな力を持つ人たちって、どんな場所で暮らしていたのかな?」


「うん……森の奥や山の斜面、わたしたちから見るとちょっと遠い場所に、ひっそり住んでいたらしいよ。自然と調和して暮らすためには、なるべく外の世界とは距離を置く必要があったのかもしれないね。いらぬ争いを避けるために、人目につかない場所で慎ましく暮らしていたって……そんなふうに記されてるわ」


 言い終えるころには、食堂のざわめきが遠くなっていた。森の奥。山の斜面。紙に残されたその地名もない場所へ、ソレイユの想像が先に歩いていくのがわかる。彼女はパンを皿へ戻し、膝の上で指を組み直した。


「へえ……でも、どうしてそんな人たちがいなくなっちゃったんだろう?」


「ほんとのところは、誰にも言い切れないの。自然に寄り添いすぎて外の変化に弱かった、とも、災害で一気に数が減った、とも言われていて……どれも仮説のまま。今はね、草の根の伝承と、詠唱を要しない不思議な術の記録が、わずかに残るばかりなの」


 わずかに、という言葉の軽さが苦かった。手元のスープはもう熱を失いかけていて、器の白さだけが妙に明るく見える。


「だから幻みたいな扱いになるんだね。昔は確かにあったのに、いまはもう伝説……そこがまた、なんだか惹かれるんだよね」


 その目の輝きに、わたしの指も無意識にスプーンをゆるめた。遠いものを遠いまま仰ぐのではなく、本当に好きになろうとしている光だった。


「そうね。今では、ほとんど失われた術式と言っていいのかもしれない。精霊族がいなくなった以上、正統の継承は途絶えた。でも、遺跡や古い文献のあちこちに落ちた痕は残っていて……それをつなぎ直そうとする研究者も、まだ少しはいるみたい」


 腰の白い剣が、衣の下でわずかに触れた。遠い話をしているはずなのに、マウザーグレイルだけはいつも、こちらの身体に近すぎる。


「……じゃあ、ミツルさんは何か手応えを掴めそう? 精霊子について、何か感じたりできるの?」


 真正面からの問いだった。わたしはいったん視線を落とし、器の中で揺れるスープの表面を見つめる。ことばを急がないように、息をひとつだけ整えた。


「手応え……うん、少しはあるかも。精霊族の自然へのまなざしをなぞるだけでは足りなくて、わたしは術式の核にある精霊子――精霊のかけらみたいな存在の気配に触れられる瞬間を待つの。それを媒介にして、自分なりの術を積み上げてきた、そんな感じかな。だから……少しだけど、形にはできるかも」


 自分のことを話すと、途端に言葉の置き場がわからなくなる。スプーンの柄を親指でなぞると、金属の冷たさが爪の際へ短く沁みた。


「すごい……! それって、精霊族の名残を受け継いでるってことじゃないかな? もしかして、あなたは精霊族の末裔なの?」


 あまりにも素直な憧れだった。だからこそ、すぐには受け取れない。器の外側についた水滴がひとつ、ゆっくり下へ滑っていく。


「さ、さあ……それは。わたしのやり方は、本来の精霊魔術とはたぶん違う。独学で継いだ寄せ木みたいな術だし、まだ道の途中で……でも、精霊子の気配に耳を澄ます感覚だけは、手放したくない、かな」


「すごい。才能って、きっとそういうことを言うんだね。わたしには到底真似できないことだから……憧れちゃうな」


 憧れ、という言葉はわずかに眩しかった。わたしは思わず肩をすぼめ、冷めかけたスープの表面へ目を落とす。そこに映る顔は、たいしたものではないと首を振りたがっていた。


「そんなたいしたことないよ。むしろわたしは普通の魔術が全然だめで、発動条件の式や呪文、魔法陣――そういうのは頭では理解できるけど、肝心の魔石がまるで反応してくれないの。そんなわたしがここにいていいのかって、不安になることもあるし……」


「そんなふうに言わないで。できないことは誰にでもあるよ。でも、その代わりミツルさんにしかできないことがあるんだもの。それだけで、もうすごいよ」


 真っ直ぐすぎて、困った。ソレイユの声には、慰めようとする甘さよりも、見たままを差し出す無防備さがあった。


「そうかしら……」


「そうだよ。わたしなんて……何もかも中途半端で、いろいろ怖くて、なかなか一歩が出ないことばっかりだし」


 その言い方だけ、わずかに温度が落ちた。さっきまで瞳に宿っていた光の端に、自分へ向けたためらいが差す。食堂の遠い笑い声が、二人のあいだを薄く過ぎていった。


「……わたしも、以前はそうだったかもしれない。でも、興味を持つこと――それがきっと最初の一歩なんだと思う。大切なのは、知りたいとか、やってみたいっていう気持ちを手放さないことなのかも。探究心があれば、いつか道は開けるって、ある人に教わったの」


「探究心……うん。今、胸に小さな明かりが灯った気がする。ありがとう、ミツルさん」


 彼女の目がいっそう澄み、窓辺の光がテーブルにやわらかな縁を落とした。その笑顔に合わせるように、内側で小さく震える声が響く。茉凜だった。


《《うん、素直でいい子だよね。こういう前向きさ、わたしは嫌いじゃないな》》


 姿は見えないのに、その明るい調子だけで息がひとつ楽になる。近くでちぎられたパンの甘い匂いが、妙にやさしく鼻先をくすぐった。


「ねえ、もしよかったらなんだけど……今度、精霊魔術を見てもらえる場を用意できるかもしれない。理屈より、まず触れてもらうほうが伝わると思うから」


「本当に……? そんなチャンス、もらってもいいのかな。うれしい、ぜひ見てみたい」


 弾んだ声に、握った指先の嬉しさまで透けて見えた。


「興味を持ってくれるのは、わたしも本当に嬉しいし、きっとお互いの学びになるはず」


「ありがとう、ミツルさん。すごく楽しみだよ!」


 真っ直ぐな感謝を受け取るまでに、わずかな時間がかかった。すぐ胸の内へ仕舞い込んでしまうには、あまりに無防備な声だった。


 窓の硝子へ午後の光が斜めに差し、器の縁が細くひかる。食堂のざわめきは相変わらず続いていた。わたしは冷めかけたスープをもう一度すくい、匙が陶器に触れる小さな音を、しばらく聞いていた。


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