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旧クロセスバーナの残響―ミツルの探究録②

「あなたは一体誰なの……何が言いたいの?」


 自分の声が震える。舌が乾き、さっきまで紙と埃の匂いだけだった空気が、急に重く沈んだ。


《《美鶴……大丈夫? 震えてるよ?》》


 飲み込めなかった息が、喉の奥で薄くひりついた。


「気にしないで。大したことない。それより――あの紋章の意味が、なんとなく掴めてきたわ……」


 そう言いながら、わたしは唇の内側をそっと噛む。言葉を先に並べて、足もとを固めるしかない。


「システムを機能不全に追い込み、古代の文明を崩壊させたデルワーズは、彼らにとって……いわば『忌むべき』存在なんだと思う。そして……あの紋章とよく似た痣を持つわたしは……」


――憎むべき敵、ってことなんじゃないの……?


 布越しに、痣のあたりがじわりと疼く。その痛みが、押し沈めていた記憶をゆっくり持ち上げてきた。


《《でも、ロスコーの記憶にある彼女には、そんな印、なかったよね?》》


「それは……つまり、実戦配備される前だったから、とも考えられない?」


 指先で頁の端をなぞり、声の震えだけをどうにか抑える。


「たとえば力を使い、時間が経つほどに印が濃く現れてくるとか。――まるで、このわたしみたいにね……」


 言葉で自分を落ち着ける。心拍は高いままなのに、息だけが静かに細くなっていく。


《《じゃあ……あの幻視や声は?》》


 指先に残った冷えが、痣の疼きと妙に繋がって思えた。


「西方大陸で再興したクロセスバーナ。それが原因とは考えられないかしら。古い因縁の澱が、挑む形で浮いてきている……そんな気がするの」


《《うーん……それはどうだろう》》


「わかってる。こんなの根拠が薄いってことくらい。でも……そんな気がする。これは目印というか、烙印みたいなものじゃないのかって」


 長く息を吐く。吸い込んだ息が、喉の奥で冷えた。


《《でも、あなたに直接そんなものを送りつけられるのって、誰……?》》


「システム・バルファ……ラオロ・バルガス……とか?」


《《……その名前だけど、なんか語呂からして寒気がするよね》》


「……でしょ。わたしは巫女みたいに、精霊――つまりデルワーズの言霊は聞けないのよ。じゃあ、あんなことをこの世界の誰にできるっていうの? そう考えるしかないじゃない」


 背筋をなぞる寒気は収まらない。けれど、理屈を通す道だけは失くしたくなかった。


《《……うん、そうかもしれない》》


「『長い間、戦い続けていた』――彼女はそう言った」


 机の上の紙束へ視線を落とす。文字はそこにあるのに、焦点だけがわずかに遅れる。


「つまり、ラオロ・バルガスは終わってなどいない。彼女が精霊子の集合体として意識を保てたのなら、システムという器を奪われた彼も、どこかで灯りを保っているのかもしれない。そう思わない?」


 喉の奥で、言葉がいちど詰まった。


「だから、彼女は戦い続けるしかなかった。ここでも、わたしたちのいた向こう側でもない場所――世界と世界の狭間を越えながら。何千年か何万年か、そんなのわからないけど……」


 言葉はそこで止まり、沈黙が机上の紙束に積もる。ステンドグラスの光が淡く温度を変え、時間そのものがひととき固くなった。


《《美鶴……無理しないでね》》


 茉凛の声は、いつもより細い。わたしの内側の震えを映すみたいに、金属の響きも少し頼りない。


「大丈夫。ちょっと考えすぎただけ」


 ほんとうは、大丈夫ではない。けれど、ここで怯えに呑まれたくもなかった。


「……でも、どうしたって気になるのよ。あの声がいったい誰から発せられたものなのか。もし本当にラオロ・バルガスの残滓がわたしに呼びかけているなら――わたし、この先どうなるんだろうって……」


 古文書へ視線を戻し、小さな活字を一文字ずつ拾いなおす。集中しようとするほど、さっきの冷気が耳の奥へこびりついて離れない。深く息を吸い、頁をそっとめくった。


「……ねえ、茉凛。もしかしたら、クロセスバーナの裏には、ラオロ・バルガスの意思そのものが絡んでいたりするんじゃないかな。自分を復活させるために、信仰を通して人を動かしている可能性だってあるかもしれない」


《《それじゃ……本当に『神』か『魔王』みたい、だね》》


 隣卓の頁を繰る音が、やけに乾いて耳に残った。


 視線の端で、薄いノートの表紙が小さく揺れる。


 ここは大図書館。わたしたちの会話は独り言にしか見えないだろうが、隣卓の紙が擦れる音に混じって、人の息づかいは絶えず往来している。わたしの声も、自然と小さくなった。


「そもそも『神』って定義は、誰にとっても同じじゃない。一方では崇拝の対象で、もう一方では忌むべきものだったりする。だから、クロセスバーナの人々が追い求める唯一神バルファが――実はテクノロジーが生んだ化け物だったとしても、不思議じゃないでしょう?」


《《止めるか、破壊するか。あるいは別の道を探すか。デルワーズが立っていた岐れ道も、きっとそこだったのかもね……》》


「辛かったと思うよ」


 その名を口にすると、喉の奥に別の痛みが滲んだ。


「彼女、言っていたじゃない。絶対に死なないって。家に帰って、エリシアをいっぱい抱きしめるんだって……」


《《……うん》》


「彼女の写し身ともいうミツルが生まれたってことは、歴史は繰り返すってことなのかもしれない……」


 頁の余白へ落ちた彩光が、じわりと色を変える。


「今またクロセスバーナの名が囁かれはじめているのに、誰も根本的な解決策を見つけられていないんだから、じゃあ誰が立ち向かえばいいっていうの……」


 考えを沈めるように視線を落とした瞬間、茉凛の声音がわずかに急いた。


《《美鶴……いちばん大事なところ、確認させて》》


「わかってる。つまり――魔獣の巣窟、虚無のゆりかごとは……」


《《この世界の外にいる得体の知れない意思が、この世界へ差し向けたもの》》


「侵略のためのとっかかり――尖兵、なのかもしれない……」


 わたしは無意識に膝上の剣を握りしめる。柄の硬さが掌に食い込み、茉凛の存在が脈に合わせるように微かに返ってきた。


 世界を一度壊してから繋ぎ直す。それが彼らの設計思想だとしたら、混沌は作業工程の一部に過ぎない。


「狙いが唯一神バルファの復活なら、ラオロ・バルガスの遺志を継ぐ誰かが、魔獣を呼び入れて混乱を広げているのかもしれない。混沌のうちにシステムを組み直して、自分たちの神を頂点に据える――教義を、現実へ……ってね」


《《まるで、破壊こそが新しい秩序、ってやり口じゃない》》


「そうよ。そんなのが本当に成り立つのだとしたら、たまったものじゃないわ」


 声は抑えた。それでも、柄を握る手に力が入りすぎている。王家の血が担がされてきた役目が、いまも自分の体温の中で続いているのだと、骨の奥が知っていた。


「もし彼らが巫女や騎士を排除しようとしているなら、わたしたちが追い求める真実は、想像する以上の危険を孕んでいるかもしれない。それでも踏み込まなくちゃいけないのかしら……」


 握りしめた柄の硬さが、遅れて掌へ痛みを返した。


 そのとき、視線の先で、わたしと同じ年頃の女学生がこちらを見て、はっとしたように目を伏せた。


 彼女は小さく頭を下げ、ノートの端をぎゅっと握りしめている。紙の角が指に白い跡を残していた。さっきから、隣卓で頁を繰る音が妙に近いと思っていたのは、この子だったのかもしれない。


「あ……す、すみません。変な視線送っちゃって。その……もしよかったら、何を読んでいるのか教えてほしくて……」


 知らない相手の声は、この静けさの中で思いのほか大きく届く。わたしはぎこちない微笑みで頷き、机上の紙束に指を置いた。触れた端が体温に湿り、わずかに柔らかくなる。


「……ごめんなさい。ちょっとね、古い伝承を調べていたの。あまり大きな声で言えない内容なんだけど、手がかりになりそうなものを探していて」


 彼女の瞳は、危険な研究より、魅力的な冒険譚を映しているのかもしれない。その透きとおった好奇心に、肩へ入っていた力が少しだけ抜けた。


《《ここはやさしくいこう。……うん、その笑顔》》


 茉凛がくすっと笑う。鍔が一瞬だけ温む気がして、わたしは意を決して少女へ向き直った。


「詳しくは言えないけれど、いつか一緒に調べる機会があるかもしれないわ。興味があるなら、また図書館で会いましょう」


「はい、ありがとうございます。その時は、どうぞよろしくお願いします。それでは、また」


 少女は嬉しそうに微笑み、ノートを抱きしめて去っていった。高い天井に落ちるステンドグラスの模様が、風のない空気のなかでゆっくりと色を変える。


 わたしは小さく息を吐く。肺の底へ涼しい気配が落ち、肩の緊張が一枚剥がれた。


「いろいろ想像は膨らむけど、やっぱり今ある資料だけじゃ真相にはほど遠いよね。もっと文献を掘り下げないと。それに、この世界の歴史、政治、経済、そのほかにも……知らなきゃいけないことが山ほどある」


 膝の上の白い刀身を、そっと指先で撫でる。金属の肌理は細かく、冷たい波紋だけを静かに残した。ここにしかない対話が、体温のかすかな移ろいで続いていく。


「……でも、茉凛の視点や意見は本当に助かるわ。一人で考えていたら、こんなの頭が沸いちゃうもの」


《《だったら、そろそろ休憩しよ? 美鶴の目、しばしばしてるよ。甘いものでも食べて、一息つこ?》》


 茉凛の声に、少しだけ日常の温度が戻った。


 わたしは資料の背を見やり、喉の渇きをようやく自覚した。砂糖の記憶が、舌の上にうっすらと溶けていく。


「うーん……わかった。でも、あと五分だけ。ちょっとでも前に進めたいの。見て、こことか……」


《《だーめ。五分とか言って、気づけば一時間とか……それがいつもの美鶴じゃないの。今は休憩、ね? 頭には甘いものが一番だよ》》


「ふふ……」


 そのおねだり口調に、思わず笑う。もし茉凛がいなければ、わたしはきっと孤独に煮詰まって、肝心なところで折れていた。


「わかったってば。じゃあ一区切りつけるね。……わたしも甘いものほしい。そういえば、購買部に新しいスイーツが入荷されたって聞いたことある?」


《《うん、さっき廊下で聞いた。“ハニーフィズケーキ”。希少種の蜂蜜を使ってて、疲れがすっと抜けるって》》


「いいね。それはぜひ試さないと。……よし、決まり。続きはあとで読もう。行こ、茉凛!」


 ぱたん、と古文書を閉じ、背筋を伸ばす。紙束の重みがいったん腕から抜け、石床の冷気が足裏を洗った。


 積み上がった資料はまだ山脈のままだけれど、頭は息継ぎを必要としている。システム・バルファとクロセスバーナ、マウザーグレイルの共振、そして崩壊へ至った系の正体。探るべきものは、確かにここにある。


《《ねえ、美鶴。もし真実にたどり着けたら……どうする?》》


 茉凛の問いは珍しくまっすぐだった。指先の冷えが少し和らぐ。


「……わからないよ。でも、知らないまま後悔するのはどうしてもいや。怖くても、ちゃんと向き合いたい。それがわたしなんだし。……ま、損な性分ね」


《《……そっか。わかった。でも、まずは甘いもので少し元気を足そう。続きはあとあと》》


「うん。よーし、行こう」


 剣をひょいと手に取り、椅子を静かに引く。石の目地が靴底を軽く叩き、長い回廊に微かな反響が広がる。ステンドグラスの光は淡く肌を撫で、指先の冷えを少しだけ溶かした。


《《……ねえ、美鶴?》》


「なあに?」


《《わたし、美鶴ががんばるなら――どこまでだって付き合うよ。できること……なんだってするからさ》》


 なぜだろう。茉凛の声が、少し揺れているように感じた。


「ありがとね、茉凛……」


 剣を抱え直し、静かに歩を進める。知らないままでは、また同じ場所で立ち止まってしまう。


 そう思うと、剣を抱える腕に自然と力が入った。


 解くべき結び目は多い。問いは、次の問いを連れてくる。それでも、足を止めるつもりはなかった。


 ステンドグラスの淡い光を背に、わたしは茉凛とともに図書館を出る。


 扉が静かに閉じる音だけが、長い余韻を残した。


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